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22 早退した日
その朝は、特に変わったこともなく普通だった。
ラグレイドが前日夜から夜警だったから、俺はひとりで起きて朝食を食べ、いつも通りに出勤した。
ラグレイドの夜警は別に珍しいことじゃないし、ひとりで朝の支度をすることにも慣れている。
いつもの道を歩いて通勤し、すれ違う人とは適当に挨拶を交わした。職場に着いてからも、別に変わったことはなく、自分の机にかばんを掛けて着席し、そうして、今日の仕事の確認をしようと思ったんだけど。
「君、大丈夫か」
同じく出勤して来た隣の席のゴロゴさんに、いきなりそんな風に声を掛けられて面食らった。
「? 大丈夫、ですよ?」
どうしていきなり安否確認? 俺は何か大丈夫じゃないふうに見えたのかな?
ゴロゴさんはあくまで心配そうな、というか、深刻そうな顔でこちらを覗ってくる。そうすると、なんだか自分の体調がいまいちのような気がしてくるから不思議だ。
「君、たぶん、今日は帰った方がいいと思うぞ」
「?? そうでしょうか?」
いつも通りな気もするけれど、でも、言われてみると身体が怠い気がするし、そういえば通勤中も、平坦な道で3回くらいつまずいたっけ。
「俺、ヘンですか?」
思い切って尋ねてみると、ゴロゴさんは頭部の耳をぴこぴこさせて、むむむ、と眉根に皺を寄せた。
「本当に自分で気づいていないのか? おそらく君は今、フェロモン異常を起こしている」
フェロモン異常。
初めて聞く言葉ではない気がする。そういうのを、世間では別の言い回しで表したりするんだ。何て言ったっけ、そうだ。
発情期。
「すごく微妙な量だけど、もしかして、ということもあるから用心した方がいい。ちょと待っていろ」
ゴロゴさんは、真面目な顔でそう言うと、所長さんのところへ行って何かを説明している。そうしてまた俺のところへ戻ってきた。
「さあ、帰ろう。俺が送って行く許可をもらった」
「えぇ、でも、」
ゴロゴさんは俺のかばんを持ってくれて、背中をぐいぐい押してくれる。
おや、早退かい? と声を掛けてくる同僚たちに、「はい。送って行ってきます」と、律儀に応答してくれている。
そうしてこっそりと教えてくれた。
「大丈夫だ。俺にも経験が何度かある。俺も、Ωだから」
ゴロゴさんがΩだとは知らなかった。ずっとβの人かなあと思っていた。
でも、意外と俺が知らないだけで、Ωの人って周りに何人かいるのかもしれない。男と女があるように、いろんな性別がいてもおかしくない。
「俺、発情期が来たの初めてです」
無事に家の前まで送ってもらって、なんとなく打ち明けてしまいたい気分になってそう言うと、
「発情期は別に悪いものではない。生かされている証拠だから」
ゴロゴさんはきっぱりとした口調でそう言って、俺の手にしっかりとかばんを持たせてくれた。
「同室者殿には所長さんが連絡をしてくれているから、安心しろ」
水分を取れ。身体を冷やすな。食べられるときに食事を摂るんだ。など、他にもいろいろとアドバイスをもらった。
「治まったらまた出勤したまえ。焦ることはないからな」
相変わらず眉間のしわはすごいけれど、励ましてもらえるのは嬉しかった。ちょっと心強く思える。
お礼を言って、帰る姿に手を振ると、お礼はいいから、ちゃんと内鍵を掛けるんだ、と注意をされた。
ドアを閉め、言われた通りに内鍵を掛けた。
かばんを置いて、水を飲む。
そうして椅子に腰かけたら、することがなくなった。
しんと静まり返った部屋の中で、ひとりでいると、だんだん不安が増してくる。
自分では自分の体調とか、匂いとかよく分からない。
怠い気がする。少し熱っぽい気もする。でもそれだけだ。
一般的な発情期って、いったいどういうふうだろう。俺は機能不全といわれてきた身体だから、一般とは少し違うのかもしれない。
落ち着かない気分を何とかしたい。
寝室に行き、ベッドにころがっている黒にゃんを抱っこした。「黒にゃん」というのは、黒ネコのぬいぐるみにつけた名前だ。黒にゃんののんきな姿には癒やし効果があるのだ。個人的な感想だけど。
ついでに、昨夕、ラグレイドにもらったTシャツも引き寄せる。もちろん、ラグレイドが昨日ずっと身に付けていたTシャツだ。鼻を埋めるとラグレイドの匂いがしてちょっと落ち着く。
ベッドに乗り上げて、シーツと枕も抱き寄せてみた。ふかふかした柔らかいものに包まれていると安心すると思ったからだ。
トクン、トクン、と自分の心臓の音が聴こえる。
身体がさっきよりも熱い気がする。だけど風邪とは違う感じだ。
俺には自分の身体がよく分からない。
発情期? フェロモン異常?
俺はおかしくなっているのか?
心細い。
王都にいた頃、発情期に入ってしまったΩの姿を、何度か見てしまったことがある。俺もあんなふうになるのだろうか。
怖い、と思う。
ラグレイドに早く帰ってきてほしい。
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