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決心【3】

 明け方には叔父の新聞屋でバイトに明け暮れて、母親がまだ寝ている薄暗い早朝に起き出して、前後の籠に新聞紙が大量に入れられた、重たい自転車を走らせて緩やかな坂を下っていく。  毎朝、同じ時間に犬の散歩をしている老人に挨拶をされてそれに軽く手を振って応えた。 小柄な少年が新聞配達を手伝っているとその老人は思っていたようで、たまに、散歩途中の自販機で買ったジュースを翼にくれたりした。  その老人は「自分とこの孫はどうしようもないクソガキのあかんたれだ」と言い、翼の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだと笑いながら言った。  他愛も無い世間話をして、よぼよぼの犬を連れて散歩の続きで歩き出し、去っていく老人の背中を翼は目を細めて穏やかな表情で見送った。  そんな当たり前だけど、ほんの少しだけあたたかい日常が何より愛しい。  自分の為に時間を持てることの素晴らしさに酔い、礼二の存在を半分忘れかけていた。  それでも背後をふいに振り返れば礼二がそこに立っているような気がして、翼は無意識に礼二の存在に怯えていた。  今の自分の生活を壊してしまう彼の存在を……。  彼の面倒だけを見るために存在していた自分に嫌気が差していた翼は普通に生活できる今が壊される事を何より恐れていた。   □    翼はその日、入学式のある初日――四月一日に若草学園に降り立ち、初めて足を踏み入れた。  クラス分け表が貼られた掲示板前にいる人影を見つけて、心臓が跳ね上がり、嫌な汗が噴き出すのを感じた。  頭のてっぺんに一房だけぴょこりと跳ねた触覚のような髪が春風に煽られて揺れていた。  赤みがかった茶髪に奔放に外側に跳ねた後ろ髪……幼い頃に分かれたきり一度も自分から会いに行く事がなかったが見覚えのあるその後ろ姿を見て、足を止めてしまった。  龍之介に急かされて掲示板の前にまで押して連れて行かれそうになったが、牛歩戦術でじりじりとゆっくり歩く事でその場は回避することが出来た。  兄らしき後ろ姿のその人はクラス票を見て確認してから、正面玄関へと入っていった。  無駄な抵抗だったと今思い返せばそう思うのだが、その時はまだその後ろ姿に見覚えのある人物が本当に礼二だったとしてもどう接したらいいのか心の準備ができていなかった。  自分が所属するクラスが書かれた紙が貼られた掲示板を見て確認して、驚きのあまり頭の中が真っ白になってしまった。  ゛牛山 礼二゛  自分の名前が記載されたクラス票に兄と同じ同姓同名の名前を見つけてしまったからだ。  しかし兄は自分より2歳年上だったと言う事を思い出して、よくある苗字と名前だし、同姓同名のただの別人だと思った。  ……いや思い込もうとしていたのかもしれない。  生徒達が皆がそれぞれに好き勝手な事をしていて、騒がしくそして混沌としたG組の教室へと辿りつき、目立たないようにこそこそと入室して自分の席へと向かう途中で、正面から誰かに抱きとめられて妨害された。  聞き覚えのある声で大げさに名前を呼ばれた。  幼い頃の記憶よりも大分、低くなったその声。  自分に抱きついたまま眦に涙を浮かばせて、嬉しそうな顔をして髪をぐしゃぐしゃと撫でてくるその人物は、幼い頃に別れた兄である礼二、その人だった。  この学園で数年ぶりに再会して、そして今は自分が礼二を抱きしめて彼の髪に顔を埋めている。  礼二に会う前は彼と再会したことで普通の生活が脅かされるかもしれないと言う事ばかり気にして必要以上に過敏になり怯えていたように思う。  けれど、この学園に入学した時点で自分が望んでいる普通の学園生活は出来ない事はきっと確定していたようなものだ。  何事も無く穏やかに学園生活を満喫する事。  翼の望みはただそれだけの事で、とてもささやかな願いだった。  結局そのささやかな願いは叶えられる事はなかった。  騒がしくそして慌しくあっという間に3日間が経過しようとしていた。  変わり者ばかりがなぜか集まっているこの学園では、なにも礼二だけが特異な存在というわけではなかった。  皆、それぞれに個性的で、ユニークな思考の生徒ばかりだ。  そんな生徒達と関わったり、交流しているうちに、いつのまにか翼はすっかりそれに慣らされてしまって、普通であることにそれほど固執する事もなくなった。  変わり者の生徒達に感化されたせいか毒されてしまったのかどちらなのかは分からないが、普通という何の変化もないただ穏やかに過ぎていく時間が自分にとって大切なものだった事に変わりはない。  だけど、ありきたりで当たり前に日常を過ごせる時に幸せを感じて、それを噛み締めて生活する事は礼二と別れてから今までの間に充分満喫できた。  今まで礼二に背を向けて逃げようとばかりしていた自分だったが、今はもう心の整理も出来て彼と向き合い共に生活していこうという覚悟も出来た。  礼二と離れ離れになっていた間に翼はささくれだってひび割れていた自分の心を休めて癒す事が出来た。    父親が礼二を連れて、家を出て行き、後に残された翼は寂しさよりも内心ホッとしていた。  あのまま、礼二と共に生活していたら自分も母親のように精神が参ってしまい発狂してしまうかもしれないと恐れていたからだ。  礼二と離れて暮らす事は翼にとって疲弊しきってギリギリの状態で保っていた自分の精神を休めて回復させるための療養期間として必要だった。  母親は現に入院して半年以上礼二と離れて生活する事で、なんとか正気を取り戻し、普通の生活がまた送れるレベルにまで回復して帰ってきたのだ。  そして、今、こうして向き合って、自分の腕の中にいる礼二の言葉に耳を傾けようと思う。  少しでも礼二の気持ちや考えを理解してやれるようになれたらもっと上手く彼と付き合っていけるだろうか?  そんな事を考えながら翼は自分に擦り寄って甘えてくる礼二を抱きしめて、髪に埋めて俯いていた顔を上げて彼の様子を改めて伺い見る。  礼二はそんな翼の視線に気付かずに、幸せそうに目を細めて笑みを浮かべて満足そうに愛しい相手の胸に顔を埋めている。     父親も母親もそれぞれに礼二と向き合おうとして努力してそれでもダメだったのだ。  礼二と一度も真剣に向き合おうとすらした事がない自分に比べたら両親は自分たちに出来る事を精一杯にしてきただろうと今では思う。  だから自分が蔑ろにされていたことで両親を責めるつもりもないし恨んでもいない。  自分は礼二と離れ離れになる前から、彼が例の飛び降り自殺を図ろうとした事件を起こしてからも、それ以前からも真剣に実の兄と向き合って理解しようとしたことが無いように思える。  まだ礼二が普通の人達と同じだと思っていた頃の方がまだうまくやれていたような気がする。  礼二がどこかなにかおかしいと感じてからは、なんとなく態度がよそよそしくなったり彼を腫れ物でも扱うような態度で接していたように思う。  離れ離れになってからは彼の存在自体を忘れようとして向き合おうとすらしなかった。  本気で礼二の事を理解しようと向き合おうと考えたことすらなかった。  腰に回された礼二の腕は翼の服をぎゅっと掴み、二度と離さないとでもいうようにしっかりと握り締められていた。  離れ離れになっている間、とても寂しかったのだと吐露して泣いていた礼二の悲しげな表情を思い出して胸が締め付けられるようだった。  それでも礼二は翼が自分と離れて暮らしている間、幸せであったのならそれでいいと言ってくれた。  そして自分が存在する事でそれが翼を苦しめるのなら、自身の存在を消し去っていなくなる事も厭わないと。  そう言った礼二の寂しそうな悲しげな表情が翼の脳裏に鮮明に焼きついていた。  今はもう礼二にいなくなってほしいなどとは思っていない。  翼の為に一生懸命にがんばっている彼を見て可愛いと思った。  長い間、寂しい思いをさせていた分、自分が彼を守ってやらなければとも。  それはただの独占欲から来る独りよがりの汚い感情でしかないかもしれない。  けれど今は礼二を自分以外の男に抱かせたくないという自分の気持ちからも目を逸らす事は止めにしてちゃんと向き合おうと思う。  

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