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第19話

 このウィスキーは父親がわざわざ蒸留所まで出向いて買ったことがわかり、そこから蒸留所の様子や水の質、蒸留所見学ツアーの内容、さらにはその会社が取り組んでいる環境保護活動、そこから発展して企業のCSR活動へと話は及んだ。 「直接利益を生まない活動を全ステークホルダーに納得させるのは難しい」 周防は僕の肩に顎を乗せたまま、眉間にシワを寄せる。 「つい優先順位が下がるし、社員のモチベーションも上がりにくい。思い立ってから実行に移すまでにかなりのジャンプ力がいる。『なぜSSスラストがその活動をしなければならないのか』っていう説得力も必要。広報とつなげてアピールのためにやる活動ではないと思うし、やっぱりCSRは独立して動かしたいんだよね。ますます何やってる部署なのかわかりにくくなるけど」 僕も周防の肩に後頭部を預けたまま、日頃思っていることを口にした。 「本当はブランドイメージの向上や骨太な組織づくり、社員の意識向上、誇りを持てる企業に育てる、将来の環境づくり、その他いろいろ有形無形にメリットはあるんだけれどね。そもそもCSRとは何なのか、オフィサーでも理解できていないことがあるね」 父は穏やかに頷いた。 「昨年の株主総会の質疑応答で『SSスラストのくせに、CSRなんて高尚な活動が必要なんですか』って言われたのは、ショックだったな。SSスラストのくせにって何?! そんなふうに思う会社の株なんか持ってないで、売ってくれればいいのに。総会のお土産なんて小さな菓子折1つだけだし、株主優待だってそんなに面白いものは用意していないよ」 思い出してまたショックを受ける僕の髪を、周防の大きな手が撫でてくれる。 「そんな活動をするなら、配当上げろっていうのもまた言われるんだろうな。上げてもいいけど、結局は筆頭株主の俺と佐和がたくさんお金をもらうだけです、という」 周防は苦笑した。 「友人同士で会社を立ち上げる場合、同率で株式を所有すると、ふたりの意見が割れたときに何も決まらなくなるから、やめた方がいいって言われたけど。結局そのままだね」  今のところ何も困っていないけれど、総会が近づくと思い出すアドバイスだ。 「そんな事態に陥るほど、俺と佐和が話し合いもできず、信頼関係も何もなくなったら、どのみちウチの会社はやっていけない。誰か信頼できる人に会社を買い取ってもらって、俺たちは手を引いたほうがいい」 僕はその言葉に賛同して頷いた。  ゆっくり飲んでいたグラスが空になると、ふわりと小さなあくびが出た。 「何で眠いんだろう……」 これだけの酒量でおかしいと首を傾げていたら、周防が笑った。 「明け方まで起きていたからだろう」 「そうだった」  身体の力が抜けて、背後の周防に寄り掛かる。結局ソファに寝かされ、周防の膝に頭を乗せて目を閉じた。周防の大きな手が僕の頭を撫でる。 「今夜は俺に付き合わせずに、ちゃんと寝かせるから」  父親と光島さんの前で際どいことを言うなぁと思いながら、会話だけを耳に捉える。 「遅くまで起きていたのかい?」 「4時過ぎくらいまでかな? はっきり覚えてないけど」 「若者が語り合う姿はいいですね」 「佐和と一緒にいると新しい発見があって、つい楽しくなります」  僕も劣情に勝てない周防と、快楽に勝てない自分を発見したと思い、少し顔が熱くむず痒くなって、周防のジーンズに顔を擦り付けた。 「あなた、そろそろ帰りましょう」  そっと呼び掛ける姉の声に、光島さんの鋭い声が飛んだ。 「今、話している最中だろう!」  僕は思わず目を開けた。聞いたことのない声だった。  姉は唇をきつく結び、厳しい表情でまっすぐに光島さんを見返している。光島さんはすぐに肩の力を抜き、表情を和らげた。 「ああ、ごめん。話に夢中になっていたから、つい」 「いいの。私も悪かったわ。でももう遅い時間だから、あなたが疲れたらよくないって思ったの」 「心配してくれてありがとう」 姉も笑みを浮かべ、ふたりは帰り支度をして、姉は光島さんの腕に自分の手を絡めて帰って行った。 「びっくりした。光島さんもあんな声を出すことがあるんだね」  門の外まで見送って家の中へ入ると、父親と周防は静かな表情で目を合わせて小さく顎を引いた。 「さて、佐和。俺たちも帰ろう」  周防は一転して明るい声を出し、手早く片づけを手伝ってタクシーを呼んだ。 「周防くんが持ってきてくれた日本酒を飲みそびれた。また近いうちに」 「はい。親父がまたお誘いするかも知れませんが、よろしくお願いします」 「こちらこそ。凛々可と朔をよろしく」  タクシーに乗り込む前に、周防と父親はしっかり握手を交わしていた。  周防の部屋に舞い戻って、僕はバスタブの中でまた周防の脚の間に座らされる。  周防の手で丁寧にシャンプーされて、全身を揉みほぐされて、いい香りのする湯の中で周防の肩に頭を預け、僕は気分よく目を閉じていた。 「なあ、佐和」 「なぁに?」 「佐和は、光島さんのこと、好きだよなぁ?」 「うん、そうだね」 「だよなぁ、好きだよなぁ……」  僕の肩に顎を乗せ、周防はアヒルのように唇を突き出して、鼻から大きく息を吐いた。 「周防は、光島さんのこと、あんまり好きじゃないよね」 「んー。佐和が好きだと思っている人を、悪く言いたくないが」 「悪く言ったらどうなるの?」 「株主総会が終わったら、契約を見直したい」 それは仕事中と同じ真面目な顔での発言だった。 「そんなに?」 「関係をこじらせる前に手を打ちたいんだ。本当に険悪になってから切ることはしたくない」 「それはわかる。今日みたいに一緒に酒を飲むこともあるだろうしね」 「会計監査法人そのものは、今のままでいいと思う。アドバイザリー部門の担当者だけを、たとえば『光島先生とは、お付き合いが長くなり過ぎたので』とか何とか」 周防が口にする理由は、僕も頷けるものだった。 「ずっと光島さんだもんね。正式に担当してもらうようになってから月末で丸10年。区切りがいいし、いいんじゃないかな。学生時代から引きずっている空気を引き締めるためにも」 「ごめん。佐和の好きな人なのに」  周防はまた僕の肩に力なく顎を乗せる。 「ううん、平気。なんでそんなに気にするの?」 「職場に好きな人がいると嬉しいし、モチベーションも上がる気がしないか。それを佐和から奪う訳だから」  自分が社長秘書としてお姉ちゃんを近くに置いていることに、少し後ろめたさを感じているのかなと思いつつ、僕は濡れた手で周防の頬を撫でた。 「光島さんに会いたかったら、会う手段なんていくらでもある。職場で会えなくても大丈夫だよ」  慰めても周防の表情は曇ったままで、挙げ句僕の肩に額を擦りつけ、さらにバスタブの湯でざぶざぶと顔を洗った。 「いいなぁ、光島さん」 濡れた顔でうつむいたまま、周防は小さな声で呟いた。 「嫉妬?」 「まさしくそのとおり。俺は光島さんがうらやましい。でもそれは個人的な感情で、一人の人間として、光島さんを憧れの大人として盲信し続ける時期は過ぎた」  周防は寂しそうだった。卒業するときは、いつだってそういう気分になるものだ。晴れやかで嬉しくて寂しさを感じる余裕がない卒業式は、仕事と掛け持ちしなくてよくなった大学の卒業式だけだった気がする。 「アドバイザーも、またいい出会いがあるよ。僕たちは人には恵まれてる。どこかで何とかなるし、すぐには見つからなくても焦らず探せばいい。一緒に探そう」  会社が急速に伸び、担当者の手に余るようになって、そのたびに次の人を紹介されていろんな人と一緒に仕事をしてきた。  僕たちのほうから、自社の成長と見合う人に交代をお願いしてきたことも、何度もある。別れるときは寂しいけれど、続けていればまたどこかで会える。そのとき笑顔でご挨拶できるようにというのが、周防と僕の心がけのひとつだ。関係をこじらせる前にという周防の判断は正しい。  周防の手が僕を抱き締め、首の付け根のほくろに唇が押しつけられる。 「佐和。気晴らしに少しだけセックスしないか」 「少しだけってどれくらい?」 「夜明け前には寝かせる」 「いいよ」  僕は夕方庭で約束したとおり、周防の腰にまたがった。  周防は目を眇めながら僕の姿を見て、ときどき天井に向かって頬を膨らませて大きく息を吐き、また僕の身体に触れながら、動く姿を見て過ごした。 「んっ、周防。気持ちいい……」 「佐和……」 身体が高まってくると周防は上体を起こし、僕たちは恋人みたいに抱き合って快楽を追ってはじけた。  全身には快楽が巡り、周防に対して優しい気持ちが湧きあがってくる。周防も僕の髪に何度もキスを落とし、抱き締めて、甘い表情で微笑んだ。 「僕たちがセフレなのって、思っていた以上にいいかも。煮詰まった空気を解消する手段がひとつ増えた」  隣で仰向けに寝る周防の髪を指に巻きつけて、その髪にキスをしながら僕は言った。 「これからも佐和と一緒にいられる」  周防は目を閉じたまま手探りで僕の頭を抱き寄せ、僕は周防の肩に頭を乗せて、髪を撫でてもらいながら眠りについた。

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