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第2話
リリリーンと虫の声とカエルの声が微かに聞こえる月夜の晩に、睦月が何者かに連れ去られたとの一報が入り、筆を手にしたまま、晴明を呼ぼうと血相を変えて屋敷へ飛び込んだ皐月を置いて、筆を手にした朧月夜が周囲の静止を振り切るように淡く光るその先へ走って行ってしまったのは、もう七日も前の話になる。
『待て!朧!何も考えずに突っ走ろうとするな!俺の話をっ・・!』
『悪ぃ。皐月。きっとこれが閉じられたらもう探せなくなる。何処へ行くかは知らねえが、行ってくる。あとは任せたからな!』
『おいっ!待てとゆうに!?・・ぬおっ!?』
朧月夜の狩衣の袖を掴もうとした皐月が後ろに弾き飛ばされた瞬間に見た光景、それは光の渦に飲み込まれる様にその先へ消えゆく朧月夜の背中だった。
「・・あぁ・・なんてことだ・・」
皐月がそう呟いた瞬間。薄暗い闇の中で橙色の光が怪しく揺れ動いた。
「・・・やれやれ。騒々しい。一体何の騒ぎだ・・」
朧月夜の声に起こされた晴明は、お世辞にも機嫌が良いようには見えなかった。
目が覚めた千早を伴って御簾の外へと出る。
晴明の腿の辺りにしがみ付く彼の目には若干、怯えの色が浮かび口を堅く閉じたまま、ぎゅうっと単を掴んでいる。その手を落ち着かせるように、千早の頭を撫でながら晴明は先ほどまでギャアギャアと騒いでいた声の主を目で追った。
御簾の中とは違い、頬を撫でる風が少し肌寒い。
「・・ぁ・・。晴明殿」
「皐月殿か・・む?朧の姿が見えんが、あの馬鹿は何処へ消えた?」
「・・・それが・・・何処かへ・・」
片手で声を制止したまま、皐月の説明を聞くことなく、晴明は釣灯籠(つりとうろう/軒から吊り下げる照明具)の側に立っている狐に千早を預け、何かを探るように一人庭へと歩いて行く。
その後ろを追いかけるように松明を手にした狐が一匹歩いて行った。
五分ほどウロウロと歩き回った頃だろうか。
晴明は『ここか・・・?』と呟くと空に文字を描くように指を何度も動かし始めた。
やがて晴明の書いた文字が少しずつ赤みを帯びながら、ゆっくりと墨字となって浮かび上がっていく。
墨字が何度も浮かび上がっては、じわじわと燃え尽きるように塵に変化し、その煙が少しずつ円を描き始める。その様を眺める晴明の顔は未だ険しいままだ。
「あの馬鹿・・何もせずにここへ行ったのか」
「・・・?」
「・・皐月殿」
「はい」
「・・一体何があったのですか?」
「・・それが・・・」
ぽつりぽつりと呟くように話す皐月の声は少し重く、その隙間をさらう様にゆっくりと夜の風が晴明たちの頬を撫でて行った。
皐月の話は何とも奇妙な物だった。ある日の夕刻、とある国(地方)から商人が訪ねて来て、帝である神無月にと一本の筆を進呈した。その筆は何処から見ても普通の筆と変わらない。
「まぁ・・それは何でございますの?」
東廂(ひがしびさし/東孫廂に控えた侍臣と御簾越しに接見を行う際に帝が座す部屋の事)へ抜け出し、単(ひとえ)の上に袿(うちき)を羽織り、胸元をさらけ出したままの神無月に、しな垂れかかるように女房が筆と彼を交互に見た。
よく見ると彼女の袿も乱れたままだ。
「ん?・・筆だそうだ」
「まぁ・・では、その筆で何か書いて下さいましな」
「・・お前は私の字が見たいのか?」
フンと鼻で笑う様に神無月が女房を見る。普段から伸びたままの髪を結い上げる事もせずそのままにしている事もあってか、情事を終えた後の彼の表情は、より艶を増しているようにも見えた。伏し目がちな瞳のまま、無造作に髪をかき上げる仕草に「ほぅ」と女房の唇から吐息が漏れる。
相変わらず、神無月の瞳の奥には焔が揺らいだままだった。
彼は、ふふんと鼻で笑いながら、先ほどまで触れていた彼女の首筋に鼻を軽く押し付けた。ふわりと匂う香の残り香が妙に心地良い。吸う様な仕草で首筋に何度も口付けながら、ふーっと息を吹きかけると女房がくすぐったそうに身を捩った。
「・・・・もう・・いけませんわ・・・あんなに激しくなさったのに・・」
「んー?でも・・悪くはなかっただろ?」
「・・もぅ・・」
くすくすと女房が笑う。その唇をやや強引に奪うと、「ううん」と彼女の喉が微かに震えた。
「・・ふっ・・うぅん」
ぴちゃぴちゃと淫猥な水音が微かに響く。舌を互いに絡ませながら、神無月は、乱れたままの袿に手を忍ばせると、単の中に手を滑り込ませ、ツンと尖ったままの胸の突起を指で軽く弾いた。
「・・っんっ・・」
びくりと彼女の背筋が強張る。噛み付くように唇に吸い付いたまま、指で胸の突起をすらりと撫でたかと思うと、つんつんと軽くつつき撫でるような動作で突起の下部を爪で擦っている。
「・・んっ・・」
擦る度に女房の形の良い丸い眉が僅かに歪み、何かを耐えるような仕草を見せた。
その度に神無月の口角が上がり、先程よりも激しく唇に吸い付くと女房の腕が神無月の首に回る。
その腕を振り払うでもなく、神無月の指が固く尖りつつある彼女の胸の突起をピンッと指で弾くと「んふっ・・」と唇から漏れる声は甘いものに変化し、腰がふるりと揺れた。
「・・・もぅ・・・お戯れが過ぎますわ・・」
唇を離すと潤んだ瞳で見上げる彼女と目が合った。
艶のある長い黒髪を優しく梳きながら、何も言わずに彼はただ微笑んでいる。
頬を上気させたまま、どこか艶を帯びた視線で神無月を見る女房の肩を優しく擦りながら
「では、何か字を書いてやろう・・何がいい?」
「まぁ・・良いんですの?」
「ああ。構わんよ。恋文でも何でも言うがいい」
「まぁ・・恋文でしたら・・直接話して頂く方が嬉しいですわ」
「そうなのか?だが、寝乱れる様を見ているとお前の方が激しい気がするがな」
「まぁ・・」
くすくすと互いに笑みを返しながら、筆を手にした神無月が適当に墨字で文字を描いていく。その文字に女房の瞳が暫し大きくなった。
「・・・相変わらず・・達筆でいらっしゃるのね・・」
「そうか?普通だろう?」
「普通の者はこうは書けませんわ・・」
「じゃあ、今度はお前が書いてみてくれ。お前の字も見てみたい」
「よろしいのですか?・・では・・」
女房がさらさらと紙に字を書いていく。その手の動きに神無月の瞳が大きくなった。
「・・・うまいじゃないか」
「普通ですわ・・・」
「そうか?」
「ええ・・・」
コトリと筆を置く音が微かに聞こえる。
「・・・・・・・・」
神無月が女房の肌に指を滑らせると、同時に「ん・・」と紅の薄れた唇から声が漏れた。
「・・ぁん・・」
クスクスと神無月の笑う声が耳に届き、女房はくすぐったそうに身を捩ると、神無月と筆を交互に眺めている。
「・・もぅ・・駄目と言いましたのに・・」
「そうか・・?聞こえなかった」
戯れの息が微かに荒ぐ。ぴちゃぴちゃと響く水音と衣擦れの音をそのまま味わう様に、女房は静かに瞳を閉じた。
「・・・・・やはり普通の筆だったな・・」
息も落ち着いた頃。やがて文字を書くのに飽きてしまい、今度はクルクルと弄ぶように神無月が丸い円を描き始めている。
すると急にその丸が徐々に浮き上がって来て、まるで紙から逃れるように形を成しながら、這い出て来るではないか。その動きに神無月の瞳が大きくなった。
「これはー・・つまり・・どういう物だ?」
神無月は肩に抱いたままの女房を見る。彼女も首を傾げながら神無月に視線を向けたまま微動だにしていない。
「分かりませぬ・・しかし・・なんと面妖な・・」
円はボヨンボヨンと床の上を飛び跳ねながら進んでいく。
脇息に凭れ掛かったままの姿で頬杖を突きながら筆と円を交互に見る神無月の鼻がすんと鳴る。甘酸っぱい紅梅の香りが迫りくる夜風と共に部屋へと届いた。
気が付けば橙色に染まっていたはずの空が群青色に変わっている。
神無月は何も言わずに袖を振るうと、座した場所から行灯に火を灯した。
ジジジと影が蠢く風が壁を揺らしていく。
「・・睦月か?」
「ええ。お邪魔でしたか?」
上体を低くさせながら睦月が部屋へと入ってくる。と、外を見て御簾を下げた。
にっこりと微笑む睦月の表情は実に穏やかで、その微笑みに神無月の表情も柔らかくなった。と、急に、微笑んでいた睦月の首が左右に揺れる。
その視線はどう見てもボヨンボヨンと飛び跳ねる妙な円に向かっていた。
「・・・神無月様・・この動いておられる物は・・一体・・」
「うむ。先ほど妙な商人が来てな。これを俺にと置いて行ったのだ」
「・・筆・・ですか?」
神無月が筆を軽く睦月に向かって投げる。彼はそれを受け止めると様々な角度から筆を見て、それをまた神無月に返した。
「ああ。文字を書いても何ら変わらぬ。ただ、絵に関しては違うらしい」
「・・・これは・・触れても良い物なのでしょうか?」
「分からん。あまり近づこうとするな。おい。誰か。誰かいないか」
「はっ・・こちらに」
御簾の影から皐月の声が微かに聞こえてくる。その声に睦月の口角が僅かに緩んだ。
「皐月か。丁度いい。今すぐ晴明殿を呼んで来い」
「・・・はっ・・」
「ごめんなさいね。皐月・・手間をかけます」
「睦月?いるのか」
「ええ。神無月様。皐月にもこれを見て頂いた方が良いのでは?」
「ふむ。それもそうか・・」
睦月が御簾に近付き、どうぞと告げたその声に皐月が頭を垂れたまま室内へと入って来る。
そうしてボヨンボヨンとリズミカルに跳ねる円を見たのである。
普段、表情を崩すことのない皐月の顔がじわじわと歪んでいく。
「これは・・なんです?」
「・・分からん。商人が置いて行った品で円を描いたらこうなったのだ」
「・・私も先ほど初めて見たのです。墨字が生きて動くなど聞いたことがありませんから・・」
「・・分かりました。まずは晴明様をお連れします」
「ああ。たのー・・・・・!」
「・・!!」
神無月の声を遮るように、ボヨンボヨンと跳ねていた墨字が急に大きく変化し、睦月の背後から急に襲い掛かったのはそれからすぐの事だった。
「・・・・!?」
「なっ・・!」
その瞬間、弾かれる様に皐月が差していた刀に手をかける。それは神無月も同じだった。
「んーっ!むーっ!」
怯んで一瞬出遅れた睦月を飲み込むように頭からがぶりと食らいついたその円は徐々に睦月の腕まで飲み込もうとしている。
何とか逃れようともがく睦月とは裏腹に、吸い付くように蠢く円はびくりとも動こうとしない。
「んんぅー!むぅー!」
腰まですっぽりと覆われたままの睦月の足だけがもがく様に前後に揺れた。飲み込まれた奥からは微かに彼の呻き声が聞こえ、同時に皐月の表情が険しくなった。
「・・むっ・・睦月!」
「待て!斬ろうとするな!お前の太刀筋では睦月まで裂きかねん」
「・・・っ」
「ここはいい。何よりお前はこの筆を持って早く行け!」
「だっ・・だがっ・・」
眼前の光景に狼狽する皐月を横目に神無月の表情は変わらないままだ。
「こうなったらここで慌てるより先に晴明殿を呼んでくる方が早い。行けっ!」
「あっ・・ああ・・・ああ・・」
神無月の声に弾かれる様に刀を構えた姿勢で狼狽していた皐月が瞬時に動き出す。
彼は高欄(こうらん/簀子(すのこと呼ばれる吹きさらしになる通路)の外側につく欄干)を飛び超えるや否や瞬時に指笛を吹いた。
ピィィィイイッとけたたましく響き渡る高音に吸い寄せられるようにやって来たのは一匹の鷹。彼はその鷹の足に飛び上がると「晴明殿の屋敷へ飛んでくれ!早く!」と声を荒げるように叫ぶと屋敷に視線を向けた。
そうして彼は晴明の屋敷へと飛び込んで行った。それが数日前に起こった全ててある。
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