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脆く儚き人の精神〜真澄と龍之介〜【2】

    真澄は、俯いていた顔を上げて、虚ろな表情でただこちらを見ている龍之介を自分の胸へと壊れ物を扱うようにそっと引き寄せた。  真澄に抱きしめられても、口付けられても、彼は、逃げないし、なんの抵抗もしなかった。  和彦が背後のデスクで書類整理をして時間を潰している。  自分達以外の第三者がいる時に、真澄に抱きしめられたり、口付けられたりするのを以前の龍之介であれば嫌がり、抵抗して拒んでいた。  だが今の龍之介はそれすらもせず、ただ真澄にされることをされるがままに受け入れている。  何をされても、されなくても、今の龍之介には同じ事だった。  虚ろになった彼の小柄な身体を抱え上げて、自分の背中へと持たれかけさせて、龍之介を背負い、真澄はその場で立ち上がる。  ここでいつまでもこうしていても、事態は何も変わらない。  自室に戻り龍之介を療養させようと真澄は彼を背負い診察室を出て行った。  その後ろ姿を和彦はただ静かに見送って、深いため息を付いた。    精神的なものからくる病は、こうすれば絶対に治るという決定的な治療法がないのが現状だ。  真澄に酷い言葉でなじられても、乱暴にされても、虎次郎に合い、たわいのない会話をして、触れ合う事で、心に負った傷を幾分か軽くして、癒していた龍之介にとって、虎次郎と引き離された事実は、本人は気付いてはいないが、かなりの痛手だった。  虎次郎は龍之介にとっての精神安定剤の役割をしていた。  龍之介を無条件で慕い、彼の全てを認めてそして受け入れてくれる。  自分を頼ってくれる龍之介の背丈よりも、幾分小さなその少年の存在は、実はとても大きかった。  龍之介の心の支えとなっていた虎次郎の存在が近いところになくなってしまった事で自分でも気が付かないうちに龍之介の精神状態はバランスを崩し、今回の失声症を引き起こしたのだ。  真澄から意図的に虎次郎の存在も、何も聞かされていない、和彦はそれを知らず、分かりようがなかった。  (彼にとっての救いとなるものや支えとなってくれる者がいればあるいは……)  そんな事を考えながら、和彦はカルテ整理をするときに使用しているデスクの椅子から立ち上がり、やっと寮に帰って寝られると思い、軽く固まった肩を解して伸びをした。  ――が、その矢先に診療所の出入り口の扉を激しく叩く騒音が響いてきた。  翼が容態が急変した礼二と彼を荷物のように抱えた光矢を連れて診療所へと駆け込んできた。  ――そして、今現在、気分が悪くなり、えずいて苦しそうにしていた龍之介を手洗い場まで抱いて連れて行き、洗面所で吐かせてから、その場を後にした真澄は、廊下でちょうど翼達と遭遇して朝の挨拶を交わしていた。  見るからに不機嫌そうな真澄に、話しかけるのは恐ろしくて、翼にはとても出来そうにない。  早足で龍之介を背負った彼が、通り過ぎようとするのを翼は引き止める事が出来なかった。  いろいろと聞きたい事や気になる事があるにはある。  龍之介の様子がおかしくて何か違和感を感じる。  まだ会って親しくなってから二日しかたっていないが、それでも龍之介の性格は大体把握できている。  無駄に明るく前向きで元気な奴だと翼は龍之介の事をそんな風に思っていた。  よくも悪くも熱血で、嘘がつけないのかつい思ったことを口にしてしまい墓穴を掘る。  いや、正確に言えば龍之介は掘られる側なのだがそれはまた別の話だ。  その癖全然懲りないし、反省はしても同じ過ちを何度も繰り返す。  初日に初めて入る教室に勢い良く飛び込んで、教壇前でかっこよくポーズを決めて大声でクラスメイトになる生徒たちに挨拶をして場の空気を凍りつかせたほどだ。  そんな彼が、こちらに聞こえないような小さな声で挨拶をしたという事実だけで酷く違和感がある。  うるさいくらいの大声で挨拶をしそうなものだが、今、真澄に背負われている龍之介は明らかに元気が無く、弱っているように見えるのだ。  昨日、真澄と龍之介がしていた行為を翼は不本意ながら一部始終を見ていた。  真澄に無理矢理された行為は、目を背けたくなるほどに酷くて、あんなことをされれば誰だって具合が悪くなるか精神的に参ってしまってもおかしくはないのではないかと思って心配していた。  いくら、見た目と違いタフな龍之介でもあそこまで酷い事をされれば、気が滅入ってしまってもおかしくはない。  心配していた事が現実になってしまったのかもしれない。  翼は心配げな表情をして、通り過ぎていく真澄に背負われた龍之介を目で追いかけて見送った。  ――のだが、何を思ったのか翼の隣を通り過ぎた先に立っていた光矢が真澄に声をかけた。 「ますみん、りゅうちゃん、おはようさん!」  真澄と龍之介に馴れ馴れしいあだ名をつけた上で、光矢が満面の笑みを浮かべ、二人に向かって挨拶をした。  真澄はそれを聞いて足を止め目を見開いて固まっていた。  背負われている龍之介は挨拶を返そうと唇を動かしているがなぜか声が出ていない。  光矢は誰にでもすぐに、馴れ馴れしいあだ名を付けて呼ぶらしいと言う事が、この一件で明らかになったのだが、相手が悪すぎた。  真澄は明らかに不愉快だと言わんばかりのオーラを全身から発して怒りに肩を震わせている。  翼は恐ろしさのあまりすぐにでもこの場から逃げ出したかったがそれも出来ずに、冷や汗をかきながらその場に踏み留まり、修羅場を緊張した面持ちで静観していた。     どのような相手にでも礼節をわきまえないといけないのは分かっている。  ――分かってはいるのだが、ものには限度というものがある。    徹夜をしたせいでただでさえ寝不足でイライラしていた真澄の怒りは、光矢の馴れ馴れしい態度とおかしなあだ名を付けられて呼ばれた事により一気に限界を突破して沸点にまで達した。  禍々しいオーラを放出しているのが見えるような錯覚がして、翼はあまりの恐ろしさに身体が勝手に動いてしまいその場を離れようと無意識に後ずさりしていた。  そんな空気を読まず、光矢にはオーラが見えないのか、平然とした態度で真澄に近づいて話しかける。 「俺っち、あんたらの事はアッちゃん(手塚先生)に聞いてっから、知ってんだけどこっちの自己紹介まだだったよな? 俺っちは同じ一年でF組に所属してる吉良 光矢っちうんだ。 よろしくな!」  明るい声色でそう自己紹介してきた不届き者を射殺さんばかりの鋭い視線で真澄は睨みつけるが、光矢には効果がなかった。  真澄に対する畏怖や近寄りがたさなんかをまったく感じないのか、吉良光矢という人物はへらへらとした態度を崩さない。  かなりマイペースな男のようだ。  こちらのペースを無視して馴れ馴れしく接してくる相手は真澄がもっとも苦手とするタイプだった。  従姉弟にそういう女が一人いるが真澄は彼女の事を出来るだけ避けて関わらないようにしていた。  しかし、その従姉弟の女はそんな真澄の心情を知らずに逃げようとする真澄の背中を追いかけて、何かと絡んでこようとしてきたものだ。  そんな過去の経験もあってか、真澄は不機嫌な態度を崩さずに光矢の自己紹介に答えた。 「……よろしく」  真澄はそれ以上はもう話す事も無いと言わんばかりに光矢の横を通りすぎようとした。 「りゅうちゃん、よろしく! ほい、握手!」  しかし、そんな態度もまったく気にせず、横を通り過ぎようとした真澄の背中に負ぶさっている龍之介に握手を求めて光矢は手を差し出した。  差し出された手に答えて自分の方に伸ばされた龍之介の小さな手を掴み、ぎゅっと握って繋いだ。    それを見た真澄が恐ろしい形相をして光矢の手を力任せに振り払い、激昂した。 「僕のものに勝手に触れるなあぁっ!!!」   怒りを露にした鬼の形相で、大声で悲鳴のようにヒステリックに叫んだ真澄を見て、光矢はさすがに驚きを隠せず、ここにきて始めて少しばかり焦った様子を見せた。   「ふおおお……っくりしたー。耳の鼓膜が破けるかと……」  真澄の怒声を至近距離で聞かされた光矢はガンガンと響く頭を片手で抑えて、へらへらとした態度はやはり崩さずにそう言った。     叫んだ後もハアハアと息を荒げて、興奮状態が続いているのか、真澄は身のうちにわだかまる怒りを抑える事が出来ずに、わなわなと肩を震わせている。  翼は今にも真澄の怒りがまた爆発しそうな緊迫した状況に耐え切れずに、逃げ出して近場にある待合室のソファーに身を隠して様子を伺い見る。  ドゴォッ!  ガッシャアァァァーン!!!  真澄は怒りを静める為に、龍之介を片手で背負った状態のまま拳を白い壁に打ちつけて、壁の一部を破壊して、近場にあるものを手当たり次第に蹴り飛ばしてから、その場を後にした。  壁と椅子を破壊するすさまじい騒音が診療所内を響き渡り、診察室で礼二を診ていた和彦が何事かと慌てて廊下へと様子を見に飛び出してきた。    「うるせえぇぇ! オメーら何騒いでやがんだ……って、う、うわああああぁっ!」  様子見に廊下へと出てきた和彦が見たものは、ヒビが入り凹んだ壁と待機用の椅子がバラバラに砕かれ破壊されて残骸が散乱している地獄絵図だった。 「バッカヤロオォォーッ! お前ら、この壁と椅子だけで幾らすると思ってやがんだっ! 今すぐ弁償しやがれ畜生ッ!!!」  破壊された壁のすぐ近くに立っていた光矢の胸倉を掴みながら和彦がそう言うのを止めようと、身を隠していた翼が出てきて声をかけた。  「和彦先生! 壊していったのは真澄で、俺たちじゃありません!」  翼のその台詞を聞いて和彦は光矢の胸倉を掴んでいた手を離して、額に手を宛てて盛大にため息を付いた。  破壊された物の代金は落ち着いてから真澄に言って、請求すればいい。  それに、こちらが請求しなくても落ち着きを取り戻し冷静になった真澄であれば世間体を気にして自ら弁償金を持って表面上だけではあるが謝罪もしにくるだろう。  「チッ! 悪いが、おめえら、散らかった廊下を片付けておいてくれ……俺は診察室に戻る……兄の方が何かしでかす前にな……」  龍之介が失声症になり精神的にダメージを受けたことに事の他ショックを受けていた真澄の不安定だった精神状態を知っていた和彦はそれ以上は、何も言わずにすごすごと診察室へと戻っていった。  和彦に散らかった廊下を掃除しておいてくれと頼まれて翼は二つ返事で頷いてそれを引き受けた。  礼二を置いて一人で出てきた和彦を見て、取り残された礼二も診察室で何かしでかしてやしないかと気が気じゃなかった。  翼が散らばった椅子だったものの破片を拾い集めて片付け始めたのをみて光矢もそれを手伝ってくれた。  とりあえず、そこらじゅうに散乱している破片をかき集めて壁際に一まとめにして寄せておいた。  こうしておけば処分もしやすいだろう。

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