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第11話

 クローゼットから取り出した防水バッグは1年経っても無事だった。  僕は荷造りをして周防の部屋へ行き、そこから白いスポーツカーに乗って出発した。途中スーパーマーケットに立ち寄って軽く買い物をして、高速道路に乗ると、小さく流れていたFMラジオは30分もしないうちに途切れて、周防は前を向いたまま僕にスマホを差し出す。 「好きな曲を掛けて」  周防のスマホのロックを自分の人差し指の指紋で解除して、プレイリストから『Nirvana(ニルヴァーナ)』を選んで再生ボタンを押す。  車の中に聞き慣れた曲が流れ始める。 「佐和の好きなものでいいのに」 「たまには周防の好きなものでいい」 ディストーション・エフェクターを通したギターの歪んだ音色と、カート・コバーンの喉を傷つけるような歌声に、僕は初めて疑問を抱いた。 「周防はどうしてニルヴァーナが好きなの?」 「お姉ちゃんから勧められて聴いたときに、単純にかっこいい、気持ちがいいと思った」  姉の学生時代はバンドに費やされ、ひたすらギターを弾いていたので、自分の好きな音楽には詳しい。実弟の僕が音楽にあまり興味を示さないので、いつも周防が餌食になっている。姉が結婚した今でも周防の餌食状態は変わらず、真夏に長靴を履いて音楽フェスに出掛けていたりして、僕は涼しい部屋でアイスを片手に本を読みながらご苦労様だなと思う。 「あと。絶望感や閉塞感に満ちた音楽が、片思いの苦しさと重なった気がしたのかもしれない」 「ふうん」 僕は自分のスマホのプレイリストを一気にスクロールしたが、このタイミングでプレイリストを変えるのも癪で手を止めた。結局カート・コバーンのあまり上手くない歌と化学調味料みたいなギターの音を聴きながら、黙って窓の外を眺めた。  夏至が近い空の西端から茜色が少しずつ消えていく。  車幅灯を点灯するのと同時に計器類が光って、照らされる周防の横顔に視線を奪われた。額から鼻、顎から耳の下へ掛けてのくっきりした稜線、軽く歯を立てたらぷつんと音を立ててはじけそうな唇、アダムの林檎を内包した喉。 「どうかした?」 さすがに視線が気になったらしく、周防がちらりと僕を見る。 「ううん。……いや、かっこよくなったなと思って。学生の頃はもっと頬のラインが甘かった」  僕は正直に感想を告げた。周防は少し目を丸くして、それから笑った。 「佐和のほうこそシャープになった。洗練されて、磨かれている」 「そう? 仕事中はスーツを着てるからね。あの佐和は別人」  洗いざらしの髪に手を突っ込んで後ろへ押し流しながら苦笑すると、周防は頷いた。 「それでいい。リラックスしたプライベートの佐和の姿まで晒すことはない」 「そうだよね。仕事とプライベートは切り分けないと」  髪は下ろし、メガネは外して、いつ抱かれてもいいように念入りに身体を洗って、ざっくりとしたサマーニットにチノパン、そして怖がることなくドクターマーチンのサンダルを履いた。  周防も荷造りで帰宅した際にシャワーを浴びたらしく、会ったときにはまだサイドの髪が少し湿っていた。ドクターマーチンのショートブーツに、ダメージジーンズ、ストライプのロングTシャツに半袖のダメージTシャツを重ねていて、彼は音楽のみならず服の好みも学生時代からあまり変わらない。  そういえば学生時代は古着屋を巡って買ったTシャツに自分で切れ目を入れたり、金ブラシで擦ったり、その切れ目を引っ張ったり、いろいろ加工した挙げ句、僕の実家の洗濯カゴに入れてダメージの仕上げをしていたのを思い出す。ほとんど住み着いていたから、周防の衣類はいつも家族の衣類と一緒に干されていた。 「周防と一緒の布団で寝たいな」  眠りに落ちる直前まで喋っていた学生時代の楽しさを思い出して、ふと言葉が口をついた。 「喜んで」 周防が顎を引き、照れたような笑い方をしていて、僕は慌てて打ち消した。 「ごめん。そういう意味じゃなくて。学生時代に寝る直前まで、いろんな話をしただろう。いつまでも話したりなくて、少し眠っても、また目を開けて話して、話しながら眠って。あの時間が懐かしいなっていう感傷で」 「なるほど。俺が早とちりをした、失礼」 「ううん。僕が紛らわしい言い方をした。……でも、今夜一緒の布団で寝てもいい?」 僕はもともとセックスに誘うのは上手いほうじゃない。それにしてもこの恥ずかしさは異常だ。とても周防の横顔なんか見ていられなくて、助手席側のドアに肘を掛け、口許を隠す頬杖をついて窓の外を見た。 「もちろん」  周防の声は少し笑っていて、僕は絶対振り向かないと決めて窓の外を見続けた。  助手席側は急な崖で、崩れないようにコンクリートのマス目が施されていて、あまり見るものはない。でも暗くなった窓ガラスには計器類の灯りに照らされる周防の横顔が映っていて、僕はメデューサを倒すかのように、ガラスに映る横顔だけを見た。  周防も何も言わず、ときどきハンドルを人差し指で叩いたり、流れてくる音楽に合わせて歌詞を口ずさんだりしながら運転を続けた。  僕たちが通っているダイビングスポットは本当にマイナーで、東京から車で1時間半の距離なのにコンビニもない小さな集落だ。そのかわりにバス停脇の雑貨店にはソフト帽とずり落ちたロイドメガネ姿のおじさんがオロナミンCを持つ錆びた看板があったりする。  岩をくり抜いたトンネルをくぐり、切り立った崖の手前が目指すダイビングショップだ。  その外観はダイビングショップというより釣船店と呼ぶほうが相応しい古民家で、実際にダイビングショップと釣船店を兼ねている。  周防は店が近づくと速度を落とし、ウィンカーを出して左折した。そのまま駐車スペースに車を停めてサイドブレーキを掛け、エンジンが切れるのと同時に音楽も切れる。僕たちは魔法から醒めたように顔を上げ、何事もなかったように車を降りた。 「オヤジさん、ご無沙汰してます。周防です、お世話になります」  店の脇に置かれた古い浴槽にホースで真水を入れている男性が笑みを浮かべた。年齢は僕たちの父親より少し若いくらい。ベテランのダイビングインストラクターで、この海を知り尽くしている。 「久しぶり。元気そうだね。周防さん、雑誌で立派なことを話してたじゃないの。読んだよ」 日焼けした肌に白い歯を見せる。周防は素直に笑顔で会釈した。 「ありがとうございます」 「明日の朝はどうする? ウォーミングアップを兼ねて最初の1本はシュノーケリングもいいかなって。メールに書いたっけ?」 「はい。……どうする、佐和?」 オヤジさんと周防の視線を一身に浴びながら頷いた。 「僕、シュノーケリングやりたいです」 「いいよ。10時半集合にしようか? 宿帳はテーブルの上にあるから書いておいて。これ、部屋の鍵」  ポケットから取り出したマスコットキーホルダーつきの鍵を渡されて、僕たちは小さな離れの玄関を開けた。  部屋は平屋建ての1DKで、冷蔵庫とキッチンがある代わりに、食事のサービスはない。僕たちはさっさと荷解きして、和室に布団を並べて敷き、パジャマ代わりのTシャツとハーフパンツに着替えて、晩酌タイムに突入する。  途中のスーパーマーケットで買った酒と惣菜を並べ、テーブルを挟んで差し向かいに座って、最初の一杯だけ互いのグラスにビールを注ぎあって乾杯した。  周防は車を運転するから外出先で飲まないだけで、酒にはめちゃくちゃ強い。僕も味を楽しんでいつまでも飲めるほうだから、ビールの次はワイン、その次は日本酒、たりなければ氷と割物を持ち出して蒸留酒へと進んでいく。 「このスティックサラダのディップ、美味しい」 ぱりぱりとキュウリをかじっていたら、周防が僕に向けてかぱっと口を開けた。僕はニンジンのスティックにディップをつけて、周防の口へ入れてやる。 「なあ佐和、このサラダのディップ美味いぞ。知ってるか?」 カリコリと小気味よい音を立ててニンジンを食べながら、周防はわざと真面目な顔を作って僕を見る。 「知ってるよ! 僕が先に食べたんだから。いらつくなぁ」 ビールを飲みながら笑っている僕の口許へ、ディップをつけたセロリのスティックを差し出されて、僕は周防の手から食べた。周防がいつまでも手を離さないので、最後には僕の唇に指が触れて、周防はその指を自分の舌で小さく舐めていた。その小さな舌の動きに目を奪われて、思わず目を細めてしまう。 「俺、色っぽかったか?」  すばやく視線を見抜かれ、テーブルから身を乗り出して聞かれて、僕はべえっと舌を出す。 「全っ然!」 「あとで布団に入ったら、周防様すてき、かっこいい、色っぽい、セクシーって泣きながら言わせてやる」 「うわー、どっから来るの、その自信?」 「そこのバス停」 周防はバス停の方角を指さして笑い、僕もビールの入ったグラスを頬にあてながら笑った。 「超、くだらない!」  僕も周防もグラスを片手に自由に笑っていた。互いの口に料理を指先で押し込んだり、少しはエロティックな話題も混ぜつつセンスのないくだらないことを話したりして、だんだんに1年前の感覚を取り戻していることに気づいた。 「ねえ、周防。僕たちってずっとこんな感じだったね」  周防は口許に小さな笑みを浮かべて言った。 「おかえり、佐和」  1年前とは違う、周防を好きになってしまっている僕だけど、僕は小さく頷いた。 「ただいま、周防」

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