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17 怖い夢は見ない
二人そろっての休日の朝はいつも、ゆるゆると遅くまで寝てすごすことが多い。
先に起きだすのはたいていラグレイドのほうだ。
気が付けば、キッチンの方から旨そうな料理の匂いが漂ってきて、最近では、たまにかすかな鼻唄が聴こえてきたりもする。そうして、優しく俺を呼ぶ声で起こされる。
その日の朝もそうだった。いつものように軽快に野菜を刻む音。ベーコンと野菜の良い匂い。それから、途切れがちな鼻唄とグラスを並べる音が聴こえる。窓辺のカーテンからは明るい光りが差し込んで、天気は上々のようだ。
「シオ、ごはんだよ」
いつものように俺を呼ぶ、穏やかな声。
ラグレイドはすっかり元気になっているようだ。昨夜は魔力低下の症状でとても辛そうだったし、俺の魔力供給を欲して大変だったけれど、治ってくれて良かった。ひと安心だ。
野菜ベーコンの匂いのほかに、たまごとシロップとバターの甘い香りもする。今朝はきっとパンケーキだ。
ラグレイドの作るパンケーキはふわっふわのしっとりで、バターとシロップをたっぷり絡めて口に入れると、頬がとろけてしまうんだ。
あつあつのうちにふたりで食べるパンケーキは格別だ。昨日お祭りでもらったお菓子もたくさんあるし、いっぱい食べなくては。
「今いく!」
元気にそう叫んだつもりだったけれど、なぜだか実際に出た声は、冷めたお茶の湯気みたいに頼りのないものだった。
おかしいな? なんだか息が切れる。
コンコン、と軽いノックの音がした。
「シオ」
扉が開いて、エプロン姿のラグレイドがベッドの傍まで来てくれる。
「いま起きるよ」
俺はなんとか体を起こした。
「シオ......?」
少しだけ霞む視界の中で、黒豹獣人の青年が、なぜだか訝しげに俺のことを凝視してくる。そうして、何かを確かめるかのようにそっと頬に触れてくる。
「......いや、起きなくていい。このままベッドで寝ていてくれ」
優しく肩を押すようにして、再び布団に沈められた。
? なんで? 俺、ごはん食べるよ? あったかいパンケーキと野菜ベーコン大好きだし、いろいろいっぱい食べなきゃだし。
そう思って見上げたラグレイドの眉間には、深刻そうな縦皺が3本寄ってた。
「シオは今熱がある。しばらく寝ていた方が良い」
熱があるのかどうかなんて、自分ではよく分からない。
だいたい、ラグレイドは心配しすぎなところがあるから。とも思ったけれど、言われてみればなんだか身体が重い気がする。ちょっと頭も痛いかも?
「待っていろ。今おかゆを作ってくるから」
そう言い置いて、ラグレイドがふたたびキッチンへ戻ろうとするから、
「パンケーキは?」
思わずパンケーキの心配をしてしまった。だって、俺は今、最高潮にパンケーキを食べたい気分だったんだ。パンケーキの行方を心配をするのは当然のことだと思うんだ。
「パンケーキならば、元気になったらたらふく食わせてやる。今はおかゆだ」
青年騎士は断固としておかゆを推してくる。
俺はおかゆがあまり好きではない。
どろどろとして薄味で、積極的に食べたいとは思わない。せっかくラグレイドが作ってくれたものだけど、美味しいんだけど、あまり喉を通らなかった。
「シオ、もう一口食べないと。朝も昼もほとんど食べなかったじゃないか」
そうなんだけど。おなかが「食べたくない」と言っているのだからしかたがない。
壁掛け時計の針は、いつのまにか夕刻を指していた。
カーテンの隙間から見える外の世界は、すでに夜の色となっている。サイドテーブルに置いた灯り石が、寝室の中を優しい橙色で満たしてくれる。
今日は一日ベッドの上で、眠ったり、ぼんやりと本を眺めたりして過ごしてしまった。いつものように起き出そうとしても、身体が怠くて思うように動けなかった。
「水は?」
朝からしきりと水やジュースを勧められるが、そうそう飲めるものではない。お腹も全然空いていない。
「もう飲めない」
俺がそう言って首を振ると、ラグレイドは俺に飲ませようとして持ち上げた水のグラスをそっと下ろした。
心配をかけてしまっているなあと思う。
真剣に腐心してくれているのに、食べられなくて申し訳ない。早く元気にならなければと思うんだけど。
「......俺、パンケーキなら、食べられるかも」
「ああいった食べ物は、油分が多くて消化に負担がかかるんだ」
「......」
残念だ。
だけど、ラグレイドの言うとおりなのかもしれない。身体が弱っている時は、お腹にやさしい食べ物のほうが良いのだろう。まずは調子を整えて、何でも食べれれるようになってからのほうがきっとおいしい。
ふわふわの甘いパンケーキ。早く食べられるようになりたいなぁ。ぼんやりと、目の前のおかゆを眺めながらそんなふうに考えていたら、
「だが、特別だ」
急にラグレイドが立ち上がった。
「?」
そうして部屋を出て行き、数分後には、やさしい甘い香りと共に、ほわほわふかふかのパンケーキが、お皿に乗って俺の目の前に現れた。バターとシロップもたっぷりと乗っかっている。
「ほら、シオ。口を開けてごらん」
ラグレイドはベッドサイドに浅く腰掛け、目を細めつつ、フォークで一口大に切ったパンケーキを、俺の口元へと運んでくれる。
......これって、「あーん」ていうやつだ。
俺がおずおずと口を開くと、ふわふわのパンケーキが口の中に差し込まれる。
バターとシロップとたまご、それからほんの少しバニラの香り。
「......おいしい」
思わず頬が緩んでしまった。
食べさせてもらうのはちょっと照れる。だけどとても嬉しかった。もぐもぐ味わう。いっぱい食べなくては。ラグレイドが俺を見ている。
「シオ、ほら、もう一口」
だけど、パンケーキも3口目には口を開くことができなくなった。喉を通らない。
「......俺、大丈夫だよ。お医者さんも、ただの疲れでしょうって言ってたし」
魔力を分けてもらっても、熱さましを飲んでも熱が下がらなかったので、午後からラグレイドは、近所のお医者さんを呼んでくれたんだ。だけどお医者さんは「ただの疲れでしょう」と言って、栄養剤をくれただけだった。
「......シオ、すまない。俺が昨夜、」
「ちがうっ、俺、お菓子なら食べられるよ。おみやげのお菓子が食べたいっ」
「......」
お土産のお菓子は、一日経っていたせいで少し萎びていたけれど、ちゃんとおいしかった。
ラグレイドにも、ベッドで一緒に食べてもらった。
「副隊長にも食べてもらって下さいって、商店街の人たちからいっぱいもらったんだよ。それぞれの人が心を込めて作ったものだから、これを食べたら元気に冬を過ごせるんだって」
いろんな人からいっぱいもらった色んなお菓子。ラグレイドにも食べてほしくて、大事に持って帰ってきたんだ。本当は芋汁だって、ラグレイドに食べさせたかった。
「シオ、元気になってくれ......」
疲れて目を閉じ、ふたたびベッドに沈み込んだ俺に、祈るような声が聞こえた。大きくて硬いあたたかい手が、俺の手をぎゅっと包み込む。
「大丈夫だよ。ちゃんと元気になるよ」
目を閉じたまま、俺は少し微笑って応えた。
分かるんだ。
明日になったらきっと元気になるってわかる。だって、こんなにやさしく看病されて、ラグレイドから、パワーがたくさん伝わってくる。
おかゆも、パンケーキも、おまつりのお菓子も食べた。薬も飲んだ。
ベッドが軋む音がする。
うっすらと目を開けると、至近距離に真剣な琥珀色の瞳があった。食事の後の魔力補給の時間なのだな。今日は、何度もこうしてラグレイドから魔力を補充されている。
重ねられた唇から、熱が入り込んでくる。魔力が静かに注ぎ込まれて、身体の中に沁み入ってゆく。気持ちが良くてため息が出た。
「おやすみ」
魔力を注ぎ終えると、ラグレイドは静かに食事のトレーを片づけ、灯り石の光度を下げて、部屋を去って行こうとする。たぶんまだ片づけとか、やることがいろいろ残っているのだろう。自分の食事も、まだ済んでいないのかもしれない。
だけど、
「ラグ、」
俺は思わず、同室者のシャツの袖をぎゅっと握り締めていた。
王都にいた頃にも、風邪を引いて寝込んだことが何度かあった。
熱の夜には、決まって怖い夢を見る。
目を醒まして、ひとりぼっちのベッドのなかで、俺はいつも友人や故郷の家族のことを思い出した。大好きな人達、楽しかった思い出、楽しかった場所。
そうして、再び眠りが訪れるのを必死に待った。
悲しいから、熱の日の夜は嫌いだ。
しばらく傍にいてほしい。
俺が、無事に寝つくまででいいから。
ラグレイドは持ち上げかけた食事トレーをサイドテーブルに戻すと、ベッドを軋ませ、ゆっくりと俺の傍らに、添い寝するようにして臥してくれた。
やさしく髪を撫でられる。すぐ隣に、大きな肩やあたたかい胸の厚みを感じて、俺は寝返りを打って、その胸におでこをすり寄せた。
ごめんね。
呟くと、ぎゅうと身体を抱き締められた。
むせ返るような獣人の匂いにくらくらする。本当は、もっといっぱい魔力を交流させたほうがいいのだけれど、あまり一度にすると、俺の身体が追い付かない。
ラグレイドは、しばらく黙って俺の髪や背中を撫でてくれていたけれど、やがて遠慮がちに、かすかな唄声が聴こえてきた。
ラグレイドが料理を作っている時に、たまに途切れがちに歌っているあの唄だ。こんなふうに間近で聴くのは初めてだった。
ラグレイドの歌声は、低くて耳に心地が良い。子守唄を歌ってもらうのなんて、幼い子どもの頃以来で、なんだか不思議な気分になる。
このまま眠りに堕ちたとしても、きっと大丈夫だろうと思えた。怖くない。怖い夢などきっと見ない。
......たまごさんと~、おまめさんをぉ~、おなべでぐつぐつにていたらぁ~.....
............知らなかった。
ラグレイドが、いつもこんな可愛らしい歌を口ずさんでいたのだとは。
「......、......ふっ、」
「......笑ったな?」
「だって、」
意外過ぎて、笑いを堪えろというほうが無理な話しだ。
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