7 / 172

第6話

 周防は背後から僕を抱き締めたまま、荒い呼吸を整えている。汗ばむ肌が僕の全身にまとわりつき、湿った呼気が耳を掠める。首筋にはマスク越しの頬が押しつけられていた。  胎内にはまだ周防の雄があって、僕の内壁はうごめいている。でも頭の中は冷たい水が湧き出る泉のように澄み切って静かだった。 「周防、話がしたい。店を出よう」  自分でも驚くほど低い声が出た。こんな理由で一緒に店を出るなんて、最低最悪だ。  ずるりと周防がいなくなって空虚が残った。僕の内壁は周防がいなくなったことをすぐには理解できなかったのか、しばらくの間うごめいていた。  シャワーを浴び、乾ききらない髪を後ろに撫でつけ店を出る。隣を歩く周防の肚の中はまだ読めないが、表面上はいつも通りだった。 「いつもの場所で話すか?」 「ん」 周防の言葉に小さく頷き、白いスポーツカーの助手席に乗り込んだ。  周防は駐車料金を精算し、ついでに自販機でミネラルウォーターを2本買ってきて、1本を僕に渡すとシートベルトを締めて車を発進させた。  僕はシートを後ろに下げ、脚を組み、胸の前で腕を組んで、完全防御の姿勢をとりながら考えを巡らせた。  周防が握っているハンドルを人差し指でトントンと叩いてるのは、考え事をしているときの癖だ。そして曲がり角やカーブに差し掛かったときハンドルを逆手に持って手前に引くように扱うのは、軽く苛立っているときの癖。  僕もいろんな感情が渦巻いている。行きずりの男とセックスしていることを周防に知られてショックだ、軽蔑されてもう周防との関係はおしまいかもしれない、悲しい、痴態を晒して恥ずかしい、このあと何を言われるのかわからなくて怖い、周防に嫌われるかも、明日から会社へ行くのが気まずい、心臓が冷たく感じるほどに怖い。どうしよう。  絶望に近い自動思考だが、焦らずに切り分け、別角度から光を当てて反論していけば、80%くらいボリュームのあった感情は、ほとんどが10%以下になる。  ショックだが僕が行きずりの男とセックスをしているのは事実だから仕方ない、周防に軽蔑されるというのは僕の勝手な憶測である、本当に縁を切られたらそのときに悲しめばいい、恥ずかしいけど周防だって僕とセックスして無防備な姿を晒していたし少しはお互い様かも、考えても未来はわからないから周防の言葉を待てばいい、周防が本当に僕を嫌っていたら僕の分まで、しかも僕が好む銘柄のミネラルウォーターをわざわざ買ってくれたりはしないだろう、会社は仕事をしに行くところだから今まで通りにしていればいい。  車は東京タワーに近い公園の第2駐車場に停まった。ここは放置気味でアスファルトの端は割れ、その隙間から雑草が生えては枯れるのを毎年繰り返していて、この場所を見つけてから今まで何年もここへ来ているけど、一度もほかの人や車は見たことがない。僕たちにとってはちょっとした秘密基地みたいな場所だ。  ふつふつと砂利を噛んで車は停まり、サイドブレーキの軋む音がして、周防はシートベルトを外すと、自分のミネラルウォーターを手にするりと運転席を抜け出していった。  車の前に回り込み、ボンネットに腰かけて、東京タワーを見上げている。僕からは仕立てのいいスーツの背中と亜麻色の髪だけが見える。  僕が話し掛けるのを待つという意思表示なんだろう。『話がしたい』と言い出したのは僕だから。  助手席に座ったまま、ほんの少し時間を使った。どんな顔で、なんという言葉で、彼に話を切り出そうか。僕が彼に伝えたいこと、一番言いたいことはなんだ?  深呼吸する間、その言葉でいいかどうかを反芻し、ミネラルウォーターを飲んで弾みをつけて、僕もミネラルウォーターを片手に助手席のドアを開けた。ドクターマーチンのサンダルで砂利を踏み、周防の隣に並んでボンネットに腰かけた。  周防は何も言わず、僕も一緒に黙ったままの時間を持ってから、少しの朗らかさを心がけて口を開いた。 「まさか周防とセックスする日が来るなんて思わなかった」  僕が肩をすくめると、周防は自分の革靴の爪先を見ながら小さく笑った。 「周防はどうしてあんなところにいたの? まさか常連じゃないよな?」 「ああいう場所は初めて。佐和がひた隠す恋人がどんな顔なのかを見てやろうと思って、軽い気持ちで佐和のあとをつけた」 僕は軽く片眉を上げ、自分のチノパンのポケットからスマホを取り出す。周防に捜された形跡が残っていた。  互いの居場所を捜すのは日常茶飯事で、そのことについて僕たちが是非を議論することはない。わざわざ連絡を取って居場所を訊く、答える時間を使うくらいなら、ボタンひとつで検索した方が早い。社内でもどの辺にいるか捜すし、痛飲したあとの帰宅の無事を確認したりもする。 「GPS検索は構わないけど、せめてセックスする前に正体を明かせよ。めちゃくちゃ油断してた。あとから親友だとわかったら、どんな顔をしていいか。恥ずかしいだろ」 突き詰めれば、僕の用件はその程度のことなのだ。 「名乗るかどうか、少し迷っていた。でも俺、いくときに名前を呼ぶ癖があるんだ。しまったと思ったが、手遅れだった。『それ私の名前じゃないんだけど』って女に殴られてもこの癖だけは治らない」  周防は苦笑し、僕は笑った。 「別の女の名前を呼んだら、そりゃ修羅場だろう。よく生きてるな」 「本当に。最近はその瞬間には女の耳を両手で塞ぐことにしてる」 「いくときにそれだけの気遣いができるなら、名前を呼ぶのをやめることだってできるんじゃないのか」 「名前を呼びたい欲のほうが勝るんだろうな、きっと。ひとりでするときも名前を呼んでる」 「ひとりでどうとか、そんなプライベートなことまで訊いてないよ」  僕はまた笑い、周防は苦笑した。 「そうか? 佐和に隠すことなんて今さら何もないような気がして。隠したくない、むしろ聞いてほしいくらいだ」 「それはそうだけど……」  訊かれてもいないのにしゃべるから、僕たちは互いのひいおじいさんがどんな人だったのかまで知っている。周防の両親が恋愛結婚だったことや、その新婚旅行がハワイだったこと、周防は高校時代に水球をやっていて国体に出場した経験があることも、肩の故障で辞めたことも、実家で飼われている白猫の名前がシュガーで家族からはサトウさんと呼ばれていることも。  実家のベッドで寝る瞬間までしゃべっていた。あの時間を思い出した。 「そういえば、僕たちはおしゃべりだったよね」 「今だって俺はいくらでもしゃべる用意がある。佐和が聞いてくれない、と俺は思っているけどな?」  周防は上体を傾け、亜麻色の髪を肩からこぼして、少しおどけるように僕の顔を覗き込んだ。僕はその榛色の目をやっぱり大好きだと思いながら見返して頷いた。 「そうだね。僕は最近、あんまり周防としゃべりたくなかった。全部口からこぼれ出そうな気がして。……男なのに男を好きなこととか、店に通って手当たり次第にいろんな男としていることとか。好きな人がいるけど、その人は女が好きだから、僕は一生気持ちを伝えられないこととか」  僕の言葉に、周防は少し眉間に皺を寄せ、唇を強く結んで、何度も何度も頷いてくれた。彼はかけがえのない親友だと思った。  周防は僕と沈黙を共有してから、背筋を伸ばして口を開いた。 「そういえばさっきの返事を聞いていなかった」 「さっきの返事?」 「俺を試してみてどうだった? 気に入ったら一緒に店を出ようと話したはずだ」 「どうって。ここでセックスの感想を言えって?」 「東京タワーの大展望台で言いたいか?」 周防は大展望台を指さしながら笑って僕を見た。 「そんな訳ないだろう。なんであんな場所で」 「ならば、ここで。どうだった?」  押しの強さに抗えず、僕は周防とは反対の誰もいない空間に顔を背けた。 「相手が周防じゃなければ最高だった。今まで経験したセックスの中で一番気持ちがよかったし、楽しかった。周防だってわかった瞬間に一気に氷点下まで冷めたけど。これでいいか?」  周防のほうへ振り返ると、周防は左右の手の間にミネラルウォーターのペットボトルを往復させ始めた。手に持っている物を左右に往復させるのは、何か心に決めたことを言おうとするときの癖で、人を雇うとか、株式を公開するとか、新たに広いオフィスを借りるとか、そんな決断をするときに、僕はこの動作を見てきた。 「佐和。俺とセフレになろう」  僕は瞬きも呼吸も忘れて周防の横顔を見た。

ともだちにシェアしよう!