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第14話

 午後のダイビングはオヤジさんにポイントまでボートを出してもらい、ボートのへりから海に向かって大きく一歩踏み出してエントリーした。  周防と僕は水面に顔を出し、互いの息が整っていることを確認してから、ボートの上にいるオヤジさんと周防と僕の3人で親指を海底に向ける。 「いってきます」  僕はバディの周防と一緒に、海面に向かう気泡と入れ違いに潜降する。  どれだけふたりで健康状態や器材をチェックしていても、いつどんなトラブルが起きるかわからない。だから僕たちはいつでも相手の異変に気づける距離、エア切れを起こしたときにすぐ供給できる距離にいなくてはならない。  『佐和くんは、遊びに行ってもなお周防くんに命を預けようとするんですね』と光島さんに呆れられたことがあって、おっしゃる通りですと笑うしかなかった。  水深4メートルの砂地に降り立つと、周防がコンパクトデジタルカメラを構えた。僕も同じように構えて、いつも最初の一枚は互いの写真を撮り合う。  それから僕はゆらゆらと憧れのように光る水面を見上げ、泡が上っていく様子も撮る。  撮っている僕の姿を周防が撮っていて、手を振るとまたシャッターを切っていた。  周防が僕の手を握った。  ふたりだけで潜るとき、僕たちはたいてい手をつないでいる。周防に理由を確かめたことはないけど、それが距離と安全を保つのに一番確実で面倒くさくないからだと思う。  周防の親指で行き先を示すハンドサインにOKサインで応え、僕たちは砂をフィンで蹴って巻き上げないよう、自分の呼吸と器材のエア調整だけでゆっくり浮きあがり、海藻の森へ向かう。  少し水深が浅くなって、梅雨の晴れ間の強い陽射しが海底まで届く場所まで来ると、足許は赤や緑や茶色の海藻が岩の表面を覆い尽くし、海面まで高く伸びる海藻が何本も揺らめいていた。  幻想的な海の世界に、人間は僕と周防だけ。  そんな錯覚を起こすと、手をつないでいる僕たちがとてもちっぽけに思える。会社の規模が大きくなろうと、CEOだ、COOだと名乗ろうと、人々が用事があるのは肩書きに対してで、ここで手をつないでぽつんと立ち尽くしているただのふたりなんて、誰にも必要とされてない。  必要とされない僕たちのアイデンティティがどこにあるのか。突き詰めたら、こうやって何も持たず、海の底で手をつないでいるこの姿なのかもしれない。何もないところから始めたから、何もなくても一緒にいられるふたり。  神様、僕たちがずっとこのままでいられますように。お願いします。  ひらひらと身体を大きく広げるコンブは頭を水面にくっつけて、何もない僕たちを見下ろしていた。  首が痛くなるほど見上げる海藻の森、風のように揺れる海水、古い家のガラス越しみたいに歪んで広がる太陽、まっすぐ差し込む光、空を飛ぶ魚。  しばらく一緒に見ていたが、周防がつないでいた手を離し、カメラを持った。  敬虔な態度で顔を上げ、丁寧にカメラを構えてシャッターを切る。その姿を今度は僕がカメラに収めた。  僕たちは目に映るものすべてにレンズを向けてシャッターを切る。芸術や表現などという高尚な目的ではなく、ただ自分たちのスマホの中にこの海を持ち帰りたくて。  緑色の細長い葉を持つアマモが茂る場所には、小魚がついついと泳いでいて、覗き込んで待っていると油断して顔を出す。僕の姿に気づくと身を翻す。周防まで一緒に覗き込んだら、まったく出てこなくなってしまって、ふたりで笑う。  ほかにも身体が青くて尾が黄色い魚や、鱗を銀色に光らせる魚が鳥のように海藻のあいだを泳ぎ、視線を感じて振り向けば岩陰にはじっと身を潜めたカサゴがいて、僕と目が合うと気まずそうに後ずさる。  そんな生き物たちの姿を撮っていたら、周防が近くの岩を覗き込み、そっと何かを捕まえた。僕の手に渡してくれたそれは体長5センチほどのマダコの子どもだった。  黒いグローブの上で赤茶色から白まで目まぐるしく色を変えていく。この色かな、違うこの色じゃない、この色? この色? あれ、まだ見えてる? どうしよう! そんな言葉が聞こえてきそうなほどの慌てぶりだった。本のページをめくるように次から次へ色を変えていたが、白から茶色へ戻ったところでバリエーションが尽きたのか、最後にぷっと小さな墨を吐き出した。  その心意気は買うけれど、残念ながら墨の威力は弱く、すぐに海に溶けてしまう。  僕たちはその可愛らしさに、つい大きく息を吐いて笑った。  可愛い子ダコは、周防が元の場所へそっと戻してくれた。大きくなるんだよとでもいうように、人差し指でそっと子ダコの頭を撫でていて、そういう小さな仕草も好きだと思いながら、僕はシャッターを切った。  また手をつないで、今度は崖に向かった。向かうにつれて水深は深くなり、水は冷たくなってくる。  崖の壁面に沿って強い水流があって、流れるプールのように身を任せて流されるドリフトという遊びができるポイントがある。  実際にはダイビングの前に下見をし、ボートを操縦するオヤジさんとの打ち合わせもできていてこそのドリフトだ。今日の潮の流れは比較的緩やかで、基本的な注意事項を守れば問題ないと判断している。  手をつないでさらに泳ぎ、つかまりポイントと呼んでいる岩にふたりで並んで掴まる。その岩の隣はもう急流で、周防と僕はハンドサインで周防を先頭に縦列で泳ぐことを確認してから、アイコンタクトで頷いた。周防が流れに身を投じると、すぐに僕も同じ水深を維持しながらあとを追う。  最初の一瞬は緊張した。でもすぐに流れに乗る楽しさを思い出した。  岩壁に沿って、無重力状態で手足を動かす必要もなく、強い流れに身を任せて進むだけで目の前の景色が変わっていくのは、まっすぐ前に向かう滑り台やそりで遊んでいる気分だ。  水中での急流遊びは順調で楽しかったが、抜けるポイントで、周防が予期せぬうねりに巻かれて身体が回転した。そのまま海底へ引き込まれるように身体が沈んでいく。  周防の視界は泡でいっぱいになっていて、僕の口からも声と同時に大きな気泡が上がった。焦るな!  焦るな、と思った僕のほうが焦って、あっという間に水深を下げた。慌てて肺に空気を溜めて上昇したら、水流の外側を身体の側面で擦ってはじき飛ばされるようにローリングし、上下を見失った。静かな場所へ出たと思ったときには、周防が僕の手を掴んでいた。  引き寄せられて砂地に立ち、僕たちは互いにOKサインを出しあった。  パニックを起こすとエアを一気に消費する。すぐに残量を確かめたが、周防は落ち着いていて、僕のエアのほうが残量が少なく、周防のタンクからつながる黄色いオクトパスを『吸う?』と差し出してからかわれた。  わずかな時間の遊びだけれど、流された距離はかなりのものだ。僕たちの泡を追ってついてきてくれているはずの、ボート上のオヤジさんに正確な居場所を知らせる必要がある。  僕は周防と一緒に水深5メートルくらいのところで減圧症と窒素酔いを防ぐためのホバリングをしながら、お内裏様の冠にぴょんとついている(えい)みたいな形をした蛍光色のシグナルフロートを広げ、水面に向かうときの膨張率を差し引いて控えめにエアを入れて打ち上げた。  すぐに僕たちの頭上を旋回するボートの影が見えた。  この安全停止と呼ばれるホバリングの時間が、僕たちが手をつないでいられる最後の時間だ。互いの手を握りあって、水深が変わらないよう視線を遠くに向けて過ごす最後の3分間は、何となく指を絡めたり、強く握ったり、意味のないじゃれあいをする。  周防が時計を示し、僕がOKサインを出したとき、周防がつないでいる手を自分の身体に向けて引いた。すっと身体が引き寄せられて、僕の口に咥えているレギュレーターに、周防の口に咥えられているレギュレーターがコツンと触れた。  マスク越しに周防の目を見ると、周防はまっすぐ僕の目を見返して、それからほんの少しだけ目を細めた。僕はただそっと視線を外して俯くことしかできなかった。  周防が親指を上に向け、浮上を示すハンドサインをして、僕も同じサインを返す。つないでいた手は静かにほどけ、僕たちは自分たちの住む世界に向けてゆっくりと浮上した。  ボートに回収されて、海底での様子や出来事を子どものように口々にオヤジさんへ報告し、オヤジさんは僕たちの話を全部聞いてくれてから、渋面を作った。 「ついさっき予報が変わった。前線の進みが思ってたより早かったな。明日の朝からクローズになるかも知れない」  それは残念な報せだけれど、海流に巻かれて肝を冷やした直後だったからか、安全停止のあとに手を離すのが実はものすごく辛かったからか、僕はそんなに嫌だとは思わなかった。 「今夜、バーベキューと花火ができたら満足です。明日まで一応望みを持って、ダメだったら大人しく帰ります」 周防の即答に僕は同意し、オヤジさんは笑って頷いた。

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