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第2話
雇用関係が、崇拝するものとされるものの距離感として適切かといえば、多分まったくそういうことはない。というか、正直いくらなんでも近すぎる。
社員数千人規模の大企業のCEOと平社員くらいの距離感だったならまだおれも心穏やかに崇拝していられたのだろうけど、現状おれとヴェレドリルさまの肩書は専務と社長くらいの近さで、ほとんど毎日顔を合わせて会話を交わすし、一緒に食事をしたり、何ならもっと立ち入ったコミュニケーションをとることだってある。
おれという小さな器から溢れんばかりの幸福に溺れながら、けれどおれは常に自分自身に言い聞かせてもいた。
これはあくまで何かの間違い、惑星と惑星の距離がふいに近くなる天文現象のようなものであって、けっしてヴェレドリルさまがおれの目線の高さまで降りてきたわけではない、と。
永遠に続く天文現象などありえない。そんなことが起きたら、星の流れが乱れ、時間は停滞し、世界の理が崩れ――いずれこの世は崩壊してしまうに違いない。
人は長い人生のうち、数度は大規模な天文現象に遭遇する。一晩続く流星群とか、皆既日食とか、そういうやつに。
きっとおれのこの幸運も、そういった類のものなのだとおれは思っている。数十年、数百年に一度の奇跡。けれど天文現象は、いつかは必ず終わるものだ。それも本来ならごく短期間で。
そう肝に命じながら、おれは今ヴェレドリルさまのもとで”司書”として働いている。
建国当時、王家は国の歴史を記録し、『国史』として後世に残す役目をヘルテライト家に託したという。いわばヘルテライト家はこのネウロア王国の『書記係』であり、そして今では国史の編纂のみならず、この国で書かれた全ての書物を記録・保管する役目も任されている。
ネウロア王国で出版される書物はすべて一冊だけヘルテライト家に献呈しなければいけない決まりになっていて、そうして集められた膨大な数の本は全てがヘルテライト家の屋敷の広大な敷地内に建てられた何棟もの書庫に保管されているのだ。
ヘルテライト家の当主は、先代からその立場を引き継ぐと同時に、これらの書庫の『大司書長』という役職にも就くことになっている。若干一九歳で当主を継がれたヴェレドリルさまもまた、現在はこの役職を名乗られていた。
書庫に保管されている書物は、希望があれば身分や地位は問わず屋敷の外の者に貸し出される決まりになっていて、そういった対応や書物の整理を任された司書たちが各書庫に雇われている。各書庫には司書長と呼ばれる司書たちの責任者がおり、ヘルテライトの当主はその司書長たちをさらに束ねる全書庫の最高責任者を務めているというわけである。
そしてこれらの書庫のうちの一棟、第七書庫におれは司書として勤めている。
おれの勤める書庫に収められる本はいわゆる曰く付きのもの――低級霊が憑いていたり、えげつない呪いばっかり記してある魔術書だったり――が多く、そのため書庫自体が他の建物とはずいぶんと離れたところに建てられている。
敷地のずっと奥まったところ、庭園の奥にぐるりと結界のような円形の壁が築かれていて、その中心にどかんと建っているのが第七書庫だ。手放したいけれど祟られそうだから捨てるわけにもいかなくて、みたいな本が厄介払いみたいに集まってくる書庫だから、ここに貸出依頼が舞い込んでくることは滅多に、というかほぼ全く、ない。
よって業務内容と言えば書物を適切に保管することくらいで、人手はほとんどいらないから働いているのは実はおれ一人のみ。つまりそもそも同僚も何も存在しないので、職場の人間関係が悪化する恐れは皆無。ある意味で最高に健全な労働環境である。
それにおれ一人しかいないということはつまりこのセクションで一番えらいのも自動的におれ、ということになるので、おれの役職名には一応『長』がついていたりする。ヘルテライト家の第七書庫司書長、それがおれの現在の肩書だ。
しかし、おれは別に司書長らしいことは何もしていない。他の司書長たちは定期的に会議を開いたりしているらしいのだけれど、おれはそれに参加したこともない。
第七書庫というのはさっきも言ったようにちょっと特殊な部署だから、司書は基本的に常にこの書庫のある円形の壁の内側にいるべきだとされているらしく、おれはけしてここから離れることがないからである。
それは業務時間外でも変わらないことで、俗に言うアフターファイブになってさえおれが壁の外に出ることはない。例え雇用先とはいえプライベートの行動まで制限する権利はないように思うが、けれど別にこれは強制されていることではなく、おれはただ単に社員寮に暮らしているだけである。
第七書庫の脇にぽつんと建つ、こじんまりとした一軒家。それがいわゆる社員寮、ヴェレドリルさまがおれのために用意してくださった住宅手当つきの住居だ。
雇われたばかりの頃、ヴェレドリルさまは思い詰めた顔をして「食事も何も必要なものは全て俺が運んでくる、だからお前はここから一歩も出ないでほしい」とおれに頼んだ。要するに、屋敷の外から通うのでなく、水道光熱費や食費は全て負担するから社員寮で暮らしてほしいという意味だろう。
先ほども言ったように、この書庫には常に側に司書がついていたほうが望ましいとされているらしい。業務として夜間宿直させるほどの必要性はないからおれの自由意志に任せるけど、出来れば業務時間外も近くにいてくれたらありがたいな、といった趣旨のお願いをヴェレドリルさまはおれにしたのだろう。
元々事情があって住む家もなかったおれにとって、その申し出は願ってもないことだった。おれはそれを快諾して、それからずっと壁から一歩も出ずに暮らしているというわけである。
壁の中の暮らし、もとい第七書庫司書長としての勤務は日々非常に穏やかだ。
この書庫はどうやら他の司書や屋敷の使用人たちから少し気味悪がられているらしく、貸出依頼どころかそもそも人がやってくることが全くない。だからおれは日々、たった一人でひたすらに書庫の湿度温度を管理したり、本の虫干しをしたりして暮らしている。
顔を合わせるのは必ず一日に数度はおれの様子を見に来て下さるヴェレドリルさまくらいだが、でもおれは特に寂しいとかは思わない。ヴェレドリルさまのご尊顔を拝めるだけでおれは基本的にとても幸せで、それだけで孤独感も何もかも吹き飛んでしまうので、この職場に勤めているかぎりおれのメンタルはどこまでも健全なままだと思う。
しかしせっかく雇ってもらっているわけだし、ヴェレドリルさまに恩がある身としてはあまり楽な業務ばかりなのも申し訳ない。単に本を保管するだけでなくもう少し工夫してみてはどうかと思い、おれは最近書庫の再分類を始めていた。
第七書庫の本は『呪い』だとか『怪談』といった大雑把なジャンルに分けて収蔵されているので、それを『生死に関わる呪い』『金銭に関する呪い』といったように細分化した分類に整理し直そうと考えているのだ。
現在、おれはまず『呪い』の棚の本から分類作業を進めている。今日も巨大な書棚の備え付けの脚立に上り、最上段から一冊ずつその内容を確かめていた。
『Ωを呪い殺したい貴方に』――これは妾のΩに嫉妬する正妻のαやβのための本だから、小ジャンルは『恋愛』。
『不幸を呼び込む呪い一二選』――載っている呪術はどれも悪質ではあるけど死に至るほどのものではないので、少ジャンルは『悪意ある悪戯』。
『呪術的産み分け法~仇敵の血筋を途絶えさせるために~』――これは特定の家系に生まれる子の性を操作する呪いで、子孫まで影響するものだから、小ジャンルは――
「ソレラ!」
ふいに声が聞こえ、おれは目が眩みそうなほど高くから足元を見下ろした。
最初から声の主はわかっている。この書庫に出入りする人間はおれの他にただ一人しかいないし、あの人の声を聞いておれにそれが誰かわからないはずがない。
「何してる!一人で脚立にのぼるなとあれほど言っただろうが、お前には耳がないのか!?」
紺を染め重ねたような深い色の一対の耳と、その毛色によく似合った艶々とした黒髪。切れ長の美しい目はすこし酷薄そうな印象も受けるけれど、長いまつげに縁取られた藍色の瞳は情の深さを感じさせる煌めきを孕んで輝いている。左頬の控えめな黒子 と、近頃かけるようになったつるの細い眼鏡が、彼をいっそう上品で理知的な印象に見せていた。
今日もまた変わらず、ヴェレドリルさまは麗しい。何だかすごく怒っているみたいだけれど、そんなことは少しも気にならないくらい。
「早く降りて……いやいい、俺がそこまで迎えに行く。お前はぴくりとも動くな。いいか、ぴくりともだぞ」
「え、ご、ごめんなさいヴェレドリルさま。でも大丈夫、おれ一人で降りられ、」
「駄目だ!この間足を踏み外して死にかけたのを忘れたのかこの鳥頭が!」
言うと、ヴェレドリルさまはあっという間に脚立をのぼり、おれを軽々と抱え上げたまままた下へと降りた。
人を抱えたまま脚立を降りるなんて逆に危険ではないかと思うのに、彼の足取りはまったく危なげがない。さすがはヴェレドリルさま。
「だいたいお前、一体なんのつもりで呪いの書なんか漁ってる?ここに収められた本がどれだけ危険か、お前ももうよく思い知ってるはずだろうが!」
「こ、この前は『呪い』の書棚じゃなくて、『禁忌魔術』の書棚だったし……」
「そうだな。それでお前は触れてはならない魔術書に触れ、得体の知れない魔獣を呼び出してそいつに襲われたわけだ。それも俺が様子を見に来るまで、何時間もな」
世の中には触れただけで魔術が発動する本なんてものが存在するということを、おれはここに来て初めて知った。
彼の言う通り、つい先日おれはそういった失敗を犯し、なんだかよくわからないにょろにょろした怪物に数時間巻きつかれ、散々触ってほしくないところに触られたり、挿れてほしくないところに突っ込まれたりするといった経験をした。
魔獣は召喚されたばかりでお腹が空いていたらしく、どうやら人間の体液から魔力を得ようとしていたらしい。
ちなみに魔獣を退治したのち、ヴェレドリルさまはその本を跡形もなく焼却処分してしまった。危険とはいえ相当貴重な本だったらしいのに、燃やしてしまってよかったのだろうかと思う。
「だから、ちゃんと注意して、危険そうな本には触らないように……」
「危険そうな?魔術の心得もないお前にそんなことがわかるのか?いいか、呪いの書の中にはな、触っただけで実際呪いを受ける本も、下手をすれば死に至るまで生気を奪い取る本だってある。おかしな死に方をしたくなければ不用意に書庫の本には触れるなと、おれはお前に再三伝えたはずだが?」
「で、でもぉ……」
おれは司書である。ヴェレドリルさまだって、間違いなくおれに第七書庫司書長を任せると言ってくれた。
司書の業務は本に触らなくてはできないし、それをするなということはつまりヴェレドリルさまはおれをクビにするつもりだということなのだろうか。確かにおれは失敗してばかりだし、リストラされても仕方ないのかもしれない。
そんなことを考えていたら耳が勝手にぱたんと倒れ、しっぽもくるりと丸まり、さらには涙まで溢れてきた。
ヴェレドリルさまは苛立たしげに舌打ちをする。
「……っ、泣くな!幼児かお前は。少し注意しただけだろうが」
「うっ、ごめ、ごめなさっ……おれっ、……ひっ、おれ、クビ……ですか?」
「はあ?そんなこと一言も言っていないだろう。俺はただお前を危険な目に遭わせたく……いや、まあいい。俺も悪かった、言い方がキツ過ぎた。……夕食を運ばせた、そろそろ切り上げて食事にするぞ。腹も減っただろ」
「え、で、でも……まだ五時になってないです」
「俺がいいと言ってるんだ、今日はもう止めにしろ」
ヴェレドリルさまはおれの手をぐいと引き、無理矢理に書庫の外へと連れ出した。
この円形の壁はもともと庭園の中にあるためか、壁の中にも一面に花が植えられていて、”社員寮”まで続く道もムクゲの花畑に囲まれている。
甘やかな蜜の匂いを漂わせムクゲが咲き乱れる中を、ヴェレドリルさまと手を繋いで――実際は、乱暴に腕を掴まれ引き摺られているといった方が正しいけど――歩いている。
アイドルのファンはただ握手をするためだけに何百ギリスもする『握手券』というものを買ったりするらしいけど、もしそのアイドルと『手を繋いでムクゲの花畑を歩ける券』が発売されるとしたら一体いくらくらいの値段になるのだろう。
何千、何万ギリスはくだらないのではないかと思う。それをどういうわけか、おれは現在無料で、それどころか実質給金をもらいながらも体験することを許されているわけである。
ここにいると日々こんな奇跡のようなことばかり起こるので、そろそろおれは幸福の過剰摂取で死ぬのではないかと思い始めているところだ。
「……何をぶつぶつ言ってる。何の過剰摂取で死ぬって?」
「えっ、な、なんでもないです。ヴェレドリルさまには関係のないことです」
「……そうか。俺には関係がないのか」
じとりとおれを見下ろしながら、どこか拗ねたような口調でヴェレドリルさまは言う。
これは昔からずっと変わらないことだけど、おれはしばしば言葉の選択を誤ってヴェレドリルさまを苛つかせてしまうことがある。何だか不機嫌そうな彼の様子に、また何か間違ったかなあとおれは内心ひやひやした。
おれにとってヴェレドリルさまは神様だけど、でも彼は神罰など下さない優しい神様なので、誤ちを犯した時おれはおれ自身で自分を罰さなければいけない。
例えば、絶大な癒し効果を持つ『ヴェレドリルさまのご尊顔を拝む(それも写真ではなく実物を)』という行為を、しばらく自分自身に禁じたりとか。
結果として不自然にヴェレドリルさまから顔を背け続けることになり、その行動の不審さのためにまた彼を不機嫌にさせてしまったりすることもあるので、罰の選択には細心の注意が必要である。
「……ソレラ。その、ヴェレドリル様というのは止めろ。何度も言っているだろう」
今日の罰は何にしようかと考えていると、ヴェレドリルさまがぽつりと言った。
ここで働き始めた当初から、ヴェレドリルさまはおれが彼の名前に敬称をつけたり、敬語を話したりするのを嫌がっていた。昔のようにヴェリルと呼べと、おれは確かに何度も彼に言われている。
「……へ?あ、あの……は、はい、いや、うん。……ごめんね、ヴェリル」
ヴェレドリルさまが表情を和らげるのがわかり、おれは少しほっとした。適切な謝罪が出来たので、今日は罰を免除してもいいかもしれないと思う。
俺のことが怖いか。以前彼にそう聞かれたことがある。
多分、おれがあんまりにも畏まった態度を取るせいで、慇懃無礼も飛び越えてもはや怯えているみたいに見えたのかもしれない。
『畏れ多い』ということが『怖い』ということなら、おれは彼を怖がっているということになるのだと思う。
けれど、そう聞いてきた時のヴェレドリルさまは何だかとても悲しそうで、日頃空気が読めない自覚のあるおれにすら馬鹿正直に「はい」と言ってはいけない場面であることは何となくわかったので、おれは首を振って怖くないと答えた。
それを聞くとヴェレドリルさまは安心したように、それでも少し寂しそうに微笑んでいた。
αとして、支配者としての威圧感を備えたヴェレドリルさまは、多分人一倍他人に畏まって接されることに慣れている。人々は誰でも無意識に、彼を高くに存在する星として扱ってしまうのだ。
だからそうされることは彼にとってもごく当たり前のことなのだろうとおれは思っていたけど、もしかしたらヴェレドリルさまは時折それに嫌気が差したり、息苦しさを感じることがあるのかもしれない。
敬われるということは、同時に距離を置かれるということでもある。空に輝く星は美しいが、その美しさの恩恵を受けるのはそれを見上げる下々の者だけ。星はたった一人、ただ高みで輝き続けていなければいけないのだ。
おれは、もしかしたらヴェレドリルさまは寂しいのかもしれないと思った。
彼は今や大貴族の当主であり、何の利害関係もなく対等に親しく接してくれる存在などもう滅多にはいないのだろう。
おれには完璧過ぎる存在に見えるヴェレドリルさまにも、人並みの痛みや苦しみがあるのだろうことはおれにだって何となくわかる。当主としての重圧がのしかかる日々の中で、今たまたま近くにいる幼馴染のおれにヴェレドリルさまが気安い付き合いを求めてきたとしても、不思議なことではないような気はした。
彼がそう望むならそうすべきだろうと思って、その時からおれはできるだけヴェレドリルさまと幼いころのように接するように心がけている。気を抜くとさっきみたいに地が出て、地面に額をこすりつける勢いでひれ伏しそうになっちゃうんだけど。
”社員寮”に入ると、すでに食卓には夕食が用意されていた。書庫を覗く前に、ヴェレドリルさまが自ら準備を済ませておいてくれたのだろう。
温かいきのこのスープと、羊肉の香草ソテー、白身魚のトマト煮、ヒマワリの形をしたミートパイ、ごろごろしたチーズの塊に、クルミを混ぜ込んで焼いた黒パン、白いクリームのたっぷりのったプティング、カゴいっぱいのフルーツ。今日もまた、食卓から溢れんばかりの食べ物が並んでいる。
ソレラは痩せすぎだと言って、ヴェレドリルさまはやたらにおれにたくさん食べさせようとする。部下の栄養状態にまで気を配ってくれるなんて、本当につくづく素晴らしい職場であり上司だと思う。
けれどそれにしたって用意された食事の量が多すぎるのは、単に二人分あるからである。どういうわけか、近頃ヴェレドリルさまはおれの家で夕食を食べていくのだ。
ヴェレドリルさまも一応血の通った人間であるからには、毎日必ず夕食を食べるわけだし、そしてこれはただそれを食べる場所がたまたまおれの家であるというだけの話である。
それはよく分かっているのだけど、やっぱり彼の信者であるおれとしてはこれは全く心穏やかではいられない事態だった。『好きなアイドルと食事ができる券』というものが発売されるとしたら、一体いくらくらいの値段になるのだろうかなどと、やっぱりおれは思わず考えてしまう。
あまり距離が近くなるのは、よくない。実によくない。
おれの中には当然目の前のヴェレドリルさまを片時も目をそらさず見つめていたいという欲があって、しかしその欲のままに行動しては彼におれの信仰心を悟られてしまう恐れがある。
だからあまり見ないように、近づきすぎないようにとおれは日々心がけているのだけれど、彼の方から近づいてこられるとそういった隠蔽工作のハードルがどんどんと高くなっていく。
見つめすぎるのも変、でもずっと見ないのも変。不自然でない見つめ方というのがよくわからず、おれはいつも挙動不審に視線を彷徨わせるはめになっている。
それに、彼と密室に二人きりでいるのもきっとよくない。広大な書庫ならまだしも、こんな狭い部屋に二人でいれば空気が篭ってしまうし、そうすると色々とまずいことが起こってくる危険性があるのだ。
また誰も――少なくともヴェレドリルさまは――望んでいない事故が、起こりかねない。
「またろくに食わないんだな。お前、ミートパイは好物だったはずだろ」
「えっ?え、ううん、ちゃんと食べてるよ。お、おれ、食べるのが遅いから……」
うつむいてなんとかそう答えると、正面の彼からまた不機嫌そうな気配が伝わってくる。
学生の頃から、おれはヴェレドリルさまがものを食べるところを見るのが好きだった。洗練された所作で美しく食事を口に運ぶヴェレドリルさまの姿はそれだけで一つの芸術品みたいで、おれはそんな彼によくうっとりと見惚れていたものである。
ただし、おれがそうして彼を見ていたのはあくまでごく遠くから。絶対に気付かれないような距離感で、おれはいつも望遠鏡などを駆使して彼の食事する姿を見ていた。
それが今は、ほんの数歩先の距離に彼がいて、状況としては間違いなく彼は『おれとともに』食事を摂っているわけである。
こんな状況で、おれが食欲旺盛に食事をすることなんてできるわけがなかった。視線のやり場がわからないのに加え、彼との近すぎる距離感に緊張して、ろくに物が喉を通らないのだ。
食卓に漂い出した重苦しい空気に耐えかね、おれはワインのおかわりを持ってくると言って一旦席を立った。
食堂と続き部屋のキッチンに移動し、これもまたヴェレドリルさまが持ってきてくれたボトルのワインをデキャンタに移していると、追いかけるようにして席を立ったらしいヴェレドリルさまがすぐ後ろに立っていることに気付く。
うなじのあたりにちりちりとするほどの彼の強い視線を感じて、おれは瞬時にまずい、と思った。
この空気には覚えがある。このままでは――また事故が起こってしまいそうな気がする。
事故とは何か。おれがこの書庫に連れてこられた最初の晩から、今までそれは数え切れないほど繰り返されてきた。
何というか、あけすけな言い方をしてしまえば、おれはヴェレドリルさまとセックスをしたことがあるのである。
αで、大貴族の当主で、おれの上司で、品行方正で、そしてなによりおれには少しの興味もないはずのヴェレドリルさまがどうしてそんなことをするのかと言えば、それにはかなり込み入った説明が必要になる。
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