115 / 152

一歩前進【3】

 とりあえず今から食器を洗って、取り込んだあとリビングに放り込んで散らばっている乾いた洗濯物を畳まなければ……  掃除機をかけてある程度掃除して家事を済ませてからゆっくりしよう。  そう考えて振り返り、足を崩してベットに座り込んだまま翼の手の動きを眺めていた礼二の頭を撫でて 「今から俺は食器を洗って、部屋を掃除するから、終わるまで礼二はここで待っていてくれ」 と言い聞かせる。  翼に言われて礼二は寂しそうな顔をして上目使いで翼の顔色を伺うように見て、口を開いた。 「俺も一緒にいく……」  礼二がそう言うのを聞いて翼は緩く首を振り 「食べた後ですぐに横になるのは身体に悪いから、ベットでそのまま座って、大人しくして待ってるんだぞ」  そう言い残し食器が纏めて乗せられたトレイを両手に抱えてその場を後にしようとした。  が、礼二に上着の裾を掴まれて引きとめられる。 「礼二、すぐに戻ってくるから、聞き分けてくれ」  つい語尾を荒げて強い口調で言いそうになるのを堪えて、眉根を寄せて困ったような顔をして礼二を振り返りみた翼の服の裾を掴んだまま礼二がベットから降りて彼の隣に立つ。  足取りはしっかりしているが安静にしていなければならないのだから大人しく待っていて欲しいというのが本音だが、礼二は翼の後についてくる気満々のようだった。 「じっとして翼の邪魔しないで、傍で待ってるから……」  涙目で消え入りそうな震える声でそう言われて翼は弱り顔で一つだけため息を付いて 「仕方ないな……ちゃんと大人しくして待ってるんだぞ?」  と言った。  翼が折れて傍にいてもいいと言うお許しが出て、礼二はぱっと無邪気な笑みを浮かべて 「うんっ」  頷き、翼の腕にぎゅっとしがみ付いた。  好きな人の傍に一分一秒でも長くいたいという礼二の気持ちは翼にはまだ理解できないが、本当になんでもないような事で喜んで嬉しそうに笑う礼二を見てただ可愛いと思った。  片腕に礼二を貼り付けたまま翼は台所へと向かう。  台所について、腕にしがみ付いていた礼二を食卓の椅子へと座るように促して、そこで大人しく待っているように言い聞かせた。  翼に言われて礼二は食卓の椅子を引き出してそこに大人しく座って、シンクの前に立つ翼の背中を眺めた。  翼はトレイに乗せて運んできた食器を全てプラスチックで出来た桶へと入れた。  水道の蛇口を捻り、桶一杯になるまで水を溜めておく。  スポンジたわしを水で湿らせて、食器洗い用洗剤を付けて泡立ててから、茶碗を手に取り洗い始める。  翼が食器を洗っている後姿を礼二は頬杖ついてじっと眺めていた。  家事をしているのを観察させる事も覚えさせる上では有効だと考えて翼は礼二の視線を特に気にせず次々と食器に泡を付けて洗って桶の中へと入れてゆく。  全ての食器をスポンジで汚れを落としてから流水で流して食器棚へと洗い終えた食器を並べていく。  食器を濡れたままで置いておくのは衛生的によくないから、あとでキッチンペーパーで水気をふき取って綺麗にしてから食器棚へと戻すつもりだった。 「お皿洗い終わったら拭くの?」  背後の食卓に座って翼を見ていた礼二がそんな事をふいに聞いてきたので、首だけで振り向き、翼は頷いて答える。 「ああ。キッチンペーパーが食卓の籠のなかに入ってるだろ? それで水気を拭き取るんだ」  礼二はそれを聞いて食卓の上に置いてある籠からキッチンペーパーを取り出して箱を開封して中身を取り出した。 「翼のお手伝いしたい」  キッチンペーパーを数枚手に取り礼二がそんなことを言い出した。 「皿は落としたら割れて大変な事になるから気をつけないと怪我をするから駄目だ」  翼に言われて礼二は眉根を寄せて首を左右に振って、「やりたいやりたい」と連呼した。 「たくっ……しょうがないな……じゃあ、このお椀だけな」  苦笑して振り返り、翼はそう言って落としても割れる事のない汁物用のプラスチック製のお椀だけを二つ礼二に手渡した。  礼二は嬉しそうな顔でお椀を受け取ってキッチンペーパーでそれを一生懸命に拭き始めた。  好きな人と一緒にいられて、手伝いが出来る事が嬉しくて仕方ない礼二の無邪気な表情と様子を見て翼は穏やかに笑みを受かベ、子を見守る親のように優しげな表情で目を細めた。     二つのお椀を危なっかしくたどたどしい手つきで礼二が拭いているのを見てガラス製の皿を拭かせるのを止めておいて正解だったな。  そう思いながら翼は苦笑して、全ての食器を洗い終えて食器立てに入れておいたものを取り出して慣れた手つきで鍋と食器をキッチンペーパーで水気を拭きとっていく。  料理以外の家事は母親の手伝いでよくしていたおかげかたいていの事は難なくこなせる。  最初のうちは不慣れで失敗ばかりしていたが毎日のように続けているうちに自然と出来る様に身に付いていったものだ。  礼二も少しずつでも毎日家事を覚えさせて続けていればそのうち自分ひとりでも出来る様に身に付くはずだ。  普通の人よりも大分、時間が掛かるかもしれないけど、ちゃんと言う事も聞いてくれるし、なにより一生懸命やってくれる。  家にいる間中、後をついて回られるのは、もう仕方ないとあきらめる事にした。  家にいるときくらいはずっと傍にいてやっても構わない。  長い間、ほったらかしにしてしまって寂しい思いをさせたのだから、その分少しでも一緒にいられる時は礼二の傍にいてやろうと思う。     思うに、結局、自分は礼二に甘いのだろう。  甘やかしすぎは良くないと思いつつ、涙ぐんで上目使いで彼にお願いされると断りづらくなってしまいつい彼の言う事を聞き入れてしまうのだ。  熱があって学校を休ませて留守番させようとした時も結局は負けて、礼二を連れて学校へと行き、その日は何事もなく終える事ができた。  少なくとも、礼二はちゃんと、大人しくしていてその日はなんの問題も起こしてはいない。  問題を起こして挙句の果てに、倒れてしまい、クラスを混乱の渦に巻き込んだのは翼のクラスであるG組担任の西野空太郎。  その人だった。  頼りない、ドジばかりのクラス担任だが、礼二が初日に教室のガラスを割ってしまった時に、礼二の変わりに校長に頭を下げて、停学処分を取り消してくれたのも彼だ。  生徒の為に一生懸命なのにドジばかりで空回りしてしまうあたり、礼二に少しだけ似ていると感じた。  礼二も翼の為に一生懸命だがそれが空回りして問題ばかり起こしているのだから。  そんな事を振り返って考えつつ全ての食器を拭き終えて、鍋をガスコンロ前にある元々置いてあった場所のフックにぶら下げて、残りの皿やご飯茶碗を食器棚へとしまい込む。  食卓を振り返ると礼二が二つのお椀を拭き終わって両手に持っていたのでそれを受け取って食器棚にしまいこんだ。  食卓のあちこちにぐしゃぐしゃに丸められて湿ったキッチンペーパーが散乱しているのをかき集めてゴミ箱へと放り込んだ。  お椀を拭く事にばかり集中していて、使用済みの紙を捨てる事にまで頭が回らなかったのだろう。  一番最初のうちはこんなものだ。  少しずつ後片付けをする事も憶えていけばいい。  翼は食卓に座っている礼二の隣に立ち、彼の頭をぐしゃぐしゃと髪を梳くように撫でた。 「手伝ってくれてありがとうな礼二。助かったよ」  実際には対して役には立ってはいないが、一生懸命手伝いをしようとしてくれた礼二の気持ちに対して礼を言った。  翼に「ありがとう」と「助かったよ」と言われて礼二は嬉しそうに瞳をキラキラと輝かせて無邪気に笑い、翼の腰にぎゅっとしがみ付いて甘えてきた。  苦笑しながらそんな礼二を翼は軽く抱き返してやり、落ち着かせるように彼の背中をぽんと軽く叩いてやった。  翼の胸に顔を埋めて頬を擦り付けてくる礼二を見ていて猫みたいだと思った。  まるで自分のお気に入りの相手にマーキングする時の猫のようだ。

ともだちにシェアしよう!