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第9話
さて一方。遠く離れた場所に位置する此処、茊芪汕(しきさん)は、高 寵姫が政権を握る龍の国の北部に位置している。根菜類が豊富に採れる山々に囲まれたのどかで一番大きな都市だ。
もともと鷹族がここに数多く住んでいるという理由もあり、彼は茊芪汕を含む北部地方の全ての州を治める牧の任に就いたが、現在は牧の任を後継に任せ、茊芪汕のみを治めている。
翼を持つ種族が多く住むこの都市は朝晩問わず、空高く舞い上がっている同族たちの翼が見える。
「今日ものどかだねえ」
芝生の上にちょこんと設置された長椅子の上で、絽枇が日差しを浴びながら心地良さそうに寛いでおり、その隣では、李果が洗って干したばかりの衣を前に背伸びを繰り返している。
彼女が干す度に、風に揺れる衣がはたはたと音を立てた。
絽枇(リョヒ)は絽玖の兄である。
鷹族きっての武将で双剣を用いて戦う事が多い。
『双剣を手に持ち、鮮やかに舞う様に気を取られたが最期、疾風の如き素早さでその首が宙を舞うだろう。絽枇の翼が戦場にて舞えば、必ずやそこに黒き雨が降る』とまで噂されるほどの武人ではあったが、目で見るもののみに真実が隠されているわけではないと気づき、ある時、ぱったりと自らの目で物を見る事をやめてしまった。
現在は視力が退化したままの状態で過ごしていることが殆どで、目を開けたとしてもぼんやりとしか見ることが出来ない。
どれだけ目を凝らしても白く膜がかかったように見えるだけで、あまり意味はなさないと目を閉じたままの状態で過ごすことが普通だった。
一方。李棵は、絽玖の最も近くに居る部下だ。
絽玖の後を継ぐ形で、州牧の任に就いている。
女性用の衣に袖を通し、陽に透けると紅く映える長い髪は祭りのときにしか購入できないホタル楪の髪留めで一つに纏めている。
少年のようにも見える顔つきと、やや小柄で華奢な体格から、男性かと思いきや何重にも重ねられた衣の上からでも分かる腰の括れや胸のふくらみから、女性かとも思ってしまう。
果たして男なのか。女なのか。何度見ても分らない・・と首を傾げる諸侯や官吏も少なくはない。
ただ、絽玖の忠実な部下である事は間違いなく、彼女自身もまた絽玖の側を離れようとはしていない事だけは確かだった。
そんな彼女は洗濯物を干しながら、ぽかぽか陽気な空の下で日向ぼっこをしている絽枇に向かって「絽玖様は何処に行かれたんでしょうかね~」と問いかけた。
心地良さそうに瞳を閉じる絽枇の銀色の髪が、緩やかに吹く風に揺られ、キラキラと光を放っている。
「ん~さぁねえ。何処に行ってしまったのか・・想像すらできないよ~」
こんな瞳だし?とおどけた様に話す彼の姿に自然と李棵の表情が柔らかくなった。
「今日のお菓子は何にしましょう~?ね~?絽枇さま」
「んー?何でもいいよ~。君の作るお菓子は何でも美味しいからね」
「まったまたぁ~、絽枇様だって料理はお上手じゃないですか」
「私?そんなことないよ。そもそも見えていなくて手探りだらけで皆に怒られてばかりなんだから?」
「そうかなぁ・・」
うーんと李棵が首を傾げている。
絽枇の瞳は確かに視力をほとんど失っているらしい。
失っている事実は確かに変わらないはずなのだが、現在も昔と変わらず戦があれば戦場で剣を振り回しているし、屋敷の中だって普通に歩き回っている。
料理の腕も本当に手探りなのだろうかと問いたくなるほどに器用で、しかも美味なのだ。
閉じた瞳のままで器用に粉を練り始めたかと思いきや、鮮やかな手つきで包子や餃子の生地を作ってしまうし、ドンドンと生地を叩きつけたかと思いきや、ややぎこちない手つきで麺を切り始める。
本当に目が見えていないのだろうかと疑いたくなるような行動の数々を、絽枇は厨房の中で見せてくれるから驚きだ。
絽枇様も絽玖様も自分の事は自分でなさるし、小腹が空いたからと厨房に行き、料理も普通にさっさと数品作ってしまう。
きらり~んと効果音が聞こえてきそうな料理を前にして「私の・・私の存在って・・・」と李棵は自問自答せずにはいられない。
絽玖とも絽枇とも一緒に料理を作ったことがある彼女にしてみれば、自身の女子力という物を眼前で打ち砕かれ続けてきての現在なので、特に思う事はもう何も無いのだが。
ただ、ありがたいことに絽玖も絽枇も彼女の作る料理に対しては、何も文句を言わずに食事を楽しんでくれる。それが何よりも嬉しくて、切なかった。
「・・・・」
長い丈の竿に鮮やかな布を次々と干しながら、李棵がフウッと息を吐いた頃、ふわりと吹く風が彼女の鼻孔をくすぐった。
覚えのある甘い香気に彼女の鼻がすんと鳴る。
「この匂い!?・・りょ・・」
覚えのある香気を纏わせながら、びゅうっと一際強い風が吹いたのはそれからすぐの事だった。李棵は弾けるように洗濯物の隙間から飛び出すと風に向かって一目散に駆けて行く。
その姿は何処から見ても子供のようで、その雰囲気を直に感じ取りながら、ゆっくりと上体を起こす絽枇の瞳は柔らかく、また優しくもなった。
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