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第1話

 突然だが、聞いて欲しい。おれソレラント・キリシアは、この世界で一番の幸せ者だと思う。  というのも、おれは今現在世界で最高の職場で働いているからである。  勤務時間は朝の九時から夕方の一七時までで残業は全くなし、週休二日、もちろん賞与有り、住宅手当等福利厚生も充実していてパワハラ上司や噂好きの同僚もおらず人間関係は良好。まだ申請したことはないけど有給だって取りたいタイミングで取り放題だろうし、そのうえ給料は高級官僚にも並ぶくらいの高額だ。  けれどおれがおれの職場を世界で最高だと思う理由はこういった労働環境のためだけではない。  むしろ、そんなのは結構どうでもいいことで、一番重要なのはおれが今誰に雇用されているかっていうことだ。  世界で一番聡明で、心優しく、誠実で、生真面目で、この国でも有数の良家の出で、スタイルもも最高で、そのうえ顔ももちろんめちゃくちゃかっこいい。そういう人の元で今おれは働いていて、だからおれはおれのことを世界で一番幸福だと思っている。  あの人におれが抱いている気持ちがどんなものか、それを形容するのは今やもうそう容易なことではない。  に初めて出会ったのは六歳のとき。ひと目見たときから、おれはただただ彼のことが好きだった。いわゆる一目惚れというやつだ。  しかしその時はただ単に、おれは彼に恋をしたのだと思っていて、幼いながらなんとなく恋人同士としてイチャイチャし合ったりする未来を妄想したりしていた。  けれど時が過ぎるにつれ、おれはやがて彼が自分とはまったく違う生き物であるという現実に気が付いていった。  おれと彼の間には、その生まれもった『性』のみならず、家柄とかそもそもの人としての格の違いとか、星と星とを隔てるような長大過ぎる距離がある。  彼が自ら光を放つ恒星なら、おれはそこからずーっと離れたところにある惑星の、さらにその周りをぐるぐる周回しているだけの小さな衛星というところ。  とても手の届かないような遠くで光り輝く彼を、対等に恋したり愛したりできる存在だとみなすなんて、つまりおれの生きるフィールドまで引きずり下ろしてくるなんて、とても許されたことではないのである。  おれにはこの世の誰よりも彼の価値を正確に理解できているという自負があるし、そしてその価値には、彼がおれとは違うずっと遠くの輝いたところで生きている人であるという事実も含まれている。  けれどおれと同じ目の高さまで彼を引き下げれば、つまりおれはおれ自身でその彼の揺るぎない価値を貶めてしまうことになるのだ。  それでは本末転倒だし、なによりそんなことおれ自身がとても耐えられない。例え妄想の中だけであったとしても、彼を貶めるなどけして許されないことなのである。  彼がはるか空の高くに輝く星なら、それは多分ただ仰ぎ見てだけいるべきもので、つまり遠くからただ崇拝だけしているべきもので、気軽に触ったり話したり恋したりできると思うなんて身の程知らずもいいところなのだ。  ヴェレドリル・エテ=ガルガ・ヘルテライト。それが、おれの雇用主かつ上司かつ幼馴染の名前。  ヴェリル―――ヴェレドリルさまの生家ヘルテライト家は、かつてこのネウロア王国の建国の王を助けたと伝わる『十六騎士家』、その一角を担う大貴族である。  ネウロア王国の南部にあるファンディルという街、貴族御用達の保養地として知られるそこで、かつておれはヴェレドリルさまに出会った。  夏の休暇に家族でそこを訪れていたおれは、沢遊びの最中にうっかり森の深くまで迷い込んで死にかけ、そこをヒーローさながら颯爽と現れたヴェレドリルさまに救われたのだ。  ひもじさのあまり泣いていたおれに、灰色の耳としっぽをぴんと立てて「大丈夫か」と手を差し伸べてくださったヴェレドリルさま。百万人いたら百万人全員が惚れるだろうなって思うくらいにその時の彼はかっこよくて、それ以来おれはヴェレドリルさまの(とりこ)になった。  おれの生家も末端ながら貴族の家柄で、ファンディルに別荘を所有している。  ヴェレドリルさまに救われた後、ヘルテライト家の所有する別荘とおれの家の別荘がたまたま近所であるということがわかり、おれは夏の間中人懐こい子犬みたいにヴェレドリルさまについて回った。ヴェレドリルさまも同い年のおれを一応遊び相手としては認めて下さっていたようで、その夏のうちにおれたちはずいぶんと親しくなった。  やがて休暇が終わって一度おれたちは別れたけれど、その秋に入学した王立貴族学院で偶然また再会し、おれは狂喜乱舞して再びヴェレドリルさまにしつこくつきまとった。  αであるヴェレドリルさまと、βだったおれ。  ヴェレドリルさまはそんな性の違いや、それぞれの生家の家格の違いも気にせずおれと接してくれ、数年のうちはおれたちはまるで対等な友人同士であるかのように過ごしていた。  けれどやがて学年が上がるにつれ、おれはそれが許されざることであるという現実に徐々に気付いていった。  幼いうちはほとんど違いがないように思えるαβΩの三性も、めきめき身長が伸び声変わりをする頃になると、それぞれの特徴を色濃く示すようになっていく。  特にヴェレドリルさまはそれが顕著で、彼はやがてαの中でも特別に優秀なαになっていった。成績は常に一番、体付きも目立って大きく立派になり、さらに耳やしっぽの毛色も灰色からより高貴な色であるとされる濃い黒に変わった。  そして何より、彼は誰にも負けない、思わずすくみあがってしまうような圧倒的な『統べるもの』としてのオーラを放つようになった。  貴族たち上流階級には当然αが多く、よって貴族学院に通う貴族の子息たちも半数ほどがαである。野生の狼と同じく、おれたちには基本的にそれぞれの性に固まって群れる習性があり、やはり学院でもαはα同士で、βはβ同士でつるむのが普通だった。  やがてヴェレドリルさまの周囲にも自然と学院でも特に優れたαが集うようになった。それでも身の程知らずなおれはめげずに彼にまとわりついていたのだけれど、しかしある日、ヴェレドリルさまは苛立った様子でついにおれにこう言った。 「お前に付き合うのは正直もう疲れたんだよこの愚鈍が。お前はお前の群れに帰れ」  断っておくが、ヴェレドリルさまはけして口の悪い方ではない。  それどころか、彼は基本的にその生まれと性に見合った、とても理知的で丁寧な話し方をされる方である。そのうえ、彼は老若男女に分け隔てなく誰にでもとてもとても優しい。  けれどどういうわけか、ヴェレドリルさまはおれだけにはいつも当たりが厳しかった。本来は誰よりも心優しく寛大なはずのヴェレドリルさまを、それでも苛立たせてしまうような何かがおれにはあるということなのだろう。  その『何か』の正体がおれにはどうしてもわからなくて、おれは彼の嫌がることはなるべくしないようにそれまで最大限の努力をし続けていた。 「誰にでも見境なくしっぽを振るなこの馬鹿が」と言われれば彼の前では極力しっぽを振らないように努めたし、「お前はαたちに媚びを売るために俺と一緒にいるのかこの淫売が」と罵られればどのαにも素っ気なく接するように心がけた。  けれどその一言でやっと、いくら努力をしたってどうにもならない、とても根本的な問題が最初からおれたちの間には横たわっていたことにおれは気付いてしまったのである。  ヴェレドリルさまとおれはどうしようもなく異なった生き物で、どうしたってともに生きることはできない。  その現実を受け入れたおれは、言われたとおり彼の側を離れ、すごすごとβの群れに帰った。  けれどだからといって、彼を愛しく思うことまでやめることができたわけではない。むしろ距離ができたからこそ、おれの気持ちはますます煮詰まって、より強く深刻なものになっていった。  ともに過ごすことが許されないなら、どうやってこの気持ちを発散すればいいのか。  悩みに悩み、想いを募らせ続けた結果、やがておれはひとつの方法を見出した。  かつて学院の同級生に、おれはこんな話を聞いたことがある。  ネウロア王国の王都にはいくつかの劇場があり、そこでは時折アイドルとか呼ばれている女の子たちがコンサートを開いている。  ふわふわした可愛らしい服を着て歌ったり踊ったりするらしい彼女たちには幾百幾千人もの”ファン”がいて、彼らはとても手の届かないようなずっと遠くから、それでも全身全霊で『愛』を表現しながら彼女たちを応援するのだという。  うちわを振るんだよ、そう彼は言っていた。 「うちわ?」 「そう。エリザベートあいしてる、手を振って、って書いたうちわ。それをステージの下で、喉が潰れるくらいの大声で名前叫びながら必死に振るの。そしたらさ、たまーにこっち見て手を振ってくれることがあるんだよね。まあ、だいたい俺がいるあたりのファン全員、『今俺に手を振ってくれた!』って思ってるんだろうけど」  どこか自嘲気味に笑ってそう言った彼は、それでもとても幸せそうに見えた。  おれはそのファンとアイドルの関係性に、ある種の天啓のようなものを感じていた。  ステージの上に生きる少数と、下に生きる大多数。崇拝するものは崇拝されるものの一挙一動にいちいち死ぬほど喜んだり、悲しんだりする。でもその感情の動きはけしてステージの上には伝わらないし、伝わる必要もない。  なぜならアイドルとファンは全く違う世界に生きていて、それらが交わることはけして無いからだ。そして交わることがないからこそ、アイドルはファンたちにとってどこまでも尊く、高みにある星として存在し続ける。ファンたちはただその星を見上げているだけで幸せで、その愛に見返りがほしいなんておこがましい事はけして考えない。  ヴェレドリルさまへのおれの想いが完全に一方通行の報われないものだと気付いた時、正直おれも一度は絶望した。しかし彼の話を聞いて、おれはおれもまたただうちわを振ればいいだけの話だったのだと気がついたのだ。  ヴェレドリルさまは生まれつきこの世の高みに奉じられた聖なる存在で、おれはたまたまそれを観測することを許されただけの幸運な俗物。  関わり合うこと、存在を知ることができただけでもとてつもない奇跡であり、そんな彼に日々『宇宙一あいしてる』と書かれたうちわを心のなかでぶんぶん振り続けることができるなら、これ以上望むことなどないではないか、と。  一度吹っ切れてしまえば、もう悩むことも無くなった。遠いところから思う存分彼を崇め奉ろうと、おれは心に決めたのである。  しかし劇場のアイドルと違って、そもそもヴェレドリルさまは崇拝されることを求めてはいない。人に好かれることは基本的に気分のいいことのはずだけど、おれはおれの気持ちが『気分がいい』で流すにはちょっと重すぎるものであるということにちゃんと気が付いていた。  それになにより、多分おれはヴェレドリルさまに嫌われている。嫌いなやつにこんなふうに熱烈に好かれるのは、多分ちょっと、いやとても、気持ちが悪いだろう。  ということで、おれは出来るだけ秘密裏にヴェレドリルさまを崇拝するように努めた。  なるべく彼の視界に入らない位置をキープして、その一挙一動を見守り、それを目にできた感動を忘れないようにいちいちノートに記録する。あるいは写真機を取り寄せ、こそこそと隠れて撮った彼の写真を自分の部屋中に貼ったりもした。  貴族学院は全寮制であり、二人部屋に暮らしていたおれはルームメイトに激しく気持ち悪がられたりしたのだけれど、そんな外野の声も一切気にはならなかった。信仰というものは、いつだって孤独なものなのである。  おかしな新興宗教を盲信する危ないやつみたいに、おれの彼への想いの形はいつのまにかそんな尖りきったものになっていて、でも今に至るまでずっとおれは結構幸せである。  信じるものがあるとき、人は幸福でいられる。  例えば神様を信じるとき、人は無条件にその神というものを肯定するし、愛しもするだろう。  けれど実際、その神様と顔を合わせて親しげに喋ったり、スキンシップしたり、あまつさえ恋愛をしたいなんて思う人はいないはずだ。  おれの彼への思いも今やこれにかなり近くて、だからつまりおれにとって彼はもはや神様のようなものである。危険人物呼ばわりされるのであまり大きな声では言えないけど、正直今すぐ神殿でも建てて生き神として奉るべきだと常々思っているくらい。それで、その神殿の神官になることがおれの秘かな野望だ。  けれどそんな彼に、どういうわけかおれは雇用されてしまったわけである。  なぜそんな奇跡みたいなことが起こったのかといえば、それはひとえにヴェレドリルさまの慈悲深さのお陰であるとしか言いようがない。  おれは少し前まで、ちょっと人に言うのも憚られるくらいに真っ黒な、労働法規どころかもっとシリアスでシビアな法もがっつり犯しているようなブラックもブラックな職場で働いていた。  給料もなし、休日もなし、有給やら福利厚生という概念もなく、というかそもそも人権も何もないお仕事。  おれがそんな目に遭う羽目になった経緯(いきさつ)にはちょっとだけ、本当にほんの少しだけヴェレドリルさまも関わっていて、そして彼はずっとそれに責任を感じてくれていたらしい。だからヴェレドリルさまはわざわざ数年行方知れずだったおれを探し出し、そのうえこうして雇用までしてくださったのだ。

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