8 / 172
第7話
周防の手の中のペットボトルが止まった。暴れていた水も揺らぎながら少しずつ大人しくなり、ぶつぶつと気泡のはじける音が聞こえて、表面が平らになっていく。
「性欲を否定するつもりはない。ああいう店が必要とされる理由も事情もあるんだろうと思う。ただ俺個人としては、不特定多数との性交渉は佐和の身体が心配だし、会社のスキャンダルにも結びつきかねない懸念もある」
「うん」
「佐和が感想を言ってくれたから、俺も感想を。男とセックスしたのは初めてだった。俺も今までに経験したことがないほどの気持ちよさと楽しさを感じた。こんなに心地よくて満たされる、相性のいいセックスがあるものなのかと驚いた。だから、その」
周防は一旦言葉を切って、息を吸ってから言葉を続けた。
「だから、その。……思いが実らない者同士。セフレってことでどうかと」
周防の表情は苦しそうで、僕は不快になって目を逸らした。
「まだ片思いしてるの? めげないな、周防は」
周防は学生時代からずっと好きな人がいると言い続けている。
「どれだけほかの女と付き合っても、やっぱりその人がいい」
周防を好きじゃなかった頃は呆れながら聞いていた言葉が、今はほぼ絶望と同義の言葉として僕を打ちのめす。
俯いてイエローステッチのサンダルの先を見ていたら、周防が息を吸って大きく顔を上げた。
「今夜はストロベリームーンだそうだ。一緒に見ると恋人同士になれるらしい」
東京タワーのアンテナの横にぽっかりと満月があった。
「周防って2週間に1回くらい、突然ロマンチックなことを言うよな」
僕は赤くないストロベリームーンを改めて見上げた。周防と恋人同士になれたらいいのに。
「なあ、佐和。俺と恋人同士になるか?」
笑いを含んだ声に、僕は自分の心臓が跳ね上がるのを無視して眉をひそめた。
「ならないよ。身代わりはセックスだけで充分だ。心まで妥協して付き合うなんて僕にはできない」
僕は強がりを言った。
本当は妥協でも何でもいい、心も身体も身代わりでいい、周防と恋人同士になりたい。でも、そんなやり方で恋人同士になったって、周防がその人を思うたびに僕は傷つくだけだ。抉られて、惨めになって、耐えきれなくなって今の関係すらぶち壊したくなるかもしれない。最悪のシナリオだ。僕は周防といつまでも一緒にいたい。
僕は満月と東京タワーを見上げながら言った。
「ねえ、周防。恋愛の賞味期限は短いけど、親友の賞味期限は一生モノだから。恋愛が上手くいっても、いかなくても、僕はずっと周防の親友でいるから」
言いながら悲しかったけど、僕はこの道を選ぶ。僕はこれまでも、これからも、ずっと周防の親友だ。
「ありがとう」
静かに言う周防も一緒に満月を見ていた。
僕はいつから周防を恋愛対象として見ているんだろう。意識したのは1年前のダイビングの夜だったけど、美しい月やライトアップされた東京タワーや海の向こうに沈む夕陽や、そういうものを見るたびに、僕はいつも周防と手をつなぎたいと思ってきたような気がする。
手をつなぎ、月を見上げたら、言葉なんていらないんだろうな。
周防と手をつなぎたい。昔は平気だったのに、意識し始めたら手なんかつなげなくなってしまった。好きにならなければよかったね。
僕は腕を組み、脚を組んで自分の手足を拘束した。
「そのサンダル、ドクターマーチン?」
薄暗い足元を覗き込む周防の手は車のエンブレムより僕のエリアにあって、腕組みするのがあと少し遅かったら、手が触れ合う事故が起きていたかも知れない。
「ああ、うん。このあいだ服を買いに行ったときに店員にリコメンドされたんだ。周防のお得意だから、ちょっと迷ったけど」
嘘。わざわざドクターマーチンの直営店まで僕は買いに行った。本当はチェリーレッドの8ホールが欲しかったのに勇気がなくて、それでも緊張しながらイエローステッチに縁取られたこのサンダルを買った。
「似合ってる。佐和なら、チェリーレッドの1460も似合いそうだ。8ホールのショートブーツ、知ってるか?」
知ってるよ。それを僕も買おうか迷って、あまりにも定番すぎて、ドクターマーチンすぎて、気持ちがバレそうで怖くて買えなかったんだよ。心の中だけでふてくされ、素っ気なく答えた。
「秋になっても覚えていたら、考えるよ」
「その前に誕生日にプレゼントする」
口約束で忘れていいのに、周防はスマホにしっかりメモをした。
「周防の誕生日のほうが先だよね。何がいい?」
「熱烈で濃厚なキス」
おどける周防に、僕は即座に言い渡した。
「それは無理。僕は口へのキスはNG。そういうのは恋人としてくれ」
「マジか。俺、キス上手いぞ」
「それは何より。でもお断りだ」
きっと好きになってしまうから。キスなんかしたら、絶対に身体だけじゃなく、感情まで持っていかれる。行きずりの男とは気持ちが乗らないからキスしたくないけど、周防とはきっと気持ちが甘く繊細になりすぎるからキスしたくない。人を好きになった心は脆い。これ以上、僕はロマンチックになりたくなかった。
「キスなし」
つまらなそうにしている周防に、僕はさらに言葉をかぶせた。
「あと条件はもう一つ。セックスの最中のことはその場限り、言いっぱなし、聞きっぱなし。特に仕事を持ち込まない、仕事へ持ち出さない」
ワークショップのルールみたいなことを言うと、周防は素直に頷いた。
「それは納得できる。セックスのときは安心して取り組める環境が必要だ」
僕は事務的に頷いて、ミーティングで解散するときと同じ口調で言った。
「それでは、よろしくお願いします」
胸の前で腕組みしたまま立ち上がろうとしたら、周防の手に肘を掴まれて引き寄せられた。ぴったりと隣に座らされ、肩を抱かれる。
「アイスブレイク。月がきれいですよ。一緒に月を見ましょう」
腕もほどかれ、指を交互に絡めるように手をつながれて、互いの側頭部をくっつけあったまま月を見た。月海の和紙に溶けるような淡いグレーが美しかった。
キスしたくなる。ちょっと苦しくなり始めたとき、周防が口を開いた。
「佐和、飛べるか?」
「もちろん」
「せーのっ!」
僕たちは手をつないだままバンパーに足の裏をあて、力強く前へ飛び出した。
すぐに重力に引っ張られ、整備されていないアスファルトの上に着地する。
「くだらない。子どもの遊びだ」
「俺たちが大人だったことなんてあるか? 毎日が子どもの遊びだ。昔と違って車を運転したり、セックスしたり、欲しいものが買えるようにはなったけれど」
「ドクターマーチンの靴も買えるしね」
「ソファも買える。佐和、まだ俺のソファを見てないだろう。見に来ないか?」
「うん。行くよ」
誘われて、頷いて。きっと僕たちはこれからセックスをする。相手が誰なのかをわかりながら。僕たちは変わるかも知れないし、変わらないかも知れない。それはやってみないとわからないことで、そんなのは会社を作ったときと同じだ。手をつないで一緒に飛び出したその先を憶測で語るのは馬鹿げている。大事なのは手を離さないこと。
僕たちはここへ来たときとは違う明るい表情で、白いスポーツカーに乗り込んだ。
周防は外資系ホテルのレジデンスフロアにある2LDKを借りている。高層階にあってやっぱり東京タワーが見えて、ホテルと同じサービスを使えて、仕事以外の物事は極端に面倒くさがる周防にはうってつけの物件だ。
家具付きの部屋なのに、「ソファだけは自分のものが欲しい」と言い出して、そのくせ自分で探すのはすぐに挫けて、すっかりつまらなそうな顔をしている周防と一緒に目黒通りのお洒落なインテリアショップを歩き回り、結局僕がデザインから張り地まで全部決めてオーダーした。
ふたりでだらだらとテレビを観られるカウチソファがいいと注文だけはうるさく、僕はその要望を叶えるものを選んだのだけれど、納品までの三か月の間に僕が周防を好きになってしまって、一度も完成したソファは見ないままになっていた。
絨毯敷きの廊下を歩き、カードキーで解錠して久しぶりに訪れた周防の部屋は、大きなテレビとソファがリビングルームの大半を占めていた。
黒とダークグレーとスカイグレーの3色の糸を交ぜ織りしたグレーの張り地は、粗い織り目なのに肌触りがなめらかで、この布と出会ったときには見本帳の束を丹念にひっくり返した甲斐があったと思った。
大きなカウチソファにダイブするように座ると、周防が笑った。
「佐和が選んだソファだから、好きに使っていいぞ」
「そうする」
ソファとお揃いのクッションを身体の前に抱え、コーナー部分に収まった。
自動ミルがコーヒー豆を粉砕し、ドリップされたコーヒーの香りが部屋中を漂う。
「お待たせ」
渡されたマグカップを受け取り、ゆっくり口をつけた。深煎りのほのかに甘くべたつくような香りを嗅ぐと、周防の部屋に遊びに来たという感じがする。
風を受けてひるがえる旗のようなモダンなデザインのマグカップは、誰かの結婚式の引き出物だ。周防は食器にもこだわらないから、それが100円ショップの皿でも、欧州の老舗ブランドのペアマグでも気にしてなくて、何度引越しても周防は僕にこのマグカップでコーヒーを出し、自分も同じデザインのマグカップでコーヒーを飲んでいる。
「いいソファだろ?」
周防が隣に座りながら自慢げに言う。
「そうだね。選んだ人のセンスと、妥協せず探し抜いた地道な努力の結果だ」
「張り地はとても肌触りがいい。直接背中で触れてみたいと思わないか」
「バスタオルもあったほうがいいよ。できれば色の濃いやつ」
「用意しよう。ほかに必要な物は?」
「コンドームとローション」
ともだちにシェアしよう!