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第5話
「どうしたんです?先生?」
水槽の中で沢山の海月が心地よさそうに泳いでいるここ海月亭では、卓についたまま微動だにしないトカゲ先生を不思議そうに秌が眺めている。
時間はもうとっくにお昼を過ぎていて、昼食を求めて来る客の姿もほぼ見えなくなっていた。
秌が厨房を切り盛りする簡易食事処は本日も満員御礼で、累玄堂の中に位置する大浴場帰りの妖怪が我も我もと来てくれる。
本日の日替わり定食も好評だったせいか、室内にはまだ餃子や唐揚げの匂いが微かに残っていた。
「・・・・・?」
彼は手にしていた湯のみをそっと卓に置くと、腰を降ろしている先生の前の席に座ることにした。
その隣では椅子を寝台にして眠る朧狐の姿があった。
「・・・先生?」
「・・・・・・・」
「先生?」
「ん?ああ。すまん。ぼんやりしていた」
「珍しいですね。何かあったのですか?」
「いや?どうやら客人を快く思わぬ者がいるらしい」
「・・・まぁ・・」
そうまで言いかけた秌の口が、はたと止まった。
何かを思い出すようにパチパチと数度瞬きを繰り返す彼の目線は天井に向かったままだ。
「・・影の一族とは違うのでしょうか?」
「・・あいつらはそんなことしないだろう・・」
「・・・では、侵入者とは違うと?」
秌の声に先生が静かに頷いた。その隣では「うにゃむにゃ~」と口をもごもごさせながら寝返りを打つ朧狐の尻尾が見える。
その様を互いに眺める両者の頬が自然と緩んでいった。
「影の一族と侵入者はまた別だ。誰か、他の奴が招き入れたんだろう」
「・・・・私は前の累玄堂を何も知りませんから・・ここで何があったのかもわかりません。でも、この平穏な日常だけは壊したくない・・」
「秌・・」
「あなたに出会っていなかったら、きっと私は今頃朽ちて果て堕ちていた。そう思うと、ぞっとします・・」
秌の瞳に哀しみにも似た影が差す。その瞳はどこか遠くを見ているようにも見える。
ザアザアと静かに雨が降りそそぐ。
木の側にいるはずなのに、容赦なく降り注ぐ雨粒は一匹の青年の肌も髪をも濡らしていった。
ぼんやりと滲む視界。その視界の奥で青年はモヤモヤとする何かを探していたようだったが、やがて全てが億劫になったようで、探る思考の糸をひとつひとつ手繰る事を辞めてしまったように見えた。
バタバタと頭上で響く音が、時折、風と共に静かに揺らいだ。
と、ふと青年の瞳が動く。よく見ると青年の狩衣も袖も指貫も紅色に染まっている。
「・・・・・・・・・」
右に傾けた頭を不意に左に傾ける、と同時に自らの指を見た。
「・・・・・・・・・?」
伸びた爪は紅く、また指の隙間を滑り落ちるように、透明な雨粒がその赤をやんわりと攫っては消えて行く。
幾度となく降る雨粒が青年の指を拭う頃、ザアザアと降っていたはずの雨音もやがて微かな物へと変化を遂げて行った。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
―・・・なにも、おもいだせない?いや・・・どこかでこえがひびいてる。
「待って!トー・・・!」
ぐにゃりとした厚い感触は喧騒の音に消えて。
黒髪の誰かから飛び散るどす黒い赤と肉片だけが、微かに目に焼き付いて離れそうにもなかった。
「・・・・・・と?」
黒髪の誰かは僕に何を言おうとしたのだろうか・・・?
何も、何も思い出せない仄暗い思考の中で、青年は一匹。空を仰いだ。
濃い緑がかった木の葉の裏の隙間を縫う様に、微かに灰色の空が揺らいでいく。
「・・・・・・そこに居るのは・・誰だ?」
ふと、声がした。誰かが近づいて来ようとしている。
本来ならば動くべきなのかもしれないが、生憎青年にはその力が無かった。
「・・・お前。餖座族か・・・親は?親はどうした?」
がさりと音がする。衣に薄い影が生まれ、青年は塞いでいた顔を静かに上げることにした。
「・・・・・・・・・・・・」
ぼんやりとしていたはずの目がゆっくりと大きくなる。
青年の瞳に飛び込んできたもの。それは、雨粒に光る頬の蒼だった。
「お前。餖座族の・・・しかも蜜じゃないか・・・親とはぐれ・・・んん?」
声の主が青年を見る。その者は青年の指先を見て眉を顰めているように見えた。
雨粒が青年の唇を伝い、顎へと落ちて行く。紅色に染まる瞳は未だ薄らいだままだ。
「・・・おまえ・・・」
声の主は、青年をジッと見ると話すことを止め、大きな腕を彼に向かって伸ばしたのである。
「・・・ん・・・」
「このまま、ワシの身体に体重をかけておけ。一緒に飲まれてやる」
耳元で呟いた声は、確かにそう言っていた。
ズズズと背後の木が蠢き、そこで彼は意識を捨てるかのように手放したのである。
「・・大丈夫だ」
そう話しながら、先生が手を伸ばす。秌の指に軽く触れながら彼は何度も同じ言葉を繰り返した。
秌の瞳がゆっくりと先生を見る。しかしその表情はどこかぼんやりとしていてはっきりしない。
先生は秌に視線を向けたまま、ずっと彼の指をさすり続けている。
どれくらいそうしていただろうか。ぼんやりとしていた秌の瞳に少しずつ光が宿り、暫くして、ハッと気が付くと彼は何度も瞬きを繰り返した。
「・・・すみません・・ああ。そうだ。お客様が来るのでしたね。何かおもてなしをしなくては・・何が良いでしょうね?」
ガタンと椅子から立ち上がりながら、わざと明るい声を出す彼に先生の表情が柔らかくなる。
「・・・そうだな・・彼らは平安時代からやって来るから、珍しいものが良いだろうな。あと、新鮮な肉と魚だな。煮炊きも良いが網焼きが良い」
「・・・魚・・ですか?」
キョトンと首を傾げる秌に先生はただ微笑むだけだ。
「機会があれば滞在中に共に釣りに行くと良い。狩りは慣れているだろうが、釣りはそうではないかもしれんからな」
「・・・はぁ・・でも・・どうして・・?」
「ん?それはな・・」
「土地柄、新鮮な海の魚に出会う機会があまりないからですよ」
先生の声を遮るように低く、それでいて落ち着いた声が扉の奥から聞こえる。
先生はその声にぐたりと肩を落としながら振り返って声の主を見た。
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