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第18話

「楽しそうだね」 夏至を過ぎたばかりでまだ明るい庭を、父親が手を後ろに組んで、のんびりと横切って来た。  父親は上背はあるが、身体の線は割と細い。けれど、その落ち着いた歩き方には自然に醸し出される貫禄があった。父親たちを乗り越え、時代を先んじているつもりの僕たちだけれど、僕たちが追いつけないほど先に、父親たちの姿があると思い知らされる。 「総会の準備は進んでる? 今の時期はどこも準備で大変だね。光島先生がアドバイスをくれているかな」 「うん。今期は業績が上向いてるからそんなに心配いらないだろう、スキャンダルだけ気をつけなさいって」  スキャンダルという言葉で周防は僕を見た。 「スマホをソファに置きっぱなしだ」 「マジか」 ジョンに投球をねだられている周防の脇をすり抜け、僕はリビングへ走った。 「お姉ちゃん、周防のスマホとって」 裸足で庭を走り回って家の中に上がれない僕は、サッシ窓を開けてソファを指さした。 「これかな」  代わりに光島さんがスマホをとってくれて、僕は礼を言った。 「ありがとうございます」  ボタンに指が触れてバックライトが点灯し、ロック画面が浮かび上がった。そこには太陽が揺れる海面を背にして泳ぐ僕のシルエットがあった。  光島さんは目を細める。 「ふたりは本当に仲良しだね」  僕はふとふたりで過ごす時間に思いを馳せ、首の付け根のキスマークがむず痒くなって、手を回した。 「虫刺され?」 引っ掻いている指先を覗き込まれて、僕は指先で覆ったまま頷いた。 「凜々可にも、佐和くんと同じ場所にほくろがあるんだよ」 「はい」 僕はキスマークを見せないように気をつけつつ、光島さんから離れた。  庭に戻ると、父親と周防は薄暗くなってきた空の下で、意外に真剣な顔をして話し込んでいる。特に父親は胸の前で腕を組み、頬杖をつくように片手を頬にあてていて、その深刻度合いはなかなかのものだ。 「どうしたの。巨頭会談?」  声を掛けながらふたりのところへ行き、周防の手にスマホを渡す。  周防はありがとうと顎を引くようにうなずいてから、父親の顔を見て、僕の顔を見た。 「それにしてもよく似てる」 「周防だって」 「知ってる。正月にばあちゃんちでアルバムを見たら、若い頃の親父が俺と同じ顔をしてた」 「数十年後のシミュレーションはばっちりだ」 「自分は親父とは違うんだという青臭い反抗精神が台無しだ」 笑いながら渋面を作って見せる。 「僕も父さんみたいな非効率的で古臭いやり方はしない、と思ってるけど。父さんのやり方がやっぱりスタンダードで、そのスタンダードを作ったのが父さんたちなんだ。……と物わかりがよくなるには、まだ僕は若いと思うので、まだまだ暴れる」  僕たちの言葉に、父親は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。 「私たちのことはどんどん踏み越えて行ってください。先人たちの築いたものを礎にして前へ進むことが、現在や未来を作るということだからね。それでも歴史が役立つときはある。親父たちの戯れ言を聞きたいときは、いつでもおいで」 その言葉に僕たちは素直に頭を下げた。父親ではなく、先輩に対する礼儀として。 「ご飯にするよーっ」  姉の声に僕たちは口々に返事をした。  洗面所で顔と手を洗って、カットソーを着たら、周防がぼやけたチェック柄のシャツを羽織らせてくれた。襟の後ろを直してくれながら、首の付け根のふたつ並んだほくろにそっと唇を触れさせた。 「なんでもない日、かんぱーい!」  そんなに浮かれた家族ではないのだが、たぶん姉と周防が言い始めて、なんでもない日はこの言葉で乾杯する。  息子たちをいつまでも大学生だと思い込んで、キロ単位で用意された鶏の唐揚げ、周防の好きな小田巻蒸し、僕の好きな茄子の揚げ煮、姉の好きな生春巻き、父親が胃袋を掴まれた肉じゃが、華やかな五目寿司は母親の得意料理かつ好物。  僕はオーバル型の鉢に盛りつけられた煮込みハンバーグを見た。 「光島さんは、ハンバーグが好きなんですか?」 僕の問いに、目の前に座る光島さんは柔和な笑顔で頷いた。 「凜々可が作る煮込みハンバーグは、とても美味しいです。ね?」 光島さんが、隣でハンバーグを取り分けている姉の顔を覗き込むと、姉は上目遣いに光島さんを見て、くすぐったそうに頬を赤らめて笑った。  幸せそうなふたりの姿に僕まで笑顔になる。その隣で周防は目を伏せ、黙って鶏の唐揚げを頬張っていた。  父親も母親も姉も酒には強い。周防の実家へ遊びに行くと比喩でなく一晩中酒宴が続くが、僕の実家も簡単には帰れない。  キッチンとダイニングテーブルとリビングソファを、それぞれグラスを手に動き回りながら、誰彼構わずつまみを作ったり、突然食器を片付けたり、しゃべったり、飲んだりを繰り返す。  周防が焼きそばを作り始めた。そのフライパンを姉がのぞき込む。 「やだ、こんな時間に炭水化物! 3玉も!」 「食わなきゃいいだろう。俺が食う」 「見たら食べたくなるじゃない」 「30歳過ぎたら痩せにくくなるらしいよ」 「周防くんだって例外じゃないんだからね。食べるの手伝ってあげなきゃ」 「俺、そんなに簡単には太らないよ。毎晩スポーツは欠かさないから」 「毎晩? 話を盛り過ぎじゃない?」 できあがった焼きそばを大皿に盛りつけながら、周防が姉の耳に向かって笑顔で何かを囁く。 「うっそ。マジで?」 姉は目を丸くしてから、周防の背中をぱしぱし叩いて笑った。  焼きそばはリビングのローテーブルへ届けられ、周防と姉はキッチンでスタンディングバーのように立ったまま酒を飲み、話し込む。  周防と姉が話し込むのはいつものことで、僕は焼きそばを取り分けた皿を手に、母と一緒にテラスへ出ておしゃべりに付き合った。  サッシ窓で家の中の喧騒は遮断され、梅雨の湿気を含んだ風が柔らかく肌を撫でていく。  母は頬杖をつきながら、ワイングラスを見た。 「周防くん、最近来なかったし、凜々可が『朔と喧嘩してるっぽい』なんて言うから、心配してたのよ。お母さんが口を挟むことでもないけど」 なるほど、それでさっきの電話で、別に喧嘩なんかしてないよと周防は答えていたのか。 「お姉ちゃんは何でも把握してるな。喧嘩じゃなくて、僕が拗ねて周防が手を焼いていた感じかな。子どもっぽいね」 母親はさらにぐっと声を落とし、僕のほうへ身を乗り出す。 「凜々可が結婚して、周防くんがショックを受けたのかなとも思ってたのよ。その頃から周防くん、ウチに来なくなったし。会社では普通にしなきゃいけないだろうけど、やりにくいんじゃないかしら」  僕は厚く雲のかかった夜空を見上げてから答えた。 「僕は周防の恋愛にはノータッチと決めてるから、本音を聞いたことはないけど。仕事が滞ったりはしてないよ。周防だって子どもじゃないから、自分の気持ちには自分で整理をつけるはず」 学生時代からずっと好きな人がいると言い続け、今でも上手くいかないなんて言っていて、本当にさっさとプロポーズすればよかったのにと思う。  僕の首の付け根にキスマークつけるくらい未練を残すなら。  母親の好みに合わせて甘いフルーツワインを飲みながら焼きそばを食べていたら、サッシ窓の向こうから父親がボトルを掲げて見せた。 「飲む!」 僕はシェリーを作ったあとの樽で熟成させたウィスキーが好きで、自分でも少しずつ集めて飲んでいるが、父親がチラつかせたのは通し番号が振られた限定品だ。  フルーツワインを飲み干し、焼きそばを食べて食器を片づけ、父親と光島さんのあいだに座った。 「どうやって飲む?」 「ロックで!」  父親に世話してもらい、光島さんと父親と乾杯する。 「佐和くんがしっかりと会社全体の実務を掌握しているから、会社は順調に業績を伸ばしています。お父さんもご安心ですね」 光島さんは目を細め、僕の背中に手をあてながら、父に向かって話し掛ける。 「周防くんと朔が納得するようにやってくれればいいです。光島先生がついていてくださるから、安心です」 父親は言いながら、空になった光島さんのグラスに薄い水割りを作って差し出す。 「佐和くんは会社では隙のない雰囲気だけど、実家での様子は全然違うね」 子どもを安心させるようにゆっくり背中を撫でられていたら、周防の声がした。 「あ、いいもの飲んでる! お父さん、俺もお相伴に預かりたい!」 と言って、僕の背後からソファの背もたれを乗り越えて、強引に僕とソファのあいだに座り、僕の両側から足を出した。 「狭いなぁ」 「美味しいチャンスを見つけたら、多少強引にでもねじ込まないとな」  周防は僕の肩に顎を乗せたまま、琥珀色の液体をストレートで口の中へ流し込んで、ゆっくりと味わう。 「ああ、いい香りだ。紅茶とドライフルーツみたいな香り。でもボディが分厚い」 「シェリーカスクは、香りとボディの印象が正反対なところが楽しいよね」  氷が溶けて少しずつ加水され、変化していくウィスキーを楽しみながら、僕は偉そうに頷いた。 「優雅で華やかなのに圧倒的な実力がある感じ、好きだな」 「そういう人が恋人になったらいいね」 「ああ。人間でも好みだな、そういうタイプ。募集中」 周防は僕の腰に回した手に少し力を込めながら頷いた。

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