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第3話
目の前いっぱいに広がる海。
波が白い泡を立てながら寄せては返す。
ザザー…、ザザー…。
「…海って、本当にしょっぱいのかな」
画面に映し出される『海』の映像を観ながら、和哉は呟いた。
和哉は本物の海がどれほど塩辛いのか知らなかった。それどころか、海に足を入れたことも、本物を直接見た記憶もない。
けれども、和哉は海が好きだった。
陽の光が反射して輝く美しい水面。聴いているとなぜか穏やかな気持ちになる波の音…。
ーー絶対本物の海を見るんだ。
この映像を見るたびに和哉は強く思う。
けれどここから出るには番を見つけなければならず、番ができたらできたで、その番が海に行く自由を与えてくれるかわからない。
「そうだ!」
いてもたってもいられず、和哉は部屋を飛び出した。
「今日はお越しくださいまして、ありがとうございます」
会社が軌道に乗ってしばらくたち、三十路を越えた佳毅は煩い周囲に角が立たぬよう、とりあえずここ天国に番探しに来ていた。
いや、正しく言うならば探す「フリ」をしに来ていた。
「どうも」
内心辟易しながらも、わざわざ駐車場まで出迎えにきた施設長という男を無碍にもできず、適当な相槌を打つ。
これはここを訪れるα以外知らされていないことなのだが、番を引き取る際には、これまでそのΩの養育にかかった多額の費用を負担する必要がある。
いや、恐らく、それ以上の金額が上乗せされているのだろう。
施設長は必死になって佳毅の機嫌をとっているようだった。
「日下部様に相応しい番が見つかるよう、こちらで準備もしておりますので…」
絵に描いたような揉み手を横目に、その場を去ろうとしたときだった。
「ぎゃああああ!!!!」
「?!」
突然頭上から聞こえた叫び声に二人は驚きを隠せず空を見上げた。
「たっ、助けてぇ!そこの人!そこの!」
「和哉…!な、なに…」
真っ白だったであろう、質素な木綿の衣服を汚し、高い木の上で、天国のΩと思われる子がこちらを見下ろして震えている。
登ったはいいが下りられなくなったという様子だ。
女児かと思ったが、さっき彼は「カズヤ」と呼んだところから察するに、男児なのだろう。
「も、申し訳ございません。あれは見た目はいいのですが、少しああいうところがあって、貰い手もなく20を超えているのです。後で厳しく…」
ぺこぺこと頭を下げてはいるが、この男の言葉が気になった。
−−あれ、とか人を物のように…
普段、そんなことが気になる佳毅ではなかったが、気がつくとスーツのジャケットを男に手渡し、よいしょ、とその大木に手をかけていた。
「日下部様?!」
目を白黒させる男を尻目に、ぐいぐいと木を登る。
高い木だと思っていたが、あっという間にカズヤの元に辿り着いた。
「…速い…」
枝の間でにっちもさっちもいかず、涙ぐんでいたその青年が驚いたようにぽつりとこぼした。
しかし、驚いたのは佳毅も同じだった。
遠くからでははっきりわからなかったが、間近でみると恐ろしく美しい。
日本人離れした美しい瞳と、髪の色。
中性的な顔立ち。
そして何より…
「何できみは…こんなに甘い香りがするんだ…?」
思わず口から出た言葉に、和哉は首を傾げた。
その仕草一つ一つが佳毅の胸を締め付ける。
「私の背に掴まれるか?」
和哉は言われた通り、佳毅の背に周りぎゅっとしがみ付いた。
「あ、ありがとうございます…」
佳毅はこれまでに味わったことのない温もりを感じながら、登りよりもゆっくりとその木から下りた。
その後和哉は逃げるように去っていったが、佳毅の心は決まっていた。
「あの子を番にしたい」
そう言うと施設長は驚いたが、厄介者が選ばれて嬉しいと言わんばかりにすぐさま手続きを進めてくれた。
初めて和哉をこの家に連れて来たとき、不安からか和哉はぶすっとしていたが、そんな表情も可愛らしく思えるくらい佳毅はこの日を心待ちにしていた。
「和哉、と呼んでもいいかな?」
「どうぞ」
「あの時何故、木登りなんかしてたんだい?」
「…すみませんでした」
「いや、別に怒っているわけじゃ…」
そうは言っても和哉の機嫌は一向によくなる気配がない。
「ごめん、突然番と言われてもわけがわからないだろうな。君は好きにしくれて構わない。必要があれば何でも言ってくれ。私も必要があれば君のところへ行く」
あの時はよかれと思っていたけれど、今思い返してみれば味気ない会話だった。
番にした日も、半ば強引に抱いたのかもしれない。そういうことが積み重なって、和哉は佳毅と会う度、不機嫌そうな顔しかしなかった。
「俺がいて…いいのか…?」
ぽつりと飛び出た佳毅の言葉に、和哉はほんの少しだけ首を縦に振った。
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