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約束~守るべきもの~【1】

□  診療所にたどり着く頃には既に12時45分を過ぎていた。  予定より少し礼二を迎えに来るのが遅くなってしまい、翼は慌てて診療所の扉を開いて中へと駆け込んだ。  靴を脱ぎ捨ててスリッパに履き替えて、そそくさと受付と待合室を通り抜けて礼二が待っているだろう診察室へと向かった。  診察室の引き戸の前でノックをして相手の返事を待ったがシン……と静まり返っており中から返事が一向に返ってくる気配はない。  嫌な予感が的中したのかと思い、返事を待たずに扉を勢い良く開けて室内へと駆け込んだ。  診察室に和彦と礼二がいた。  が、二人ともぐっすりと眠りこけて室内は静まり返っていた。  礼二は点滴を終えて針を抜いてもらい、薬が効いているのかすやすやと深い眠りに落ちていて、慌てて傍に駆けつけてきた翼の足音に気付く事は無かった。  瞼に掛かる前髪を退けるようにそっと額を撫でられても目を覚ます気配は見られない。  背後のデスクに突っ伏して寝ている和彦は徹夜で一睡もしていないと言っていたから睡魔に負けてしまい寝落ちしてしまったのだろう。  ぐっすり眠り込んでいる和彦を起こすのは気が引けるが勝手に礼二を連れ出して何も言わずに帰る訳にはいかない。  翼は仕方なくデスクに突っ伏している和彦の背後に立ち、彼の肩を控えめに揺すって覚醒を促した。  眼鏡のフレームが変形して口端からよだれをたらして眠り込んでいる和彦は、起きている時よりもさらに幼く見えて翼や礼二と同年代ぐらいに見える。  母親の帰りを待ちくたびれて眠り込んでしまった少年のようなそのあどけない寝顔を見て翼は苦笑した。  保健医は見た目と年齢がちぐはぐで有る意味、詐欺のようなものだと翼は思った。  今年で43歳を迎える中年には到底、見えない。  何かの病気だろうか――?  翼がそんなことを考えている間に和彦が勢い良く顔を上げてハッとした表情で目を覚ました。  口端に伝うよだれを白衣の袖で拭きながら翼がいるほうを振り返った。 「かーっ! 俺とした事がうっかり寝落ちしちまうとは……今、何時何分だ?!」  電子カルテの引継ぎで付けっぱなしにしていたパソコンのディスプレイの時計を見てみれば12時50分を過ぎたところだった。 「和彦先生。れ……兄貴を迎えに来ました」  翼にそう言われて和彦は眼鏡を外し、机に突っ伏して寝ていたせいでひん曲がってしまったフレームを元通りに直しながら頷いた。   「ああ……兄の方を迎えにきやがったか。  症状の方は何とか落ち着いたからもう連れて帰ってもいいぞ」 「ありがとうございます!」    辛そうだった礼二の症状が落ち着いた事を聞かされて、翼はホッとして、徹夜明けで一睡もしていないまま、礼二の治療につきっきりだった和彦に、感極まった声で礼を言った。 「兄の方があんま、無茶な事しでかさねえように、ちゃんと見といてやれよ」 「はい……お世話になりました」 「あー……やべーまた睡魔が……」 「俺達の事は気にしないでもう休んでください」 「いや……そうしてえのは山々なんだが……カルテの整理が終わらん事にはまだ帰れねー」 「礼二に関する物が……ですか……?」  翼はなんとなくそう思って和彦に尋ねた。  和彦は欠伸をしてから頷いて、パソコンの画面をキーボードで操作して、スクロールしながら、難しそうな文書を速読しつつフォルダに保存していく作業を再開した。 「そうだ。兄の方に関するカルテと資料の量が膨大でな……  兄はこの学園にくる少し前まで精神科の隔離病棟に入院してやがっただろう?」 「あ……はい」 「入院していた間の2年間とそれ以前のカルテと資料を全部俺が引き継ぐ事になったんだ」 「そうだったんですか……」 「それとだ。牛山礼二の父親が若草学園を兄の方の入学先に選んだ理由な……」 「え……」 「俺がいるからだろうな」  パソコンの画面を見ながらそう言う和彦の台詞に翼は驚いたような顔をして固まった。 「場所が場所だけに他の心療内科と違ってあんま患者もこねえしな。  保健医と兼業してるくれーだし……  天上院家のバックアップで成り立ってるようなもんだからなこの診療所は……」  その話を聞いて翼は役に立ちそうな情報が得られそうだと食いつき慌てて聞き返した。 「天上院家って真澄の?!」 「ああ。あれだ、まあ、ある程度、真澄の野郎と接してりゃ分かんだろうが、あいつもちっとばかし情緒が不安定な部類だからな……」 「……ああ」 「真澄の父親がいずれは真澄をこの学園に入学させるつもりだったらしくて、俺がここの診療所を開設するために必要な費用は全部、天上院家が出してくれたしな。  金持ちのやるこたあスケールがでかすぎて理解に苦しむな……。  まあ、おかげで市立病院に居て勤務医だった頃は死にそうなほど忙しかった俺が、真澄の父親に話を持ちかけられて、ここに来てからはゆっくりできるようになった訳だから結果オーライって奴だ」    成る程……そう言った経緯があってこの学園には診療所がある訳か。  翼は和彦が話している内容に聞き入っていた。 「俺らしくもなくベラベラとくっちゃべっちまったが、お前達兄弟に全く無関係の話って訳でもねえから頭の片隅にでも置いて憶えて置くといい」 「はい……」 「兄の方を連れてけえるなら、そこに車椅子用意してあんだろ?  それに乗っけて連れて帰れ」 「そんな大げさな……俺が負ぶさって連れて帰るんで大丈夫です」 「手荷物もあんのに無理すんな」  和彦は椅子ごと回転して振り返り、翼が片手に抱えて持っているチュロスの束が入れられた紙袋を指差した。 「あ……これ、別にいらないんで和彦先生、よかったら食べてください」 「いらねーよ。んな糞甘そうな菓子!」  甘いものはあまり好まないのか和彦は眉を八の字に寄せて嫌そうな顔をして翼の差し入れを受け取る事を拒否した。 「薬が効いて眠りこけてる兄を安静に安全に寮まで連れて帰るなら車椅子使って連れて帰る方がいいだろ」 「はい……じゃあ、お借りしていきます」  翼は結局、和彦に言い負かされて礼二を車椅子に乗せて、押して帰る事になった。  人目もあるし、車椅子に乗せられた礼二を見られたらまた不必要に目立ってしまうので遠慮したかったのだが、仕方ないと諦めた。  礼二はこの学園で超有名人になってしまっているようだから、また尾びれ背びれが付けられて噂が広まり、なにか面倒な事になりそうだったが腹をくくるしかないようだ。 「それじゃ、お世話になりました。  カルテの引継ぎが終わったらゆっくり休んでください」 「言われなくてもそのつもりだ……さっさと兄を連れて帰って安静にさせとけ。  受付に看護士が一人、入ってっからそいつから薬を受け取って金払っていけよ」  看護士がいたのか……そそくさと通り過ぎたせいで気がつかなかった。 「それじゃ、失礼します」 「おう。気をつけて帰れよ!」  パソコンのキーボードを操作する手をせわしなく動かしながら和彦は右手だけをかるくあげて振り返らずにひらひらと振った。  翼はベットですやすやと寝息をたてている礼二を起き上がらせて、両足の膝裏に腕を通して背中を支えて姫抱きにして抱えあげて車椅子へとそっと移して座らせた。  邪魔にしかなっていない千太朗がくれたチュロスを車椅子に座って眠り込んでいる礼二の膝の上に乗せて、グリップを握り、前へと押して診察室を後にした。  引き戸を開けて、音を立てないようにそっと閉めて、廊下を通り待合室を抜けて、受付までやってきた。  受付にいる看護士に声を掛ける。 「すみません、薬を受け取りに来ました」 「はい。和彦先生に伺っとります。説明書も一緒に入っとりますんで目を通しておいてください」 「はい」  薬を受け取って、診察代と薬代を支払って翼はその場を後にした。

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