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第2話 5月の小説を書き始めた日

 風が帰った事を知り、軽く寝入り、食事と風呂を済ませた。  共に暮らす母はとても料理が上手い。金が無く、墓地に埋葬されていない父の骨壷が母の寝室の片隅にぽつり、と置かれている。数年前に亡くなった父の簡素な祭壇に、炊きたての白米と少しのおかず、それに焼酎を垂らした麦茶を供えるのは母の日課と言っても良い。母は「当たり前だ」と言うけれど、その様なものなのだろうか。  SNSアプリのメッセージを見れば、彼も眠っていたらしい。30分前に私の名前を呼んだ形跡があった。すれ違いになった様で、少し笑ってしまった。 『風。風呂からあがったよ』 『エゴ。お早う』 『でも、髪を乾かしていない』 『乾かして来て』  風に促されるまま、ドライヤーで髪を乾かした。私は普段は自然乾燥なので、可愛い妻でも貰った気がした。  生乾き程度になったので、軽く手櫛で整えて、スマホのアプリ画面をタッチする。 『風、乾かしたよ』 『お帰り』  それからは小説の話題になった。  彼は二次創作小説を書いている事。中学生の頃は頼まれて冊子に寄稿した事。  私はアルバイトの他にライター業で糊口をしのいでいる事。多少なりとも文章で食べて行きたいと思っている事。 『エゴの書いた小説が読みたい』  そう言う彼に、私はごく短い短編をスクリーンショットして、2枚送った。  お返しに、彼から数枚の二次創作小説が送られてきた。  衝撃だった。  私が彼の年齢の頃はこんなに流暢な美文を書いていただろうか。いや、三点リーダーの使い方すら危ういただの駄文を書いていた。ひたすらに楽しんで書いていたのは確かだが、この様な文学的なものを書いた覚えはなかった。  彼には才能がある。  私は確信した。  彼は文章で未来を切り開いて行くべきだ。  彼は学生だ。通信学校に通っていると聞いた。金に困っているだろう。そう思い、私は彼に提案した。 『ライターをしてみる気は無いかい?』  試しに在宅ライター業の請け負いサイトを紹介したのだが、彼は『意味が分からない』と言っていた。 『ゆっくり理解していけば良いよ』  そう私がタイピングすると、彼は一言呟いた。 『……怖い』  何が怖いのかと問うと『見知らぬ人が怖い』と言う。 『仕事の取引だよ。何も怖くないよ』 『やだぁ』  幼い子供の様な返事が返ってたので、内心苦笑いしてそれはそこで終わった。 『小説家になる気はないかい?』  ふと、思い浮かんだ事を私は彼に勧めた。 『小説家には、肩書きは要らない。君は小説家になるべきだ』  そこから、私の知識を披露した。エンターテインメント小説に不可欠のキャラクターの魅力、構成、ストーリー。彼と私が共通で好きな作品を引き合いに出して、蘊蓄を垂れたりした。 『エゴが一緒に書くなら。エゴと同じジャンルを書きたい。でも致命的、僕はキャラクターが作れない』  彼がそう言うので、私はなんの気無しに『私と君を書いて良いよ』と送信した。私小説等、古今東西珍しくない。 『やり取りを文章に纏めるのは難しいよ。僕は行動をなぞらえるんだ』  彼が見せてくれた小説も、森鴎外記念館に行った時の事を書いたらしい。 『だから、一緒に何処かに行こうよ』  彼がそう言うのに、生来の焦り症と精神手帳を貰う程の躁鬱病が私を逸らせた。 『今日起きた事を書くんだ』 『何も思い浮かばないな』  私は知っている。彼が海を見た事。私が午後4時に起きれなかった時、彼からSNSアプリに海の写真が載せられていた。車で精神科に行った事も知っている。車で移動中、暇だから話そう、と約束したのを覚えている。 『それだよ、それを書けば良い』 『うん。今日の事を書いてみる。エゴを待っていたのに起きて来なかった事もね』  楽しげに聞こえる様なメッセージの羅列に私は美酒に酔う様な心地がした。 『パソコンを開いて書くから、声を聴かせて』 『勿論だよ』  時刻は深夜の25時になろうとしている。襖で仕切られた古い2LDKの公共アパートの隣の部屋では母が寝ている。母はレンドルミンを飲んでいて、一度寝付けば滅多な物音では起きて来ない事を理解している。私は無料通話アプリを起動させた。  風に何字書けたか、せっつくように話している間に、私も何か書きたい欲に駆られて、最後の頃にテキストアプリを立ち上げて、風の事を書き始めた。清貧の私はパソコンを持っておらず、普段はアプリで小説を書いている。 「眠いね」 「エゴ、眠いなら寝ても良いよ」 「風が書き終えるまで、私は寝ないし寝たくない」  3時間にも及ぶ時間を掛けて、2人は1編の小説を書き上げた。  風は5000字余りの小説を書き、私は途中からなので、1200字と少し、位か。  雑談をしながら、SNSアプリの掲示板にお互いの小説を貼り付けた。  風の小説は、大変古風で純文学的だった。とても20歳そこそこの青年が書いたとは思えない。  才能。  私はそこにそれを見出した。一回り以上歳下の青年に嫉妬では無い、然しながら感情を揺さぶる何かの感銘を受けて、矢張り彼は文章を書くべきだと改めて思ったのは言うまでもない。 「小説サイトにアップロードしよう」  そうなると、風のペンネームを考えなければならない。  ふと、森鴎外記念館の話を思い出した私は、彼の名前を告げた。 「もりかおる」 「もりかおる、なら、もりは木偏につちのもりが良い」  口頭で告げられた漢字を、私はぱっと思い浮かべなかったが、もりかおると言う新たな存在が緑の香り立つ様に地面に降り立った様な心地がした。 「『えどざきえご』と『もりかおる』。対照的で良いね」  それから少し雑談をしながら、誤字を訂正して、お休みと言い合ってその日は眠った。  杜風。  彼のペンネームの漢字を知ったのは、起きてからSNSアプリのメッセージを読んだ時だった。

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