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第5話 契約

 最近、空気が(よど)んでいる。  そうため息をついて、水月は水晶池へと向かった。  街中の(おり)を浄化してはここへ来ているのだが、それでも追いつかない。  加えて、定期的にやってきては契約を迫る男の相手もしなければならない。  水鏡が無月と出会って半年がたった。  己の役目と男の相手の二重生活に、水月はほとほと疲れ果てていた。  手足に重りを着けられたような倦怠感に目を向けないようにしながら、大きく息を吐く。  白月と契約をする前はこんなことが度々あったな、と思い出す。  元々穢れに弱い質の白天狗が、水鏡の本性である。  限度を超えた穢れは、正常な体と思考を蝕みはじめていた。  熱に浮かされたように、頭がぼうっとする。  気付けば逃げ場をなくした熱が、全身をぐるりと巡っていた。  澱みを外に出したいのに上手くいかない。そのもどかしさがいらだちを生む。  せめて体だけでも冷やせればと池に浸かってはみたものの、その熱は一向に治まらない。  とうとう意識まで朦朧とし始めて、流石にこれはまずいと悟った  このまま穢れに飲み込まれれば、悪鬼(あっき)として土地に影響を及ぼしかねない。  ここまで酷くなる前にもう少し気をつければ良かった。そう後悔しても、もう遅い。  誰かに助けを、と考えたとき。頭に浮かんだのはある一人の男だった。  霊力お化けの男のことだ。この町中に満ちる霊力を使って助けを呼べば、必ず気付く。  そんな確信があった。  彼に助けを求めるのは心底嫌だった。  だが悪鬼に身を落とすことを考えれば、そんなプライドは投げ捨ててしかるべきである。  そう無理矢理自分を納得させて、水鏡は小さく男の名を紡いだ。  ひとつ、ふたつ。その音は水のように満ちた男の霊力を震わせて、遠ざかってゆく。  みっつ、よっつ。名を紡ぐのも辛くなり、池の水の中へ体を横たえる。  いつつ、むっつ。名を重ねるごとに、少しずつ男の霊力が水鏡の体へと染み込みはじめる。  清浄な気は最後の砦となって穢れが深部まで及ぶのを食い止め、辛うじて意識を保つのを助けてくれていた。  彼に声が届いているのだ。  水鏡はそう確信をして、名を呼ぶ声に力を込めた。 「無月、聞こえてるんなら早く来い……っ!」  その声に応えるように、さわりと男の霊力がゆらめいた。  こんな時までもったいぶりやがってという悪態を胸の内で吐き出し、水鏡は息を吸い込む。  彼に助けを求めることはすなわち、彼と契約を結ぶことである。  彼は待っているのだ。男が水鏡の体に触れることを「許す」という、その言葉を。 「……日下の名を冠する者よ。美豆加々美神(みずかがみのかみ)が命じる。古き約定に従い、再び我と契りを結べ──」  どうにでもなれ、と思いながら水鏡は契約の言葉を紡いだ。  思考が焼き切れそうなほどに全身が熱い。  どうか、この熱を取り去って。お願い早く。  空気を求めてあえぐ魚のように、身をよじらせながら男の名を呼ぶ。  薄れゆく意識の中で、男の霊力が一層濃くなったのを感じた。  彼がそばまで来ているのだ。  それなのに。  あれだけ水鏡を捕まえようとしてきた男はこんな時に限って、許しを得なければこの身に触れようとさえしない。  早くしろ馬鹿、と手を伸ばすと、男は水鏡の耳に口を寄せて囁きを落とした。 「──日下無月、確かにその命を頂戴いたします。水鏡、どうか許す、と」 「この身、を……無月に許す……! 穢れを、すべ、て、祓え……っ!!」  最後の力を振り絞って言葉を紡ぐと、男は笑って水鏡の手を取った。  愛し我が君、どうかご安心なされませと抱きしめられて、ありったけの霊力を注がれる。  隅々まで体に行き渡る男の霊力は命の水のように手足の先まで巡り、熱を冷ましていく。  ──ああ、気持ちいい。  そう零した水鏡にそっと口づけを落として、無月は更に腕に力を込める。 「むげつ、もっと……もっと、ちょうだい……っ」  その霊力は麻薬にも似ている。  甘く清涼で、けれど飲めば飲むほど喉の渇きは増えていく。  甘露にも似た霊力は甘く思考を痺れさせ、何も考えられなくさせられる。  足りない、もっとちょうだい。  そう幼子のように強請(ねだ)る水鏡に、無月はいくらでもどうぞと笑った。 「あなたが望むなら、いくらでも。白雨……私はずっと、そうしたかった」  その言葉に引っかかりを覚えて、水鏡は奥底にしまってあった古い記憶を呼び覚ます。  ずっと、とは。もしかして。かすかな希望を込めて、男へそっと問いかける。 「むげつ……いや、びゃくげつ……?」 「白月としての前世の記憶はありますが、今は無月です。あの時は家のしがらみがあって、あなたと結ばれることはついぞ叶わなかった」  その言葉に、水鏡の思考が止まった。  この男はただ似ているというのではなく、かつて愛した男の生まれ変わりなのだ。  しかも、彼もまた昔、水鏡に同じ思いを抱いていたという。  そんなことは信じられなかった。  だって、白月はそんなそぶりを微塵も見せたことはなかったのだ。  彼は可愛らしい奥方をいつも大事にしていて、子どもを慈しみ、大切に育てていて。  白雨の入る隙はどこにもなかった。  ──なぜ、今更そんなことを言うのか。 「何百年もかけて忘れたのに……何で、今さら……っ!!」 「お待たせしてすみません。でも、今世では必ずあなたの身も心も手に入れると決めたので」  男は微笑んで、水鏡の唇に口づけを落とす。  ちゅ、ちゅ、と五月雨のように落とされるキスを必死で受け止めてそれに応えた。  空気を上手く吸えず、上がってしまった息を整える間もないまま口づけは深くなった。  歯列をなぞられ、舌を甘噛みされ、そうやって次々と与えられる甘い痺れは水鏡の思考を侵していく。  どちらの熱かもわからないぐらいにお互いの体温が溶け合って一つになる。  ──待たせた分も全部埋め合わせしてくれないと許さない。  潤んだ目で睨むと、無月はそれに応えるように腕の力を強くした。  男もまた、欲望に濡れた顔で水鏡を見つめている。その事実がたまらなく嬉しかった。  ──ああ夢のようだ、と合間に零れた言葉は、幸せに満ちていた。

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