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第10話

 午前中、僕は来客対応と銀行での打ち合わせだった。午後は取引先企業が主催するカンファレンスに出席、そのまま懇親会という流れだ。  こんなカンファレンス、株主総会シーズンにやるような内容かよ、欠席したいというのが僕の感想なのだけれど、パネリストにアドバイザーの光島さんが名を連ねているのと、光島さんが橋渡しをしてくれて付き合い始めた関係の深い取引先なのとで、心情的にばっくれるのも難しく顔だけ出すことにした。  周防はサプライヤー訪問に午前中を使っていたので、僕たちは会場で待ち合わせた。ふたりで出席しなくてもいい内容だけれど、周防も今週は月曜日から海外出張があったりしてスケジュールが厳しかったから、金曜日の午後くらいはぼーっと座っていたいのだろう。  カンファレンスルームに周防の姿はまだなく、一番後ろの席に座ってGPS検索をすると、地図上の星は会場近くの国道にあった。レスポンスのように僕の居場所が検索されて、僕たちの連絡は終わりだ。  僕はタブレットPCを立ち上げ、社内チャットの画面を開く。溜まっているメッセージに片っ端から返事をして、チャットで埒が明かない相手は別の人物に連絡してフォローを頼み、受信メールに返信して、送られてきた数字に思案する。  口許を隠す頬杖をついて、今さらの決算書修正仕訳の提案にゆっくり細長く息を吐いていたら、隣に周防が座り、同時にカンファレンスが始まった。  『わかりました。進めてください』以外の返事はないのだけれど、この女性担当者と僕は少し相性が悪くて、話し掛けてくる言葉の選び方やタイミングなどの細かいところでいちいち引っ掛かるので、自分の感情の処理が面倒くさい。  受付と同時に渡されたペットボトルのお茶をひとくち飲んで小さく息を吐く間、周防が隣から画面を覗き込んで来て小さく笑う。  この女性担当者は周防とは相性がよくて、というかたぶん周防に対してはまったく態度が違っているので、周防に僕の苛立ちに共感してもらうのは難しい。  返ってくる言葉のいちいちにトゲと反抗を感じながら、とにかく感情を込めずに返答してエンターキーを押下し、僕は気分転換に形だけでもと、テキストアプリを立ち上げて、カンファレンスの内容をノートし始めた。  さすがパネリストが充実しているだけあって、カンファレンスの内容は面白かった。光島さんの提案を面白くノートしていたとき、画面の左下にチャットが開いた。 「ロクヨン」 笑いを含んだ周防の小さな声が聞こえた。  『ロクヨン』は()()、つまり無視しろという意味の周防と僕だけのあいだで使っている符丁だ。くだらない符丁だが、顔色を変えるな、平常心で行け、怒るな、などの言葉が全部込められている。僕たちはいわれのない中傷ややっかみの言葉を浴びても、足許が滑りそうな賞賛を言われても、この符丁があるから我を忘れずにいられる。  でも、今回のロクヨンは楽しい内容だった。  僕はふたたび口許を隠す頬杖をつき、画面をスクロールしていく。  それは世話になっているダイビングショップからの返信メールで、現地の天気予報と海の様子が書かれ、そして予約完了の文字があった。  隣でキーボード入力し終えると同時に僕の画面に文字が上がってくる。 『周防:天気予報は悪くない。日曜の午後は風が出てクローズになるかも知れないが、それでも3本はいける。慣らしでシュノーケリングを1本入れてもいい』 その言葉だけで、僕は鼻腔に潮の香りを嗅いだ。口に含むマウスピースのシリコンの感触、耳許で大きく響く波の音、マスク越しに見るクリアな海の世界。 『佐和:シュノーケリングもいいな』 『周防:懇親会は途中で抜けて、荷造りをしたらすぐに出掛けよう。ほかの誘いは断れ』 『佐和:明日の朝から行くのでもいいのに』 そのダイビングショップは車でも電車でも片道1時間半程度のところで、朝の出発でも充分に間に合う。 『周防:がっつきたいんだ』  その言葉に僕は勝手にダイビングとセックス、両方の意味を感じ取って肩をすくめた。  肩をすくめたけれど、僕の身体の内側は疼いた。ほんの数秒だけ目を細めて自分の欲の甘く温かい感触を楽しんでから、深呼吸と同時に椅子に座り直し、メガネを顔に押しつけた。  周防も僕も3時間のカンファレンスの間にデスクワークがはかどり、秘書室からノーリターンのお許しももらって、晴れやかな気持ちで懇親会に顔を出した。  柔和な光島さんの周りには、多くの人が集まっている。僕たちが輪の外から少し様子を窺っていたら、光島さんのほうが気づいて日だまりの猫のように温かな笑顔を向けてくれた。 「素晴らしいお話でした」 「デスクワークをこなしていたでしょう」 光島さんは軽く横目で睨んで僕たちを笑う。 「先生のお話はきちんと拝聴しました。地方人材育成コンソーシアムの構築について、点を結んで新しい価値を創造するというお考えには共感致しました」 周防も頷いて言葉を続ける。 「新しい価値の創造は当社の命題でもあるので、このあと佐和と話し合ってより考えを深めていきたいと思います」 わざとそつなく答えた僕と周防を光島さんは笑い、さらに周囲にいる人たちに向けても笑った。 「彼らは学生の頃からこんな調子で。面白いでしょう? 今、もっとも入社したいベンチャー企業ランキングで1位になるだけのことはありますね」  ありがとうございます、ランキングに恥じないように精進します、などと小さく会釈しながら答えていたら、光島さんの手が僕の背中にあてられた。 「佐和くん、周防くん。懇親会のあと、このビルのレストランでささやかな打ち上げがあるのですが、ご一緒しませんか。SSスラストのツートップと話してみたいという方が何人もいらっしゃいますよ」 光島さんの誘いに周防は笑顔で即答した。 「申し訳ありません。私と佐和は予定がありまして」 僕もおどけて背筋を伸ばし、手を体側にあてて仰々しく頭を下げる。 「総会前の現実逃避に、電波の届かないところへ行って参ります」 「ああ、海の中ですね。ふたりは本当に仲がいい。……彼らはダイビングが趣味なんですよ」 すぐに居合わせた一人が話を広げてくれる。 「このあたりだと伊豆ですか」 「伊豆はいいスポットですが人気が高くて混雑するので、もっと手前の地味なところで。今の季節は、水温が上がって海藻が育ってくるので、森の中を泳ぐみたいに楽しめます」  周防はダイビングスポットを明かさないまま、人懐っこく笑った。

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