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初めてのお留守番~佐藤といっしょ~【13】

    礼二は目を見開いて佐藤を見上げてしばらくの間自分が何をされたのかわかっていないような表情で固まっていたが、ジンジンと熱を持った痛みで我に返り、腫れた頬を掌で押さえた。  ヒリヒリとした痛みを訴える頬を押さえたままで小刻みに震えだして礼二は涙と唾液で既にぐしゃぐしゃの顔をさらに歪めて本格的に幼子のように声を上げて泣き始めた。 「ふわああああん!」  礼二の泣き声を聞いて佐藤はしまったというような顔をしたが既に遅かった。  礼二の頬は誰が見てもわかるぐらいに赤く腫れ上がり、彼の整った顔を無残に変えてしまっていた。  元々肌が白くて痕が残りやすい体質の礼二は思いっきり叩かれた頬の腫れがより赤くなって余計に痛々しく見えた。 「うっ、ああっ! うあぁあぁあっ!」  この部屋の壁がいくら物音や声が外に漏れにくい作りをされているとはいえ、今以上の大声で泣き叫ばれでもすれば隣の部屋にいる生徒に泣き叫ぶ声が聞こえ、ばれてしまうかもしれない。  ただでさえお節介な輩が多いところだ。  何事かと余計な心配をして他の部屋の生徒が様子見にやってくるかもしれない。  44号室の隣の43号室は確か天上院真澄と小林龍之介の寮室だ。  天上院真澄は龍之介以外の人間にまったく興味を持っていないから、隣の部屋で泣き叫ぶ声がしようが駆けつけてくるという心配はないだろう。  問題は、初日から翼と仲が良さそうでいろいろと彼の世話を焼こうとしていた小林龍之介の方だ。  彼が、翼の兄である礼二の泣き叫ぶ声を聞いて、それを無視する方が不自然だ。  さらに、小林龍之介は正義の味方気取りで曲がった事が大嫌いな正義感を振りかざすような性格で、誰かが泣き叫んでいるのを見過ごすような人物ではないらしい。  自称、情報屋から聞いた話ではそんな性格が災いしてか、正義感が空回りして、一部の生徒に煙たがられているような事を言っていた。 「ふああぁあぁっ!」  泣き叫ぶ礼二の口元を押さえて気が付けば黙らせるために塞いでいた。 「うーーっ!」  口を掌で覆うようにして塞がれて礼二がくぐもった声を上げて唸って涙と鼻水とぐしゃぐしゃになった顔でこちらを怯えたような目で見上げてきた。 小刻みに肩と指先が震えている。  礼二は今まで生きてきて誰かに殴られた事が一度もなかった。  下手な事を言えばなにをするかわからない礼二を腫れ物を扱うようにして育ててきた両親は長男にだけはまったく手を上げたことがなかった。  翼は何か悪い事をしたときだけ軽く叩かれたりはしていたが、礼二は生まれてこの方そんな経験は一回もしたことがなかった。 「シーーッ!」  礼二の口を右手で押さえて塞いだまま佐藤は少し焦った表情で、左手の人差し指を一本立てて自分の口元へと宛てる。 「んぐっ、んんっ!」 「礼二様、静かに……」  佐藤がそう言うのを聞いて礼二は無理に声を出そうとするのは止めて泣き叫びたいのをぐっと堪えて飲み込んだ。  自分で自分の身体を傷つけた事は多々あっても誰かに手を上げられた事は初めてで、よくわからない恐怖感に駆られ、半ば軽いパニック状態に陥りかけていた。 「礼二様、大声を出したら人がきちゃいますよ。 翼君にこんな現場を見られたいわけじゃないでしょう……落ち着いてください」  佐藤は淡々とした口調で礼二に言い聞かせる。   「んっ……」  自分を殴った張本人が言うそんな言葉に礼二はハッとした表情で一瞬だけ目を見開いてから小さく頷いた。  他の男にこんな事をされている現場を翼に見られでもすれば、きっと彼に嫌われてしまうと礼二は思い、泣き叫びたいのをぐっと堪えて口を閉じて歯を食い締める。 「はあ……礼二様、少しは、落ち着きましたか?」 「ふっ……んんっ」  礼二が涙ぐんだ目で自分を見上げてコクンと頷いたのを確認してから口を押さえつけていた手をのけて様子を伺うように彼を見下ろす。  掌にべっとりと礼二の唾液が付着して指と指の間に糸を引き橋を作っていた。  口を押さえられたときに多分、鼻から大量に流れ込んだ液が唾液と混ざり合って透明な粘液のようになったのだろう。   「うわー……手が礼二様の鼻水と唾液でべとべとになってる」  佐藤はそんな事を言いながら苦しそうに荒い息を吐いて白い胸を上下させている礼二を見下ろした。 「はあ、はあ……」  思わず殴りつけてしまったせいで左側の頬が酷く腫れて、真っ赤になっているのが痛々しい。  ここまで本気の力で人を殴りつけたのは佐藤も初めてのことだった。  ずっと目立たないけどいい人という殻を被り続けて生きてきたせいで、何か腹立たしいことがあってもそれを表には出さずに我慢して押さえつけて、ずっと自分の中だけで消化してきた。    それなのに、礼二が翼の名前を泣き叫びながら呼んだ時に自分で自分を制御する事ができずに気が付けば口よりも先に手が出ていた。 「礼二様、お願いですから……ちゃんと、僕を見てください。 今、貴方の目の前にいるのは翼君じゃない……」  礼二を見下ろして悲しげに眉根を寄せて佐藤がそう訴えかける。  こんなに近くにいるのに、礼二は佐藤を見ようとすらせずに翼の名前を呼ぶ。  せめてこうやって二人きりでいる時ぐらい、ちゃんと自分を見て欲しい。   佐藤のそんな想いが通じたのか、礼二は無言のままコクリと頷いて佐藤の顔色を伺うように見返した。  今、佐藤が言う事を素直に聞き入れなければ翼から貰ったクマのぬいぐるみはバラバラに手足をもがれて壊されてしまうだろう。  結局、翼の事しか頭に思い浮かばないが、目の前にいる誰かが、博文という名前だと言う事だけは認識しようと礼二は紅い両の瞳にその姿を映した。  本当は、翼以外の人間を視界に入れることすら嫌なのに……そう思いながらも今はただ目の前にいるこの男の言う事を黙って聞くしかない。  礼二にとって翼以外の誰かの存在を受け入れてその人物の名前を覚えてそして記憶すると言う事すら、苦痛以外の何物でもなかった。  いつも、いつでも翼のことだけで頭の中をいっぱいにしていたい。  他の人間の事を見る事も考える事も本当はしたくなかった。  十数年間生きてきて初めてまともに翼以外の他人を見ようとした。 「礼二様、僕が誰だかわかりますか? もう忘れてしまいましたか?」  少しだけ悲しげな色を含んだ声で言う佐藤の言葉を聞いて、礼二はただ静かに瞬きすらせずに佐藤の姿を見返して抑揚のない声で答えた。 「さとう……さとう、ひろふみ」 「そう、それが僕の名前です。二人きりでいる時は下の名前で呼んで下さい」  礼二は小さく頷いて 「博文」 としっかりした口調で自分の目の前にいる相手の下の名前を呼んだ。  礼二の声が自分の下の名前を紡ぎ出すのを聞いて佐藤は深いため息を付いてそれを噛み締めるように瞼を閉じた。    礼二の口からこんな時にまで他の男の名前は聞きたくない。  たった今、ここでこうして礼二を抱いているのは゛佐藤博文゛であって゛美空翼゛ではない。  それがわかっているからこそ礼二もなかなか現実を受け入れられずにいるのだろう。 「大体、礼二様が悪いんですよ。 僕に抱かれている時に翼翼翼……他の男の名前ばかり呼んだりするから」  閉じていた瞼を開いて佐藤が口にしたその言葉を聞いて、礼二は痛む頬を押さえたままで固まって、わけがわからないままじっと動かずにいた。  佐藤が言っている事の意味がまったく理解できなかった。   「僕とセックスしてる時に、他の男の……いや、翼君の名前を呼ばないで下さい」  続けてそんな事を言う佐藤を見上げて礼二はただ黙って頷く事しかできなかった。   「次、またこんな事があれば僕は自分で自分が貴方に何をしてしまうかわからない。 痛い思いはできるだけしたくは無いでしょう?」 「んっ……わ、かった……」  礼二はヒリヒリと痛む頬を擦りながら佐藤が言う事を素直に聞き入れて返事をした。  自分で自分の身体を傷つけるのには慣れているけど今回、初めて他人に殴られてその痛みを知った。  自分で自分を傷つけるより、他人に自分を傷つけられる時の方が、痛くて、そして怖かった。

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