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ケーキを買いに【2】
同じような状態になった人物を翼は身近に一人だけ知っている。
だからこそ、今の龍之介の姿を見ているだけでも、とても辛かった。
自分自身の母親が発狂して、病院に運ばれ入院してしばらくの間、まるで生気が抜けた人形のようになり、目は虚ろでどこを見ているか分からない抜け殻のような状態になって回復するまでに半年以上の月日を必要とした。
――壊れてしまった心の一部を取り戻すために要した時間だ。
彼女が心を壊す原因となった存在――
礼二と離れて暮らす事で平穏を取り戻した彼女は心の傷を時間をかけて、ほんの少しだけ癒す事が出来たというだけで、完全に元通りになることはなかった。
どこか歪に捩れたままの心で、彼女は自分の事だけ考えるようになり、他人を一切思いやる事も気遣う事もしなくなった。
たとえ心を取り戻しても、以前のように完全に元通りになるという保障はどこにもないのだ。
龍之介がもし、あの状態から回復しても、以前のような明るく元気な彼には戻らない可能性もある。
精神はとても脆弱で、壊れやすいのだ。
人によって強度の違いは多かれ少なかれあると思うが……。
精神のバランスを崩しやすい、元々の素質というのもあるし、取り巻く環境でそうなる場合もある。
翼の母親の場合はその両方が重なった結果、発狂して心が壊れた。
だから、せめて龍之介には、自分の母のようになっては欲しくない。
元どうりの無駄に元気で明るくて熱血だった彼に戻って欲しいと翼は心から願っていた。
真澄に敵視されているためにうかつに彼に近づく事も話しかける事も出来ない現状が歯がゆくて仕方がなかった。
龍之介を元に戻すために、何か力になれる事は無いだろうか?
彼には兄弟共々、いろいろと良くしてもらって世話になった。
今は、礼二の事だけで手一杯だがそれでも彼の事を捨て置く事は出来ない。
翼は龍之介の事をまだあまりよく知らない。
彼を元に戻すための手がかりが、何か過去にあるのではないかと翼は考えていた。
だからこそ、今日出会ったばかりの彼女――
真澄の世話をするために特別に若草学園へと出入りを許可されているというメイドロイドのミリア。
龍之介と真澄の過去を知っていそうな彼女から、何か聞き出せないだろうか?
近いうちにまた彼女と接触して、龍之介の過去を彼女が知っている範囲内で聞き出せればいい。
何か、龍之介が元に戻るために必要なきっかけというか鍵が得られるのではと思っていた。
翼はそんな事を考えながら洗濯物を干し終えて、空になった籠を片手にベランダから室内へと戻り、ソファーに腰掛けた。
時計代わりにしている携帯の液晶を見て時間を確認する。
――PM 12:16
物思いに耽りながら洗濯物を干している間にいつの間にか12時過ぎていた。
そろそろ礼二の診察と治療が終わっている頃だろうか?
翼は籠をガラステーブルの上に置いてソファーから立ち上がると、礼二を迎えに行くために玄関へと足を向けた。
ちょうどタイミングを見計らったように、玄関からインターホンの電子音が鳴り響いた。
翼は玄関の扉の前に立ち、向こう側にいる相手に声をかけた。
「はい。どちら様ですか?」
「○▽□急便です。 荷物のお届けにあがりやっした!」
そういえばミリアさんにテディベアが自宅に届くように手配してもらったんだっけ。
翼はそう思いながら玄関の扉を開けた。
「どうも、お手数ですが受領書の方にサインだけお願いしやす!」
運送業者の若者にそう言われてボールペンを差し出され、翼はそれを受け取って借りて、手早く受領書にサインをした。
借りたボールペンを返して、テディベアが包まれた袋を受け取り労わりの言葉を掛ける。
「ご苦労様」
「ありがとうございやす! 今後ともご贔屓にしてくださいやせ! それじゃ、失礼しゃっす!」
運送業者の若者は帽子を取って深々と頭を下げてからまた帽子を被ってそそくさと次の配達先へと向かうべくその場を去った。
翼は受け取ったテディベアを靴箱の棚の上へと置いて、礼二を迎えに行くために玄関から廊下へと出て扉に鍵をかけ、自室を後にした。
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