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第1話
絽玖様は、誰よりも寂しさを知っている方だと、思った。
扉越しに聞こえた艶のある嬌声も。ただ、衣越しに撫でるだけの指も・・・。
あの日、『祝!出張!』と掲げられた紙の下、皆で、やんややんや~やんややんや~と舞い踊るコンちゃんについて行きたいと晴明様にお願いした時、晴明様は「行くのは構わんが、そのままの姿では駄目だ。この中から好きなものを選んで化けて行け」と私に言い、渡された『化身名鑑』の中から、その姿を選んでみたはいいのだけど、私の腕が未熟だったせいか、右足の膝から下を動かすことがほぼ不可能となってしまった。
袿(うちき/肌着に該当するのは単。その上に重ねて着る物で衣(きぬ)とも呼ばれる)に袖を通し、指貫(さしぬき/裾に括る紐が入った袴)を穿こうと足を上げた瞬間、上手く足が上がらずそのまま転んでしまった。
「・・・うぅ・・いだぃ・・・」
びったーんと派手に打ち付けた顎がジンジンと痛みを増す。涙目になっている場合じゃない事は私自身よく分かってる。けど、痛い事に変わりはないと思いながら、何とか指貫に足を通そうとしていたのを見ていたのだろう。
狩衣の布帯を結んでいる最中に、ふと、ふわりと視線を感じて振り向いた。
「・・・千早の君・・」
「・・君か・・・すまない。変な所を見せてしまったな」
わざと明るい声を出しながら眼前に立つ姫を見てみるものの、キラキラと水滴が揺らぐ彼女の瞳は変わらないままで。微かに震える口元を指で覆い隠すように私を見た。
「・・・そのおみ足は・・・どうなされたのです・・まさか・・」
前の姿なら手を伸ばすことの出来なかったこの距離も、今なら触れることが出来る。
私は何も言わずに微笑むと、群青色に染まる姫の長い髪を指で梳いた。
肉体は既に亡くなっている。青白く透き通ったままの、その姫の肌に触れることが出来るのは、ここがやはり晴明様の屋敷の中だからなのだろう。
「・・・・・・・・」
頬に触れるとほんのりと温かく、それでいてジジジと痺れるような感触が直に伝わってくる。
ゆっくりと瞳を閉じる姫の、色濃く残る右頬の焼かれたような痣を見た。
これは生前、姫が受けた松明の火の焼き痕だ。実際、手酷く捨てられ、行き場を失ったまま還る事も敵わず、惑うその身を怨身に変えて呪おうとした女達がここに集っている。
晴明様はそんな女達を屋敷に連れて来ては、咎める事もせずそのままにしている。
「何も無理に祓おうとは思っておらんよ。無理強いて祓いをしたとて、それが何になろう?その恨みを秘めたまま還ったとしても、今度は冥府殿にいる者達に迷惑がかかるのみ。なぁに、何名いても私は気にせんし、彼女たちが気の済むまでここに居ればいい」と晴明様は微笑むだけだ。
実際、屋敷の庭の手入れは女達がニコニコと楽しそうに行ってくれている。
でも、初めて屋敷を訪れた者には女達の姿は見えていないので、草だけがポンポンと空を舞う光景に恐れおののいて逃げ帰る者も少なからずいる事は確かだけど。
「・・・・・・・・」
垂れた前髪をやんわりと指で撫でると、『ほ・・』と姫の表情が少しばかり和らいだ気がした。
「・・・大丈夫。未熟な私の腕が招いた結果だ。気にしないで」
「・・・ですが・・」
「お叱りはしっかり受けるよ。まずは晴明様の所に行かなくちゃ」
わざと明るい声を出しながら、腕を上げて微笑むと、姫がクスクスと何故か可笑しそうに笑い始めた。
「?」
「千早の君様。狩衣が少しばかりずれておりますわ・・帯も緩んで・・」
「・・えっ!?どこっ!?」
ふふふっと微笑む彼女の表情は、本当に優しくて。肉体なぞとうに無くとも生きているのだとはっきりと示してくれる。その笑顔が逆に哀しくて。
「不思議ですわね。本来のお姿はあんなにも小さくてお可愛らしいのに・・今、直して差し上げますわね」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
姫の伏し目がちなその眼を盗み見る。
優しく紐解くように、絡み合った何かを解きほぐすように伸ばされたその腕が、とても悲しくて。
心の奥底にしまい込んだ何かを思い出させようとするかのように、ずきりと鈍い音が、私の心の臓を突きさすように締め付けたのは、きっと気のせいではないだろう。
心配だからと後ろを着いて来てくれる姫にお礼を言い、私が片足をずるずると引きずりながら歩く様を見て、晴明様の眉間の皺が厳しくなった。
「遅かったな」
「・・申し訳ありません。遅くなりました」
部屋を離れる前のほんわかとした空気とは違い、ビリッと張りつめたような空気が部屋中を包み込んでいく。
「・・・千早。お前、失敗したな。その足はどうした?」
「なっ・・なんとっ!失敗したですとぉ!いいいいけませぬ!早く化身の術を解かなくてはっ!もっもっ戻れなくなりまするーっ!!」
ヒヤ―ッ!と、両手を上げながら叫ぶコンちゃんの甲高い声と、コンちゃんズの声が重なり、ふよふよと浮く幽霊や怨霊の姫様方の絶叫までもが同時に部屋中に響き渡った。
対して晴明様は特に動じるようなことはせず、「まぁ。これもお前の腕が招いた結果だ。とりあえず行ってみろ」と言いながら、いそいそと墨で書いた紙を大きく広げ始めている。
「・・・あ~・・私どもは~・・お止めしたのですぞ・・」
勢いよく伸びていたコンちゃんの髭が途端にゆるゆると波線を描いて行く。
よく見るとコンちゃんズの髭も同じように伸びていた。
「・・・・???」
何だか嫌な予感がする。そう思っていた私の目の前に晴明様が墨字で書いた紙を広げながら私を見た。
「今日から化身であるお前の名はこれだ」
「命名・・・師匠・・・・?」
「そうだ。お前が行く場所はここからかなり離れた場所にある。妖怪たちしか入れない場所だ。昔は、イヨという名の神が治めていた山の中にあるんだが・・色々あってな。今、その頃の事を知る者が住む場所は累玄堂しかない。で、風の噂でそいつが先生と呼ばれているらしくてな。あれが先生なら、お前は師匠だ」
「・・・・・そんな・・晴明様を差し置いて・・私が師匠だなんて・・・」
「なんだ?気に入らんのか?」
「気に入るも何も・・師匠はやっぱり変ですよ。他に何かなかったのですか?」
「ない」
「・・・・・・」
よく見るとコンちゃんも、コンちゃんズの髭もゆるゆるになったままだ。恐らく私が来る前からずっと同じようなやりとりをしてくれていたのだろう。
足をずるずる引きずるように歩く私を見て、晴明様が肩を支えてくれた。
微かに「大丈夫か」と伝えてくれた言葉がほんのりと温かみを増していく気がして。
その言葉を返すように『大丈夫です』と気持ちを込めて微笑んだ。
「・・・なら、良い」
「・・・・・」
何気無い台詞。でも、その声の中に優しさが隠されていることを、私は知っている。
「・・・・・・・・」
「ここだ」
「・・・ここが・・」
眼前にはぼうぼうと燃える青い炎が見える。その炎の先は恐らく別の世界と繋がっている。
「お気をつけて~!」
「分かっておりまする!命に代えましてもお守りいたします故!」
「寂しくなりまするなぁ~」
「お土産は温泉饅頭とやらで構いませぬ故・・」
狩衣姿のまま、虫垂れ(むしたれ/薄い布)を回すように付けた市女笠(いちめがさ/男女兼用の笠の事で、女性は顔を隠すために虫垂れを用いる事もある。コンの場合は狐の姿そのままなため、顔を隠すために被っているが、尻尾はそのままである(笑))を被ったコンちゃんの側で、同じ顔をしたコンちゃんズが「おぅおう」と涙を袖で拭っている。
「・・・・・では、行って参ります」
「ああ。気をつけて行けよ・・・ああ。そうだ」
「はい?」
「向こうへ行ったら、朧の馬鹿を見つけておいてくれ。」
「・・・嗚呼・・・はい」
重だるい返答を返しながら空を見た。
空は快晴・・と言いたいところだが本日は生憎の曇り空だ。
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