18 / 172

第17話

「あなた、見て。周防くんと朔がダイビングに行ってきたんですって!」 母親のはずんだ声を皮切りに、それぞれが帰宅した父親に話し掛けた。 「おかえりなさい、お父さん。ちょっとご無沙汰でした」 人懐っこい周防の笑顔に、父親も笑顔で応える。 「周防くん、おかえり。先週、お父さんとラウンドしたよ」 楽しそうにゴルフクラブを素振りする仕草を見せる。僕は門外漢だけど、無駄のないきれいなフォームだと思う。  周防は濡らしてしっとり半透明になった皮の上に、スモークサーモンと小エビとアボカドと千切りにした野菜を置いて、ぱたぱた、くるくる包みながら苦笑する。姉の好物でよく作らされているから、手の動きに無駄がない。 「俺よりお父さんのほうが親父の顔を見ているかも。正月に帰ったきり、LINEもしてない」  周防のお父さんも、僕の父親も、僕たちも、業種としては割と近いところにいる。  周防がぼろぼろのグランジファッションでウチに寝泊まりするようになった頃、父親たちはどこかの賀詞交換会でばったり会って、そこで話がつながったようだ。  僕と周防は、父親たちが築いてきた慣習や文化を踏みつけて前へ出るような仕事をしている。インタビューを受ければ強気なことも言うし、怖いもの知らずを装い、わざと挑発するような生意気な態度もとる。  僕たちを快く思わない人も当然いるから、迷惑がいかないように、父親たちの名前は極力出さない。  周防も佐和もありふれた苗字ではないし、僕たちの顔は父親にとてもよく似ているので、親子関係を知る人もいるけれど、僕たちが父親に関する質問や、父子対談のオファーを受けるのは、まだまだずっと先の話だと思う。 「父さんたち、ふたりで回ったの?」 「ああ。ツーサムだから、前の組が終わるのを待ちつつ、のんびりとね。天気に恵まれて、富士山がきれいに見えた」  父親たちは申し合わせて平日に休みを取り、キャディもつけず自分たちでカートを運転する、気ままな遊び方をしているようだ。 「周防くんと朔がゴルフを始めてくれたら、4人でラウンドできるのにって話してるんだよ」 「あー、うん」 気のない返事に周防が苦笑する。 「佐和は球技が嫌いだからな」 「寄ってたかってひとつのボールを追い掛ける情熱が僕には理解できない。なんとなく見ている分には、猫がじゃれてるみたいでいいけど」 「猫がじゃれているみたいか!」 父親は面白がって笑ってから、グラスを持って光島さんのところへ行った。  テレビではダイビングの写真が2巡目に突入していて、海藻の隙間に隠れていた小魚と僕が対面した瞬間や、僕の手の上で次々に色を変える子ダコの姿、子ダコを岩場へ戻して人差し指でそっと頭を撫でている周防の姿が流れている。  母親が満足してキッチンに戻ったタイミングで周防はスマホとテレビのペアリングを解除し、リモコンを父親に渡して戻ってきた。  生春巻きは全て巻き終わり、テーブルの上を片づけて、テーブルセッティングを手伝ったら、やることがなくなった。  父親と光島さんを前に、リビングのソファに座り、何となくテレビを眺めつつ缶ビールを飲んでいたら、周防が突然 「佐和、ロクヨン」 と言った。  同時に鳴動した自分のスマホを見てみると、バスローブ姿で枕を抱え、周防のベッドで気持ちよさそうに寝ている僕の姿があった。  それならと僕はフォルダの奥底から、グランジファッションに身を固め、お姉ちゃんのエレキギターを抱えて中指を立てている、学生時代の周防の写真を引っ張り出してやった。 「周防、ロクヨン」 周防はポーカーゲームのカードを見るように、表情を消してスマホを見る。 「佐和、ロクヨン」  表示されたのは、さっき消去されたはずの僕の恍惚とした表情だった。僕はわざと低い声を出す。 「周防、庭に出ろ」  父親と光島さんは僕の声の低さにこちらを見たけど、周防は笑っていた。 「望むところだ」 僕たちは先を競って庭に通じるサッシ窓を開け、自分たちの肩をつっかえさせながら庭に出た。  互いの背中にタッチしあい、目まぐるしく役割を交代する鬼ごっこをしながら、庭の真ん中まで走る。そこへ飼い犬のジョンも飛び出してきて、誰が先頭かわからない追いかけっこが始まった。  3周くらい走ったところで、僕が身体の向きを変えて周防を追い、さらに2周くらい走ったところで周防が身体の向きを変えた。ゴールキーパーのように両手を広げて待ち構えていて、僕はその腕をかいくぐろうと左右にフェイントを掛けながら走ったが、逃げ切れず周防に抱き締められた。 「汗が噴き出す。運動不足だな」 周防は着ていたTシャツを脱ぎ、僕も汗で濡らす前に同じようにシャツとカットソーを脱いで、リビングのソファに投げ込んだ。  裸足になってジーンズの裾を折り上げ、入念にストレッチをして、庭の端に移動する。 「インターバル10本!」  デスクワーク中心の身体には、全力ダッシュとジョッグを10本繰り返すだけでも効果を感じる。周防も 「水の中のほうがよっぽど楽だ」 と笑った。  さらに股関節と肩甲骨のドリルをしていたら、ジョンが空気の抜けたボールを咥えてきた。  周防は大きな手でボールを掴み、遠くへ投げる。ジョンは絹糸みたいな被毛をなびかせて走り、転がったボールをさらに自分の鼻先で転がして追いかけて遊んでから、また咥えて戻ってきた。周防の手にボールを押しつけ、周防はジョンの頭をぽんぽんと撫でてからまた投げてやる。  周防の身体に染みついている投球フォームは力強さを感じる。 「水球部の肩は強いな」 「中高6年間、楽しかった」  ジョンと周防のキャッチボールを見ながら、僕はバランスボールを持ち出して座る。 「馬術部は体幹が鍛えられる」 「頭、肩、腰、踵が一直線になるようにって言われる」 腰を立てて、腹筋も使ってと、自分の身体に手を当ててフォームを思い出していたら、周防がボールを投げながら言った。 「あとで俺の上にも乗って」 「いいよ」 僕は笑いながら答えた。  僕は子どもの頃から乗馬を習っていて、中学から大学まで馬術部に在籍していた。  大学の新入生オリエンテーリングで学籍番号順に着席したら右隣に周防がいて、人懐っこく 「このあたり、詳しくないから案内して」 と言われたのだけれど、内部進学の僕は大学の授業が始まる前から馬術部の活動に参加していて、すでに試合の予定が入っていた。 「今週は新人戦。来週も大会があるから、難しいな」 「試合はどこで? 応援に行く」 「遠いよ?」 高原のリゾート地まで遠征するから、まさか本当に来るとは思っていなかった。  なのに周防は人懐っこい笑みを浮かべて登場し、僕と馬が競技を終えると大きな手で温かい拍手をたくさん送ってくれた。厩舎へ向かうと周防がついてきて、さらにお疲れ様、佐和の姿勢が美しかった、馬と息が合っているのがわかった、こんな優美なスポーツは初めて見たと、たくさんの言葉も掛けてくれる。 「衣装も似合ってる。かっこいい」  障害競技をやっていた僕は、黒のヘルメット、赤の(じょう)らん(ライディングジャケット)、白のシャツとタイ、白のキュロット(乗馬ズボン)、黒革のブーツを身につけて、短い鞭を持っていた。 「そう? ありがとう」  話しながら馬の鼻筋を撫で、水を飲ませて氷砂糖を食べさせた。 「そんなものを食べさせて平気なのか」 「馬って甘いものが好きなんだ。野菜でも甘みのある人参とかリンゴとか。この子は特に氷砂糖が好物。たくさんはダメだけどね。周防もひとつあげてみる?」 周防の大きな手にひとつ氷砂糖を乗せたら、馬は甘えるように鼻を突き出し、ボリボリと大きな音を立てて食べた。  大学1回生の試合は、たぶん全部応援に来てくれたと思う。2回生になって光島さんの講義を受け、僕たちは会社設立へ舵を切った。

ともだちにシェアしよう!