92 / 152
礼二の過去と体の異変【5】
しばらくしてガタンと物音がしてこちらに誰か近づいてくる足音が聞こえた。
診療所の扉にかけられた鍵が開錠される音が聞こえて、ゆっくりと扉が開かれ中にいた人物が顔を覗かせた。
その人は眠そうな目で、乱れた銀髪をぐしゃぐしゃとかき乱して、翼の顔を見るなり盛大にため息を付いた。
「あんだ、こんな朝っぱらから……くしょっ……結局、徹夜で一睡も出来なかったじゃねえかよ……」
欠伸をして気だるそうに言う保健医を見て、悪いとは思ったが、翼は礼二の容態が急変した事を彼に伝える。
「朝早くに、すいません……礼二が……いや、兄の調子が今朝、急に悪くなって……とにかく診てやってください、お願いします!」
「あんだ、また兄の方がなんかやらかしやがったのか!」
和彦はいぶかしげな表情をして翼の背後に立っている光矢の肩に担ぎ上げられたままの礼二を見る。
左胸を爪先で抉るような行為で怪我をして、やらかしたには違いないのだが、それが原因で容態が悪化したのかどうかは見てもらわないと分からない。
「はあ……とりあえず、診察室まで兄の方をつれて来い。
まだ、診察時間外だが、診るだけ診てやっから、さっさとしやがれ」
眠そうな目を擦りつつ、診療所の扉を全開にして礼二を中へと運び込むように光矢を促して、翼の肩を叩いて言った。
「ありがとうございます!」
翼は和彦に礼を言って頭を下げて気が緩んだせいか目尻に少しだけ浮かんだ涙を手の平で拭った。
和彦は相変わらず眠そうな目をしていて、疲労の浮かぶ表情をしていたが、翼に礼を言われて、ふっと口端に笑みを浮かべた。
こういう表情をしているところをみると、一瞬だけ歳相応の疲れの見え始めた中年男性に見えたりするものだから、余計に悪い事をしたような気になる。
昨夜は徹夜だったといっていたから、誰か他に運び込まれた病人でも見ていたのかもしれない。
翼はそんなことを考えながら、診察室へと向かうために、先を歩く保健医の後をついていった。
礼二を抱えたままの光矢もすぐそのあとについてきている。
結局、礼二を診察室まで彼に運んでもらう事になってしまった。
光矢にはあとで改めて礼を言わなければならないな……。
そんな事を思っているうちに一行は診察室の前へと到着した。
光矢に肩に荷物のように担ぎ上げられたままの礼二は、体の内側からくる、酷い痒みを我慢するのに必死で診療所に付くまでに、一言も言葉を発していない。
身体を小刻みにもぞもぞと動かして、痛痒さに眉根を寄せて、辛そうな表情で翼の言いつけを守ろうと、必死になって耐え続けている礼二の額にはじんわりと脂汗が浮かんでいた。
かなり辛そうだ……翼は心配になり光矢の肩に担がれている礼二の額を手の平でぬぐってやった。
和彦が鍵を開けて、診察室の扉を開いて、翼たちに中へと入るように手振りで促した。
「すぐそこにあるベットに兄の方を寝かせてくれ」
和彦に言われて、光矢は肩に担ぎ上げていた礼二をそっと下ろして、ベットへと仰向けに横たわらせた。
和彦はシーツに包まれている礼二の身ぐるみを剥がして診察するためにあっというまに裸にしてしまった。
服を脱がせるのは処置をするために数え切れない程しているだけあって衣服を脱がせる速さが尋常じゃない。
光矢が見ている前で礼二が裸にされてしまい翼は内心焦っていた。
以前の自分であれば礼二の肌が自分以外の誰かの前でさらされる事に何も感じなかったはずなのに、今はなぜか自分以外の男にはできるだけ礼二の肌をさらす事はしたくないと思う。
礼二が誰か他の男に抱かれて、嫉妬して身勝手な独占欲が自分の中にあると言う事を自覚したからかもしれない。
光矢自身は礼二が目の前で裸に剥かれた事には特に興味を示さず、物珍しげに診察室の内装をきょろきょろと眺めていた。
礼二の口の中を見て、爪先で抉った傷口と腫れた周囲に飛び散った血を拭き取って和彦が処置しているのを翼は緊張した面持ちで見守っていた。
「……にしても、また派手にやりやがったな」
そう言いながら傷口に薬液が染み込んだガーゼを貼り付けて、さらにその上にまたガーゼを乗せて処置してから包帯をぐるぐると巻きつけていく。
口の周りや指先が赤くなって腫れているのも見て、礼二がどうしてこうなったかを把握して翼にそれを告げた。
「おめー、兄の方に昨日、なんか、余計なもん飲ませやがっただろう?」
和彦は振り返りざまに翼を指差して、やや呆れ顔でそう言った。
余計なもの……礼二に飲ませた余計なもの……心当たりはあるにはあるがそれを光矢もいる前で言うのはさすがに躊躇われる。
しかし、そんなことを逡巡しているうちに礼二の容態が悪化してしまうかもしれない。
翼は仕方なく和彦の問いかけに頷いて、それを肯定した。
「やっぱり、ああいうのは飲ませたらダメなのか……」
「たりめーだろ! 今度からせいぜい気をつけるようにしろ」
「すいません」
「で、何を飲ませたんだ?」
改めて和彦にそう聞かれて翼は耳まで顔を真っ赤にして聞こえるか聞こえないかギリギリの小声でぼそぼそと答えた。
「せ……せぃ……精液」
翼がか細い声でやっとの思いでそう答えたのを聞いて和彦は一瞬だけ固まって、その意味を理解したのか頬を赤く染めた。
「違う! なんか市販の薬を相談もなしに飲ませたんじゃねーかと聞いている!」
そう声を荒げて吐き捨てるように言う和彦の台詞を聞いて、自分がとんでもない勘違いをしていることに気が付いて、翼は頬が余計に熱くなるのを感じた。
漫画であれば湯気が出ていそうな程に顔を真っ赤にした翼は、和彦に聞かれた事にしどろもどろになりながら答えた。
「飲ませっ……せいし……じゃなくって……ドラッグストアで買い込んでおいた解熱剤を……!」
翼が早口で混乱しながらそう答えるのを聞いて和彦はため息を付いた。
「原因はそれだ。それの副作用で、痒くなったり、腫れたり、水泡が出来たりする事がまれにあんだよ」
和彦のその言葉を聞いて翼は自分が早まった事をしてしまったと反省した。
「市販品の薬を飲ませる場合は、飲ませる前に飲ませても大丈夫なもんかどうか、説明書と現物を持ってきて医者に見せろ。
大丈夫かどうかちゃんと調べてもらって確認してから飲ませるようにしろ」
礼二は昔から体は強い方ではなく、両親が豆に病院に彼を連れて行って見てもらい、市販品の薬などは厳重になぜか鍵をかけて管理していた事を思い出した。
礼二はデリケートで合う薬と合わない薬があって、ヘタなものを飲ませると副作用を起こしやすい体質だった。
それを翼は一切、聞かされていなかったのだから今回の件はしかたない。
礼二の風邪が早く治るようにと口移ししてまで飲ませた風邪薬が結果的に礼二を苦しめる事になるとは予想すらしていなかった。
「すいません……まさかこんなことになるなんて」
「まあ、今回は仕方ない。次からは気をつけるようにしろ」
そんな話をしている間も和彦は礼二の背中を片手で抱えて少し浮かせた状態で、作業を続け、包帯を厳重に巻きつけ終わり、一息ついた。
これ以上引っ掻き傷を増やさせないようにするためだろう。
「このまま半日くらい兄の方を借りるがいいか?」
和彦にそう聞かれて翼はそれを了承して頷いた。
「は……はい。よろしくお願いします。」
翼がそう言うのを聞いて和彦は、ひらひらと手を振って、翼と光矢に外に出るように促した。
「全部、終わるまでしばらく掛かるからそこら辺を散策するなり、廊下にある椅子に腰掛けて待つなりしていろ」
翼はともかく、でかい図体の光矢もいては小さい診療所だけに診察室はひどく窮屈に感じる。
翼は礼二に声をかけて、和彦の言う事を聞いて、ちゃんと大人しくしているように言い聞かせた。
「礼二……辛いかもしれないが、和彦先生の言う事をちゃんとよく聞いて大人しくしてるんだぞ」
翼にそう言われて礼二は、涙目になりながらも頷いた。
「傍にいて欲しい」と目が言っているが、和彦の邪魔にならないようにと翼は後ろ髪を引かれる思いで、光矢と共に診察室の扉を開いて退室していった。
廊下に出て、二人して何をするでもなくただ無言で顔を見合わせて佇む。
翼が和彦に礼二を任せて、ほんの少し気が抜けたせいか、放心状態だったのを、光矢がただなんとなく見ていた。
そんな中でふいに翼の腹の虫がぐうと音を立てた。
自分の腹が音を立てたのを聞いて、翼が我に返り、頬を赤くして慌てて胃がある辺りを押さえてそれを止めようとした。
「腹が減ってんならまず腹ごしらえしたほうがよくね?」
翼の腹の虫がしっかり聞こえていたらしい、光矢にそう言われて、恥ずかしさから翼は頬を赤く染めたままで、眉根を寄せつつも頷いた。
「そうだな……兄貴の診察が終わるまでにまだしばらく掛かるみたいだしコンビニにでも行って何か買ってくるか……」
翼が光矢に言いながら背後を振り返ると、よく見知った人影が見えた。
その人影は黒髪に鳶色の双眸を持つ長身の美丈夫で、翼がもっとも苦手とする人物かつ天敵だった。
天上院真澄……彼は赤髪に金色の双眸をした、小柄な少年……小林龍之介を背負って手洗いから今しがた、出てきたばかりの所だった。
真澄の黒いオーラは相変わらずで、翼を萎縮させるのだが、彼に背負われている龍之介の様子がおかしい事の方が気になった。
彼は無駄に元気で明るい印象の少年だったはずだが、目がうつろで生気が無いような、まるで別人のような状態で、酷い違和感を感じた。
翼の顔を見て目が合った龍之介は口をぱくぱくと動かして何かを伝えようとしている。
「…………」
唇の動きを見て、それが朝の挨拶であることを理解した翼は龍之介に挨拶をしかえした。
「龍之介、真澄、おはよう」
真澄がいるのに龍之介だけに挨拶するのもわざとらしいと思った翼は一応、真澄にも挨拶をした。
ともだちにシェアしよう!