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一歩前進【1】
礼二はうっとりと瞼を閉じて翼の背に腕を回してぎゅっとしがみ付いて、彼の胸の中へと顔を埋め、心音を聞く。
トクントクンと心臓が鼓動している音を聞くと少しだけ安心する。
翼が生きて今ここにいてくれる事が嬉しくて、幸せ過ぎて涙が溢れ出して止まらなかった。
自分が生きている事で翼を苦しめて、辛い思いをさせているかもしれないと心の片隅でずっと思っていた。
昔、言われた翼の言葉がずっと胸の奥に突き刺さり、引っかかっていた。
゛本当はお前なんか大嫌いだ
お前なんか、いらない、いなくなればいいんだ゛
その言葉を聞いた時は目の前がまっくらになって何も考えられなくなった。
しばらくしてやっと翼に言われた言葉の意味を理解して、自分自身の存在を消そうと思った。
翼に嫌われていると理解した時、自分でもそんな自分はいないほうがいいと思った。
自分が翼に必要とされない存在で生きている事で彼を苦しめるのなら、いないほうがいい――
そう思って自宅の玄関を裸足で飛び出して、無我夢中で階段を駆け上がった。
屋上へと辿り付いて、乱暴に鉄製の重たい扉を開いて、周囲に張り巡らされた、高いフェンスにジャングルジムに登るときの感覚で必死で攀じ登った。
フェンスをやっとの思いで登りきり、息が上がりふらつく身体をふるい立たせて、フェンスの上へと足を乗せて、そのまま身体を空中へと投げ出した。
ふわりと体が宙へと舞い、自分自身の存在を消す事ができると、瞼を閉じて風の流れに身を任せた。
けれど、自分の身体はずっと宙に浮いたままで地面へと叩き付けられる事はなかった。
不穏な空気を嗅ぎ付けて、すぐに礼二の後を追いかけて、追いついた父親がすんでのところで間に合い、フェンスに攀じ登り、片手でしがみ付いて、礼二の身体を片手で抱き寄せて引き上げて事なきを得た。
父親が礼二を追いかけて飛び出したすぐ後を追ってきた翼が目を見開いてガタガタと足を震わせてその光景を見ていた。
翼の背後に立つ母親は表情ひとつかえることなくただ茫然自失とした表情で、礼二を抱きかかえてフェンスを降りて、屋上のコンクリートの地面へと足を付けたばかりの夫を見ていた。
礼二が飛び降りたのを助けて戻ってきた夫を見て、少しだけ残念に思う自分の心の闇に気付いていた。
母親もまた礼二がいなくなればいいのにといつも考えていたのだ。
いつもいつも問題ばかり起こして手を煩わせて、自分たちを苦しめて恥をかかせるその存在が、自分から自由を奪う礼二が憎くて仕方がなかった。
いなくなればいい。
生まなければよかった。
そればかり考えていた。
そもそも今の夫と結婚しなければ礼二を生む事もなかった。
子育てを全て妻一人に任せきりで男は仕事さえしていればいいという夫の考えが許せなくて、そして憎かった。
礼二と共に夫もいなくなってくれれば清々すると思っていた。
自分が日本に来て右も左も分からない留学生だった時に彼に親切にされ、恋をして、両思いになり、多くの人達に祝福されて二人は結ばれた。
でも、今はその時の初々しい気持ちも、恋心もすっかり消えてなくなり、冷え切ってしまった。
どうして自分が今、こんなところで、こんな生活を送っているのかが、わからなくなった。
礼二を抱きかかえて戻ってくる夫を憎々しげに睨み付けて、母親は踵を返して、階段を下りて家へと戻っていった。
後に残されて佇む、翼の肩を父親が心配げにぽんと叩く。
背中を押されて屋上の扉から階段がある踊り場まで戻され、片手で礼二を胸に抱きかかえた父親は翼の手を引いて、階段を下りていった。
屋上に翼を平気で置き去りにして先に家へと帰ってしまった妻に呆れ、深いため息をついた。
自分は仕事をしていて疲れて帰ってくるのだから、子育ては妻一人でするべきだと当時の父親は考えていた。
この時から既に、両親の仲は悪く、冷え切っており、それも翼と礼二に多かれ少なかれ余りよくない影響を与えていたのだろう。
礼二と翼はお世辞にも温かい家庭で育ったとはいえない。
礼二にばかりかまけきりの両親にないがしろにされつづけて孤独で寂しい少年時代を過ごした翼。
そして翼以外の者にまったく興味をしめさず省みる事のない礼二にとって、自分に絡んでくる両親の腕が煩わしくて邪魔なものにしか思えなかった。
翼さえいれば他には何もいらないと思っていた純粋な礼二の愛が結果的に家族間での不和を引き起こし、全てを壊してしまった。
翼自身は言ってはいけない言葉を礼二にぶつけてしまった事で全てが壊れてしまうきっかけになり、自分が悪いと思い込んでいた。
自分が翼だけを愛する事で結果的に彼を追い込み苦しめる事になっているという事実に礼二も今はまだ、気がついていない。
礼二が翼以外の人間に対して辛辣な態度をとる事によって結果的に翼が苦しめられる事になっている。
それが原因で過去に翼がイジメにあっていた事実を礼二はまだ知らない。
兄弟がわだかまりなく仲が良かったあの頃に帰りたい――ただずっとそればかり考えていた。 こうやって今、翼に抱きしめられているこの時が、現実で、夢じゃない事がただ嬉しくて幸せだった。
翼は笑みを浮かべたまま泣き出した礼二が落ち着くまで、幼子をあやす時の様に掌で背中を撫でて彼の髪に顔を埋めてぎゅっと抱きしめていた。
ただ、純粋にまっすぐに自分を愛してくれる存在がこんなに近くにいたという事にようやっと気が付けた。
実の両親にすら蔑ろにされつづけてずっと自分は孤独だと思い込んでいたが、そんな自分をこんなにも想ってくれる存在が目の前にいる。
自分を必要としてくれる人間なんてどこにもいないと思っていたのに、こんなに近くにいたのに、ずっと気付かなかった。
幸せそうな笑みを浮かべて泣き出した礼二の表情を見ていて胸が苦しくなった。
自分はまだ礼二を本当に愛しているかどうかもわかっていないのに、ただ他の男に彼が抱かれたと知った時に抱いた劣情。
ただ自分以外の誰にも礼二を触れさせたくないと思った。
自分以外の男に抱かれて、喘ぎ乱れる彼の姿を想像するだけで、その相手の男を再起不能になるくらい殴りつけて二度と礼二に近づけないようにしてやりたかった。
自分は身勝手で汚いただの独占欲だけで礼二を誰にも渡したくないと思っているだけなのかもしれない。
礼二の事を本当に愛しているかどうかも分からない。
純粋に好きだという気持ちを真っ直ぐに向けてくる礼二に自分は相応しくないような気がした。
人を好きになるという気持ちが一体、どういう感情なのか今の俺にはまだ理解できない。
礼二の好きは、相手と身体を繋げたいという気持ちも含めた好きで、心だけじゃなくて身体も好きな人と一つになりたいという思いからなのだろう。
それはなんとなく分かっている。
けれど、自分はどうなのだろうか?
礼二を愛しているから、彼を抱きたいと思っている……とは言い切れない。
彼が喘ぎ乱れる姿に欲情して、自分の物にしたいという感情は確かに抱いた。
愛していなくても身体だけをつなげることは簡単にできる。
泣き叫んで嫌がる礼二を無理矢理ねじ伏せて、乱暴したであろう男も礼二を愛しているから抱いたわけじゃない。
自分の気持ちがハッキリしないまま礼二と最後の一線を越えてしまうのはその男と同じになってしまうみたいで嫌だった。 箸を使えるようになって褒められ、頭を撫でられて、嬉しそうに目を細めて幸せそうに笑う礼二を見ていて可愛いと思った。
愛しさのような気持ちが込み上げてきて、妙に気分が高揚して昂ぶり、ドキドキと胸が高鳴ったりした。
それが好きということなのだろうか?
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