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第3話 水晶池にて

 初夏の風が心地よく揺れる日のこと。  水鏡は街の見回りの息抜きをしに、大きな池の畔に来ていた。  水晶池と呼ばれるこの池は水の透明度が非常に高い。その名の通り、池の底まで見えるくらいに透き通っている。  池に満ちる清浄な気を胸いっぱい吸い込んで、水鏡はほう、と息をついた。  温かくて清らかな気が体中に満ちる。その心地良さに目を細め、池の畔に腰を下ろす。  土地神としての務めはふたつ。  その土地の気の流れを正常に整えること。そして土地に溜まっている負の気を浄化し、取り除くことである。  だが、浄化する際には必ず微量の負の気が身体に取り込まれてしまう。  体に蓄積された負の気は、清浄な気を持ってしか浄化することは出来ない。  そのため、水鏡は定期的にこの池へと足を運んでいた。 「ようやく一息つけるぜ……最近はあのヘンな人間に追いかけ回されて、息をつく暇も無かったからなあ……」  嫌なことを思い出し、一気に纏う空気が暗くなった水鏡は、物憂げなため息をつく。  闇に紛れて、契約を迫ってくる人間。  だが不思議なことに、纏う気は今まで水鏡が会ったことのある人間の中で一番清浄だった。  それどころか、甘い蜜のように誘惑してくるような霊力の持ち主である。 「あいつ、なんで俺に契約を迫ってくるんだ? そりゃ確かに昔日下の人間と契りはしたが、もう縁は切れたしな……」  水鏡は土地神であるが、そこまで大きな力を持った神ではない。  一妖怪から昇格し、神格をもつようになった神である。天つ神、国つ神には及ばない、末端の序列の神だ。  そんな格下の神を追いかけ回すなんて、全くどうかしていると思う。  水鏡に出来る事なんて土地の浄化ぐらいだ。その上短気ですぐ手は出るが、力の性質上戦いには向いていない。  全くもって、何で契約を迫られているのか、さっぱりわからないのだ。 「さすがにあいつもここまでは来ないだろ。少しゆっくり出来……」 「──お呼びですか?」 「わああああっ?!」  急に声をかけられて、水鏡は叫びながら飛び上がった。  慌てて立ち上がって振り向くと、後ろにいたのは無月だった。 「なっ、なんでここに……!」 「さっき通りがかったら、あなたがここにいたので」 「嘘つけッ、ぜってーあとつけてきてただろ!」 「まあ、そうとも言いますねえ」  ふふ、と目を細めて無月が笑う。  こいつと話すと本当に調子が狂う、と水鏡はげっそりしながら距離を取った。  出来れば今日は戦いたくないな。そう思いながら、いつ仕掛けられても良いように体制を整える。 「心配しなくても、ここでは戦いませんよ。清浄な池の気が濁ってしまいますから」  だからそんなに気を張らなくて大丈夫ですよ。そう言われて、水鏡は拍子抜けしたように身体の力を抜いた。  罠だろうか、と思って念のために気を探ってみる。だが彼が纏う気はいたって穏やかで、殺気は感じられない。 「なあ、お前、何で俺を追いかけ回してるんだ? もう神社もなくなって、日下家はこの土地を守護する役目も解かれただろ」 「ええ、そうですね。もうこの地に留まる日下の人間もいませんし」 「なら、なんで……」  理由を問う言葉は、途中で尻すぼみになって消える。  男の顔が一瞬泣きそうな表情に見えたのだ。  そんなにひどいことをいっただろうか。そう不安になった水鏡は、男が返した言葉を聞き、一瞬でも同情した自分を殴りたくなった。 「理由? 決まってるじゃないですか。可愛いからですよ」 「はあ? お前、目は大丈夫か……?」 「ええ、至って正常です。昔、一目見たときから、契約するならあなただって決めていたんですよ。その時は、あなたもそうして良いって返事をくれたのに……」  こいつの目は腐っているのか。  なんなら耳もおかしいんじゃないのか。  いや、それより気は正気か──いくつもの疑問が頭の中を飛び交っては消えていく。  誓って、水鏡はこの男と契約しても良いなどとたわけた返事をしたことは一度も無い。断じて無い。 「お前、誰かと人違いしてるんじゃないのか?」 「ふふ、そういうと思いましたよ……だからね、私はここへ戻ってきたんです。あの約束は本気だったのだと、証明するために」 「うそ、だろ……?」  自信たっぷりに言いきる男の言葉に段々と自信をなくしていきながら、それでも水鏡は精一杯の抵抗を試みる。  自分の記憶をさらっては見るものの、思い当たる節はない。  可愛らしい女子ならいざ知らず。こんな可愛げの無い男に、契約しても良いなどというものか。  そう自分に言いきかせてみるものの、いまいち自信を持ってそう言い切れない。 「──よくよく思い出してみて下さいね。白雨(はくう)」  そう言い残して、無月は去って行く。  水鏡はどこかその呼び名に引っかかりを覚えながら、男の背中を見送ったのだった。

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