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第3話

 数日間まともに眠ることも出来ず、クマだらけのひどく憔悴した顔でキャンパスをうろついていた椎名は、親友の呼び止める声に足をとめた。  誰かの顔をきちんと見たのは若奈と別れた日以来で、心配そうな相庭の表情を目にした途端なんとか保っていた緊張の糸がプツリと切れた。条件反射のように甘え心が顔を覗かせたのは、彼がいつだって椎名を救ってくれる存在だったからだ。 「……気になる人ができたって言われた」 「え? 若奈ちゃんに?」  覇気のない声で伝えると、相庭が隣で息を呑む気配がした。 「信じられない……っ」  それはそうだろう。椎名自身いきなり突きつけられた言葉を飲み込めず、その場で何度も反芻して余計に混乱した。今この瞬間もその感覚が鮮やかに胸の内で渦巻いている。  ――気になる人ができちゃったの……。ごめんね、フミくん……ごめんね。  キニナルヒト――ゴメンネ――オワカレシヨウ。  彼女が何を言っているのか、これが本当に日本語なのかさえ、椎名には理解できなかった。若奈の愛情がもう自分には向いていないということだけが、霞みがかった思考の中突き立てられた唯一リアルな一刀だった。  相庭はしばらく何も言えず、その場に留まっていた。もちろん椎名自身も唇を引き結んだまま、重苦しい沈黙が続いた。  いつもなら慰めの言葉や、何か元気づけるようなリアクションがあっていいはずなのだが、重い空気を背負ったまま彼はしばらく身じろぎもしなかった。  親友への甘えが落胆に変わる。 ――ああそうだ。自分は慰められたかったのだ。そして言って欲しかった。椎名はいらない人間なんかじゃない、誰にも見劣りしないのだと。椎名自身がダメだったのではなく、若奈を奪った男が悪いのだと。  狡いだとか、ただのエゴだとか、そんなことは今この瞬間心の底からどうでもよかった。自分にとって絶対の味方である親友なら、本当に苦しい時こそ手を差し伸べてくれるはずだと、椎名は本気で信じていた。――それなのに。 「あのさ、俺も失恋したんだ。っていうか今からする」  椎名の話をちゃんと聞いていたのかいなかったのか分からないような平坦な声で、相庭はこれまで秘めてきた想いをアッサリと告白した。 「俺、椎名のことが好きだ。ずっと前からそういう目で見てた」  椎名には意味がわからなかった。一体相庭はなんの話しをしているんだろう。  まったく頭が追いつかず呆気にとられていると、自嘲を含んだ乾いた笑いが親友の口から放たれた。 「ははは、ごめんね、椎名がつらい時にヘンなこと言って。でも俺、友達ヅラして慰めたりできないし、する資格もないから。いっそのこと一緒にフラれておこうと思って」  感情を映さない冷めた目を向けられ、胸の中心が引きつったように痛んだ。 いつもは心地いいはずの声が、右から左に抜け、所々引っかかっては消えた。  ――椎名ならすぐ次のチャンスがあるだろ。  ――俺のことなんか笑い飛ばして早く立ち直りなよ。  ――今までごめんな。  言葉は映画のクレジットのようにどんどん流れていって、それじゃ俺もう行くから――と告げられた瞬間、パチンと夢から覚めたみたいに現実に引き戻された。 「ちょっと、待って、ほんと待って……! なんかもう、いろいろ混乱してて、訳がわからなくなってるんだけど……っ」  酷く情けない声が飛び出した。傷心の自分を置いてこの場を去ろうとする親友が信じられず、そのうえ見たこともないほど冷たい態度をとられ、椎名は完全に狼狽していた。  相庭をただ繋ぎ止めたい一心でいろいろと捲し立てたが、記憶まで混乱を極め、どのようなやり取りをしたのかほとんど覚えていない。  椎名のことが好きだから友達のままでいたくない、慰めることもできない、これ以上一緒にいるのも無理――要約すればおそらくそんなことを一方的に告げられた。    それまで鈍っていた椎名の脳が、急激にフル回転した。――もちろん混乱しまま、数秒間で驚くほど沢山の想いが頭の中を巡った。  相庭は冷たい声で好きだと言いながら、椎名の日常から離脱しようとしている。 最愛の彼女に捨てられたことを知りながら、最悪のタイミングで同じことをしようとしている。いつどんな時も絶対の味方だった親友が、突然掌を返したみたいに友達なんかやめたいと言う。あまりにもな状況だった。  どうして何よりも大切だと思っていた人達が、お前なんかいらないとでも言わんばかりに自分を切り離そうとするのか。酷い裏切りだ、こんな状況耐えられるものか、と椎名は心の中で叫んだ。  しかしそんな風に傷つけられても、結局は一人きりになりたくなかった。今相庭まで失ったら自分がどうなるのか分からない。孤独を突きつけられるのがただただ怖くて、目の前の男を引き止めることに必死になった。  相手の気持ちを慮る余裕は欠片もない。椎名は震える指で親友だった男の腕を掴み、懸命に訴えた。 「な、なあ、ちょっとだけ……猶予をもらえませんか?」  情けない声が出る。相庭は困惑して掴まれた腕を見つめたあと、椎名の顔に視線を戻した。 「猶予って……」 「慰めたりしなくていいから、今離れていかないで」 「で、でも……椎名に相応しい友達なら他に――」 「いないって!……頼むから……っ!」  なりふり構わず懇願すると、何か言いたげに眉を寄せた相庭が深呼吸をして諦めたように苦笑した。 「わかった。椎名が嫌じゃないなら、もうしばらくは一緒にいるよ」  ようやく欲しかった言葉を与えられ、椎名の緊張は急激に和らいだ。難しいことは何も考えられないまま、なんとか側にいてもらえることになったのが嬉しくて、心底安堵した。  複雑な表情を浮かべた相庭には気付いていたけれど、椎名はとりあえずその事実に蓋をした――。

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