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約束~守るべきもの~【5】

         台所について翼は冷蔵庫の扉を開けて、傷まないように入れておいた豚汁が入れられた竹の容器を取り出して、コンロに置いてある鍋へと中身を移し変えて弱火で温めなおす事にした。  電子レンジで温めてもいいが、汁物がレンジで吹き零れて飛び散った場合掃除が大変だ。  あまり新しい型のレンジではなさそうだったので、冷や飯を温めたり、出来合いの固形のおかずを温めたり、温野菜を作るときくらいにしか使わないようにしようと思っていた。  テーブルの上に置かれた白米が入れられた器の中身を二つの茶碗に移し変えて、軽くサランラップをはって電子レンジの中央へと置き、温めるボタンを押した。  冷や飯を温める時用の自動ボタンがあったのでそれを押して温める事にした。  電子レンジや洗濯機、ガスコンロなどは前にこの部屋にいた生徒が使っていたものなのだろう。  あまり新しい型ではなく、使い勝手はあまりいいほうとはいえない。  洗濯機は乾燥機がない事を除けば割と使えるほうではあるが、コンロは火が付きにくい時がたまにあったり、電子レンジは、温まってるところと冷たい所がまばらだったりする事がある。  味噌汁系統の汁物を鍋で火にかける時は煮立たせないように弱火で温めないと美味しさが半減すると聞いた事がある。  弱火でじわじわと熱すぎない程度に豚汁を温め終えて火を止めて、2つのお椀へと移し変えてトレイの上へと並べて置いた。  その時ちょうど冷や飯を温め終えた事を知らせる電子音が電子レンジから響いて聞こえてきた。  レンジの扉を開けて、鍋つかみを装備した手で茶碗を掴んでトレイの上へと乗せた。  箸を二膳用意して並べて、ミネラルウォーターとウーロン茶のペットボトルを冷蔵庫から取り出してそれもトレイへと乗せる。  一旦、玄関に置きっぱなしの薬袋とチュロスを取りに行き、台所へと戻ってきてそれもトレイの上に乗せた。  トレイの上がぎっしりいろんなもので溢れ返ってしまったが、寝室に行くまで纏めて運ぶには距離も短いし、特に問題はない。  翼は少し重たいトレイを両手に抱えて慎重に運んで寝室へと向かった。  寝室の扉の前で一旦、立ち止まり、トレイを床へとそっと音を立てないように置いて、扉を少しだけ開けて中の様子を伺い見る。  礼二はベットの上でうつ伏せになって何かごそごそと手を動かしていた。  ベットの上に筆箱とノートが散らばり、翼を待っている間の暇な時間を使って何かをしているようだ。  翼は礼二の様子を確認してから、寝室の扉を開けて、床へと置いたトレイを持って室内へと入って礼二に声をかけた。 「礼二、お待たせ」  翼の声を聞いて礼二は慌てて起き上がって嬉しそうな声で翼の名前を繰り返し呼んだ。 「つばさ! つばさぁ!」  礼二の元へと向かい、トレイをサイドボードの上へと置いて、彼の頭をくしゃりと撫でてやった。  ドライヤーで髪を乾かすのをすっかり忘れていたが、意外としっかりバスタオルで頭を拭いてあったお陰か礼二の柔らかいくせっ毛の髪は乾きかけていた。 「ふあぁ……」  翼に頭を撫でられて、礼二は満足げに瞼を閉じて幸せそうに息を吐いた。 「礼二、ベットの上が散らかってるけど、なにやってたんだ?」  翼にそう聞かれて礼二は一枚の紙を広げて見せてきた。 「これかいてた」  いらないプリントの白い部分に色とりどりのクーピーで描かれたそれは、お世辞にも上手いとはいえない、よれよれの線で描かれた絵だった。  金髪の青い服を着た子供と茶髪の赤い服を着た子供が描かれていた。  それは幼い頃の翼と礼二が笑っている絵だった。   二人は仲よさそうに手を繋いでいる。  青い空に太陽。  四葉のクローバーが生えた緑の原っぱ。  ――兄弟がまだわだかまり無く、仲がよかったあの頃の二人だ。  よれよれの線で幼稚園児が描いたような拙い絵だったが、礼二が一番幸せだった頃の思い出が一杯つまった絵だった。  礼二の中では、その思い出はまるで昨日のことのように思い出せるかけがえの無いモノで、また翼とわだかまりなく仲良く出来る日を夢見ている。  翼はその絵を受け取って見ている自分の頬に涙が伝っているのに気が付いて、慌てて手の甲で雫を掬い上げて拭った。  目頭がなぜか熱くなって、涙が次から次へと溢れ出して止まらなかった。     急に泣き出した翼を見て、礼二が心配げに彼の表情を上目遣いで伺い見る。  赤い瞳が不安げに揺れている。 「つばさぁ……どこか痛いのか?」  礼二のその言葉に翼は首を左右に緩く振ってそれを否定した。 「……ごめんな、礼二……なんでもない……ただちょっと目にゴミが入っただけだ……」  心配そうにこちらを覗き込み上目遣いで伺い見てくる礼二を安心させるように、翼は無理に笑顔を作って泣き笑いのような表情で途切れ途切れになんとか言葉を口にする。  ベットの上に足を崩して座っている礼二を引き寄せて、自分の腕の中へと閉じ込めた。  翼にぎゅっと抱きしめられて幾分か落ち着きを取り戻した礼二は瞼を閉じて、彼の背にそっと腕を回して抱き返した。  ずっと翼に会える日を夢見て、それだけの為に生きてきた礼二はいつ今の幸せが壊れて無くなってしまうのか、常に不安で胸を一杯にしていた。  少し翼が自分の傍からいなくなっただけで、また離れ離れになって二度と会えなくなってしまうんじゃないかという薄ら寒い妄想に常に苛まれていた。  こうして翼に抱きしめられて、彼の吐息と心音を近くに感じている今この時でさえ夢なのではないかとさえ思う。  礼二が描いた拙い絵に込められた純粋な想いが、翼の目頭を熱くして、胸を締め付ける。  (なんだろう、この気持ちは……)  翼は礼二を抱きしめる腕にさらに力を込めて彼の髪に顔を埋めた。  さらに力いっぱい抱きしめられて、礼二はおろおろとしながら様子を伺い見て、翼の頭にそっと掌を乗せて柔らかいひよこの産毛のような金髪を梳く様に撫でた。  兄らしいことを何一つしてこなかった礼二が今は逆に翼を慰めようとして彼の頭を優しく撫でていた。  翼は自分の胸にわだかまる想いがなんなのか分からないまま礼二の首筋に埋めていた顔を上げて、至近距離で彼の赤い瞳の中に映る自分の姿を見た。  長い睫に縁取られた紅玉のような綺麗な瞳はうっすらと涙の膜が張られて揺らいでいる。  彼の瞳の中に映る自分の姿もゆらゆらと揺らめいて見えた。  至近距離で改めて礼二の顔を見て、素直に綺麗だと思った。  白い肌に赤い瞳、ほんのりと紅潮した頬にうっすら桜色の唇。  幼い頃には感じなかった艶めかしさを感じる。  規則的に呼吸を繰り返し甘い息を吐き出している薄く開かれた桜色の唇に目を奪われて胸が高鳴る。  翼は誘われるように礼二の唇へと自身の唇を重ねた。  礼二は翼にキスをしてもらえた事がただ嬉しくて、瞼を閉じてそれを当たり前のように受け入れる。

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