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一歩前進【2】
生まれてこの方、一度も本気で人を愛した事がない自分にはその感情はまだ理解できそうにない。
今までを振り返ってみても、誰が誰に告白しただとか、誰と誰が付き合っていると中学時代にクラスメイトの男子が和気藹々と話して盛り上がっている輪に入っていけなかった。
クラスメイトの誰だったか―― 名前と顔すら既に記憶から薄れかけている、翼の前の席に座っていた男子に話を持ちかけられ、聞かれた事がある。
「美空って誰か好きな子いる?」
その問いに俺は首を左右に軽く振って正直に答えた。
「俺はまだ誰かを好きだとか付き合いたいと思った事はない」
考えてみれば今までこの方、初恋すらまだした事がない。
翼がそう答えたのを聞いて、前の席に後ろ向きに腰掛けて話を振った生徒は、ケラケラと笑い
「うっそ、マジで?! この年で初恋もまだなの?!」
とからかう様に翼の肩を馴れ馴れしく叩きながら言った。
そいつの言葉と態度に多少、腹を立てつつ、翼はそれ以上はもう話す事もないと口を噤んでそっぽを向いた。
「わりーわりー! 気に障ったんなら謝るよ! 美空は可愛いし、幾らでも付き合おうと思えばすぐにでも恋人見つかるって! いや、マジで。 なんなら俺と付き合う?」
そっぽを向いた翼の前へとわざわざ回り込んでそんな事を言うそいつの額に無言で頭突きを食らわせてやった。
「悪い……お前が邪魔になるような所につっ立ってるから、勢い余ってぶつかった」
それだけ言い残して翼はそそくさと鞄を手に、教室を出て行った。
故意にではないと言う事をほのめかして、反撃しておけば大事にはならないはずだ。
廊下を歩く翼の横を腕を組んだ男女が通り過ぎた。
翼はその男女を振り返って見て目を細めた。
女子の荷物を片手に持ってやっている男子に嬉しそうにしがみ付き甘える女生徒。
仲むつまじい恋人達のそんな様子を見てから、換気の為に開けられている窓から、空を見上げた。
梅雨の時期特有の雨雲に覆われて薄暗く、雨がしとしとと降っている。
外をなんとなく見やると、ちょうど下校している生徒が二人で相合傘をして歩いていく後ろ姿を見つけた。
思春期で多感な時期である中学生は恋多き年頃なのだろう。
翼はそう他人事のように思いながら、自分の視界を過ぎていく恋人達を無心に見ていた。
自分にもいつかそんな相手が現れるのだろうか?
翼はそんな事を考えながら、玄関へと向かい自分の傘を差そうと思い傘立てを捜した。
自分が持ってきた傘に似た柄の傘が一本あるが、この傘ではない。
黒地のチェック柄が微妙に違うのだ。
さっき見かけた相合傘のカップルが差していた傘の柄を思い出してハッとした。
良く考えて思い出してみれば、あの傘は俺の傘じゃないか!
カップルはよく似た傘を取り違えて気付いていないのだろう。
雨が降りしきり霞む視界を凝らしてみればそのカップルは正門を通り抜けるところだった。
翼は似た柄の傘を手に取り、慌てて雨に降られながら駆け出した。
既に大分、遠くまでいってしまい小さくなってしまったその二人を追いかける。
人の傘を勝手に差す訳にはいかず、仕方なくそのカップルがいるところまで、鞄を片手で頭の上に抱え、少しでも雨に濡れないように傘の代わりにしながら、全力で走って向かう。
なんとか追いついて翼の傘を間違えて差しているらしい二人に恐る恐る声をかけた。
「あの……すいません!」
控えめにそう声を掛けられて相合傘をしていた二人は振り返った。
振り返った二人はどちらも女子だった。
後ろ姿を見て男女のカップルだと思い込んでいたが違ったようだ。
傘を差している方の女子は、黒いジャージの上下を着込み、腕まくりをしている。
「それ、俺の傘……なんですけど……」
髪が短いボーイッシュな方の女子が、翼の言葉を聞いて、ハッとした顔で傘を見上げ、しまったというような顔をした。
「まあぁ……本当! 椛ちゃんたらもうーー……うっかりさんなんだからぁーー!」
髪の長い眼鏡をかけた女子が髪の短い女子が差している傘を見上げて、呆れ顔で語尾をやたら長く伸ばして彼女を咎める様に言った。
「ああ! 本当だ……ごめん! 柄が似てたから全然気が付かなかった……悪い事しちまったな……」
椛という名前らしいその女子生徒は申し訳なさそうに言って差した状態のままの傘を翼に差しかけるようにして返した。
その女生徒はすぐに翼に自分の傘を手渡されて受け取り、開いて差してから、長い髪の眼鏡をかけている女子に持つように言った。
「悪い、吹雪、ちょっと傘持ってて」
「はーいーー」
語尾を延ばしてうっとうしい返事をした吹雪と呼ばれた眼鏡女子は広げた傘を手渡されて受け取り、椛に雨が掛からないように差しかけた。
「本当に、悪かった。結構、雨に濡れちまってるな……クリーニング代出そうか?」
そう言いながら上着のポケットから取り出したハンカチで翼の濡れてしまった髪や肩を拭いてくれた。
「いや、これくらい濡れても、気にしてないから大丈夫だ……」
そう言う翼の言葉を聞いて、椛は心配げな表情からホッとした顔になり頭を軽く下げた。
「本当に、ごめんな。これからは気をつけるよ」
「ああ、えっと……」
「もーみーじーちゃーーん! さっきからその子とばっかり話してるぅーー……私も構ってぇーー……」
傘を持っている吹雪という名前の女子は、頬を膨らませ、むっとした表情で、翼と椛のやり取りの間に割って入った。
「ごめん、こいつの事は気にしなくてもいいから……ってやめろ! 耳に息吹きかけんな!」
吹雪に息を吹きかけられて椛は赤面して飛び上がった。
そのまま椛の腕を空いている方の手で引き寄せて、しがみ付き、吹雪は悪戯っぽい笑みを浮かべ、翼にウインクをした。
「椛ちゃんは私のだからーーごめんねーー」
そう言って翼に手を振り、赤面してうろたえている椛という少女の腕を再び掴んで、引きずりながら去っていった。
二人の相合傘が見えなくなるまで、唖然とした面持ちで翼は見送った。
女の子同士だから、ただの友達だと思っていたが、友達以上に親しげな様子から見て、どうやら二人は付き合っているらしい。
人を好きになるのに性別などは障害にならないものなのだろうか?
翼はそんな事を、考えながら家路に付いた。
中学時代にあったそんな過去を思い出して翼は眼前にいる礼二を見て目を細めた。
その頃はまさか自分も同性相手に、ましてや実の血の繋がった兄相手に、愛だの恋だのと頭を悩ませる事になるとは夢にも思ってはいなかった。
まだ、自分の気持ちはハッキリとしてはいないが、礼二と向き合い長い時間を共に過ごしていく間に見付けられるだろうか……
そんなことを考えて、落ち着きを取り戻して泣きやんだ礼二からそっと身を離した。
壁に貼り付けた絵をもう一度だけ見てから翼は礼二が夕食を食べ終わった食器を手に取った。
自分が食べ終わって重ねておいた食器にさらに重ねてトレイの上に一纏めにしておいた。
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