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第6話
「・・・絽玖・・」
「ご無沙汰いたしております。道が繋がる機会がありましたので来てみました」
「何しに来た?」
そう話す先生の声は冷たい。
「まぁ・・久方ぶりに出会えたというのに、友人に対して冷たい物の言い方ですね。嫌われますよ?」
「・・・ふん」
「あ・・あの・・」
「嗚呼。これはこれは、お久しぶりですね。秌殿。お変わりはありませんか?」
そう話す絽玖の声はとても優しい。彼が近付く度にふわりと花のような甘い匂いが広がっていく。
秌はその香りを肌で感じながら、ふうと息を吸い吐いた。
相変わらず、この方は歩く様まで何処か悠然としていて隙が無い。
「・・はい。おかげさまで」
そう話して微笑む秌の頬を手の甲で優しく擦りながら、絽玖も微笑みを見せた。
「ならば良い。そうそう、話の続きですが、彼らの住む土地は川が多く、川の魚は獲れるそうですが、海が少し遠いのです。獲れたとしても生きたままの魚はすぐに傷んでしまいますからね。干したり塩につけたりすると聞いたことがありますよ」
「ああ。それで・・先生は魚釣りって」
「ええ。彼なりの優しさとも言えるでしょう。分かりづらいですが・・」
「・・・えっと・・あの・・」
「・・?なんでしょう?」
「そろそろ・・手を離して・・頂けると・・」
「ああ。これは失礼。あなたの肌がすべすべとしていて心地が良いので、つい触ってしまいました。御無礼の程、どうかご容赦ください」
「いっいえ・・そんな・・」
あわあわと両手を振る彼とは正反対に、先生は頬杖をついたまま、眼前に立つ二名の姿を黙って眺めている。
「あっ・・っと・・では私はこれで・・」
そう話して踵を返し、厨房へと急ごうとする秌の腰を、不意に絽玖が軽く抱き寄せたかと思うと
「ええ。では、またあとで」
喉を鳴らすかのような低い声で、彼は秌の耳元で静かに囁いたのである。
ふーっと息を吹きかけてすぐに耳たぶをはむはむと軽く甘噛みし、余韻を含むかのような絽玖の一層低い声に、一瞬で頬が上気した彼は一礼すると慌てて走り去って行ってしまった。
「・・あまりからかうんじゃない」
「おや?貴方も混ざりたかったのですか?」
「・・・?」
絽玖のからかうような口ぶりに、先生の形の良い眉が僅かに上がった。
「・・彼は、まだ汚れてはいませんね。手をお出しにならないとは珍しい」
「・・何を言うかと思えば・・」
「どうです?彼を一晩、私に貸してみませんか?」
「断る」
「あなたなら、そう言うと思っていましたよ。では後で彼自身に問う事にしてみましょう」
「・・・おい」
「私はまだ、蜜を食してはいませんからね。あの宝石のように淡い琥珀の瞳が情事でどのように変化するのか・・大変興味が湧きます。私が彼の雄を吸えば、どのようになるのでしょうね。やはりあの口元を隠すのでしょうか?」
「・・・・・・・・」
「掌から零れ落ちるあの高く美しい声が、吐息と混ざり熱を帯びて行くのだとしたら・・・・」
そう話す絽玖の目に焔の火が宿ろうとしている。その姿はまさに獲物を捕らえる鷹のように先生の瞳には映った。
「・・・おい・・」
「口元を隠すのならば、その手を覆い、喉元に噛み付きたくなる。そんな危うさが彼にはありますね」
「・・・・・・・・・・・」
「餖座族の蜜は言葉の通り、全身が蜜で出来ていますからね。体液も肌も全てが甘い。全身を覆う柑橘系の香りが、情事と共に濃い桃へと変わっていくというのは有名な話です。その濃密で甘い芳香を感じながら、蜜の中でまぐわい惑う・・嗚呼・・たまらないな・・」
「・・・・・・・・・」
絽玖を覆う金木犀の芳香が段々と強く匂ってくる。
目を見開き、ごくりと喉を鳴らす彼の声を耳にしても、先生の表情は変わらないままだ。
「情事でタガが外れた後の餖座族を目にした者はいないと聞きます。それはそうでしょう。ですが、志鶴殿も酷な事をする。・・そう思いませんか?」
「絽玖・・」
「ええ。分かっていますよ。話すだけで手は出しません。あなたと争いたくはありませんからね」
コツコツと靴を鳴らしながら絽玖が近づいて来る。頬杖を突いたままの先生の髪を優しく持ち上げると、はらはらと透き通る青が波打つように落ちて行った。
「・・・・・相変わらず、美しい」
「・・?何がだ?」
「あなたの髪ですよ・・」
そう話しながら啄むような口付けを落す彼の仕草を横目で眺める先生の顔は、お世辞にも機嫌が良いようには見えない。
「・・・ふん。褒めても何も出んぞ」
「・・今は何という名前で通しているのです?先生は貴方がつけた名前ではないのでしょう?」
「・・ああ。確かにそうだ。名は秌が勝手に呼んだものだ。だが、私自身、この名も悪くはないと思い始めているのもまた、確かだ」
「・・一度、あなたも味わってみたいものですね。昼は微動だにしないあなたが、夜はどのようにして傅くのかー・・非常に興味があるのですよ」
「悪いが、こう見えて私は妻子持ちだ。他を当たってくれ」
先生のその台詞に、絽玖はふふふと笑いながら髪から唇を放した。
「存じております。彼は暫くは戻ってきません。いかがですか?・・」
先生の少し荒れた唇をツーっと指でなぞりながら微笑む絽玖の瞳が先ほどよりも優しくなった。
先生の紅色の瞳が嫌悪感を露わにしている。
「いけませんね・・唇が荒れて皮が捲れあがっていますよ?そのままでは痛いでしょうに」
「・・・・」
「・・今度、肌に良い蜂蜜の香油をお届けします。唇に塗れば潤いも増すでしょう」
「・・・・要らん」
「・・・そんな貴方も、私は嫌いではありませんよ」
先生の眉間には先ほどよりも濃い皺が寄っており、瞳は見開いたままだ。彼の後頭部に手を当てたまま、眉間の皺をちらりと盗み見た絽玖の唇が僅かに上がり、二匹はどちらが先と問わぬまま、軽く唇を重ねていた。
「・・・ん・・」
「・・・・ふふっ・・荒れた肌というのも悪くない」
互いの唇が離れても、絽玖の瞳は笑みを浮かべたままだ。
「・・もういいだろう。離せ・・」
「いいえ。まだ足りませんね」
その表情を楽しむかのように絽玖が先生の顎に手をかけ、再び、互いの唇が触れ合おうとしたその時、カタリと床を踏む音が微かに聞こえたのである。
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