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脆く儚き人の精神〜真澄と龍之介〜【1】

    天上院家に名を連ねる者としては、例えどんなにいけ好かない相手だとしても、最低限の礼節はわきまえなければならない。  翼に挨拶をされて、それをあからさまに無視をすると言う事も出来ずに、真澄はしぶしぶと重たい口を開いた。    「おはよう……」  翼と光矢のいるすぐ脇を通り抜ける時に真澄は不機嫌そうな声色で一応、上辺だけの挨拶を返す。  朝の挨拶を返しつつ翼を見る真澄の眼光は鋭く、目が据わっているように見える。  龍之介のお気に入りで、虎次郎にそこはかとなく似ている、美空翼と言う存在を真澄は敵視している。  虎次郎と龍之介をせっかく引き離したのに入学式の初日から虎次郎にそこはかとなく似ている翼になにかしら絡もうとする龍之介を見ていて嫉妬と不満を募らせていた。  龍之介に無条件で好かれて慕われている相手がうらやましくそして妬ましい。  どうして自分は龍之介に好かれないのか?  小柄でも可愛らしくもない自分は龍之介の好みから外れているから?  本当にただそれだけなのだろうか?  好きな相手の心を手に入れることが出来ないのであれば身体だけでもと、今まで強要していた行為が、彼を傷つけるような言葉が、負荷となり、龍之介の精神を、少しずつ蝕み続けていたのだろう。  真澄は龍之介が声を出せなくなってからすぐにこの診療所へと駆け込んだ。  ちょうど、身支度を整えて職員寮へと帰宅しようとしていた和彦に龍之介を診てもらい、相談した。  真澄は龍之介の異変を公にはしたくないと思い直して、学園外の総合病院にいる専門の医師に診せるだとかそう言うつもりは既になかった。  和彦にも龍之介の両親や天上院家の関係者には龍之介の異変を黙っているように頼み込んだ。  頼んだというよりは半ば脅したような形で口止めしたのだが、どちらでも大差ない。  和彦の見解では、精神的な負荷による一時的な失声症ではないかという事だったが、いつぐらいに治って、声が出せるようになるかまでは分からないという答えだった。  悪化しないように出来るだけ精神的な負担を減らして療養して、とりあえず今はまだ様子見するしか手はないようだ。  気が滅入っている時は、身体に影響を及ぼし、不調になりやすい。  一応、弱っている身体を持ち直させるために気休めではあるが、免疫力を上げる為に、点滴をしてもらうことにした。  真澄と組み手をした後で強要された行為による疲れからか、龍之介はベットに寝かされてすぐに深く眠り込んで、すやすやと寝息をたて始めた。  自分よりも幾分、小さなその手をぎゅっと握り締めて、目を覚ますまで、起きてる時よりさらに幼くあどけない龍之介の寝顔を見ながら、真澄はずっと朝まで寝ずに彼の傍に付いていた。     ベット脇に備え付けられた椅子に腰掛けて、龍之介の寝顔をただ悲しげに眉根を寄せて見ている、真澄のその背中がなぜか頼りなげな、歳相応の少年のように小さく見え、泣いているように和彦には見えた。  同年代の息子がいる親としてはそんな不安定な状態の彼を放っておく事は出来そうにない。  それに龍之介と真澄だけを残して診療所を無人にする訳にもいかない。  結局、和彦も真澄達に付き合い、昨夜から一睡も出来ずに朝まで徹夜する事になった。  明け方になって、深く眠り込んでいた龍之介がゆっくりと瞼を開き目を覚ました。    一晩、ゆっくり眠って目覚めた時には龍之介の失声症が治り、元通りの彼に戻っているのではないかと望みをかけて真澄は、徹夜をしたせいか、いつもより幾分掠れ気味の震える声で、龍之介に声をかける。 「龍之介君、おはよう。気分はどうだい?」  できるだけ穏やかな声色で、彼をおびえさせないようにと自分らしくもない気を使い、朝の挨拶をして、体の具合はどうかと聞いた。 「…………」  龍之介は真澄の声がするほうを向き、口をぱくぱくと陸に打ち上げられた魚のように動かすが、やはり、声は出ていない。  口の動きでなんとなく彼が言っている言葉を把握する事はできる。  ゛おはよう゛  真澄がした挨拶に龍之介は声は出ていないが律儀に答えてくれた。  龍之介の大きな瞳からは光が消え、表情も能面のようにぴくりとも動かない。  まるで生気が感じられない。  以前の龍之介からはまるで想像が出来ない変わり果てたその姿を見て、真澄は両手で顔を覆い、肩を落とし項垂れる。  心が手に入れられないのなら身体だけでもいいと、そう思い彼を傷つけるような言葉をぶつけ、相手の意思を尊重せずに無理矢理力でねじ伏せ言う事を利かせてきたツケがこんな形になって返ってきた。  彼の心が壊れても身体さえ手に入ればそれでいいと、誰かのものになる彼を見るくらいならそのほうがまだマシだと思っていたのに――  なぜ、どうしてこんなにも胸が苦しい……彼の声を聞けないことが、彼の笑顔を見ることが出来ない事が、こんなにも辛いなんて……。  失ってから、初めて当たり前のように自分に向けられていた声が、笑顔が、かけがえの無いものであったと言う事に気が付いた。  壊れた龍之介の抜け殻を抱いて、彼の全てを手に入れたような気になって、それで自分は本当に満足だったのだろうか?  龍之介は過去にした約束を反故にして、心無い言葉を口にした。  約束は無効だと言い、今の姿になって戻ってきた真澄を受け入れてはくれず、拒絶した。  けれど、それでも、真澄を天上院家の跡取りという肩書き無しに、真澄を真澄として素のままで接してくれたのは、今も昔も龍之介だけだった。  彼は、ただ、自分の気持ちに正直だっただけなのだ。  真澄と正面から向き合い、なんの裏もたくらみもなくただ素直に、あるがままに接してくれた者は後にも先にも龍之介しかいなかった。  そう、だから、自分は約束を反故にされても「今のお前は好きじゃない」と突っぱねられても、龍之介の事をどうしても嫌いになれなかった。  それどころか、どんどん、彼に惹かれていき、気がつけば前以上に龍之介の事を好きになっている自分に気が付いた。  自分だけが、自分ばかりが、こんなにも狂おしい程に龍之介を欲し、愛していて、彼の事で頭がいっぱいで、際限なくどんどん膨れ上がっていく想いを、歪んだ愛情を、自分の中だけで消化することができずに、全て彼にぶつけてしまった。  彼を傷つけるような言葉でなじり、怒りをぶつけ、お仕置きと称して何度も乱暴に抱いた。  その事を今更、悔いても、以前の彼は、もうここにはいない。  治る見込みは0%じゃないにせよ、龍之介が以前のように、元通りになるかどうかさえ分からない不安に、押し潰されそうだった。  龍之介をこんな風にしたのは、こうなる事を望んでいたのは自分じゃないか……。  なのに、なんで、こんなにも胸が……痛いんだ。  項垂れて胸を押さえて沈黙している真澄を見て、龍之介は何を思うのか……。  項垂れているせいで長い前髪に隠れて、龍之介からは表情がよく見えないが、真澄は眉根を寄せて、今にも泣きそうな顔をしていた。  そんな真澄が龍之介には哀れで滑稽な姿に見えていた。  いつも尊大で自信に満ち溢れていた彼からは、今の真澄の姿は想像が出来ない程に弱々しかった。  動揺を隠しきれず、感情の揺れが激しく、不安定な状態の真澄とは逆に、龍之介は自分の気持ちがまるでどこかへ消えてなくなってしまったように空虚だった。  まるで自分が自分でなくなってしまったような不思議な感覚がして、けれどそれに対して、悲しいだとか、こうなったのは、何故?どうして?そう言った感情や疑問さえも何もない。  龍之介が望んでいる事をしてやっていると言った真澄の言葉が、少しずつ追い詰められて、自分自身ですら気が付いていなかった、ギリギリ限界のところで保っていた彼の精神に決定的なダメージを与えた。  自分の中で何かが壊れるような音を聞いて、龍之介は声を出す事が出来なくなった。

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