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第20話

 周防のクローゼットを開けて、僕はダークネイビーのスリーピーススーツを引っ張り出す。光の加減によって線が浮きあがるシャドーストライプは、色違いで仕立てるほど好きな柄だ。 「似たようなものをたくさん持ってるから、行方不明になっていたのに気づかなかった」  1年前からこのクローゼットにあったらしい。  どうして周防のクローゼットに僕の服があるのかなんて、思い当たる理由がありすぎて、もはやわからないし、今、ワイシャツの襟を立てて首の後ろに滑らせ、左右の長さを決めているこのネクタイが、どっちが買ったものかなんて考えることもしない。  周防は先に身仕度を済ませ、乱れたままのベッドの端に腰かけて、僕の着替えを眺めていた。 「佐和はスリーピースが似合う」 「ありがとう。周防だって似合うと思うけど。むしろスーツ映えする体型に嫉妬する」  僕の台詞に周防はふわりと笑う。僕がオールバックでむき出しにした顔へ、アンダーリムのメガネを掛けて仕上げると、周防は頭のてっぺんから爪先まで見て口を開いた。 「正直な感想を言わせてほしい」  「どうぞ」 「セクシーすぎてヤバい」 「周防もメガネを掛けたほうがいいんじゃない」  周防の車の助手席に乗せてもらって出勤し、社内のカフェでコーヒーとサンドイッチとチョコレートをテイクアウトして、センサーにIDカードをかざして自分の部屋に入る。  機密保持のために出入りできる人は限られているが、始業時間前の周防はタブレット端末とノートを手にノックもせず勝手に入ってくる。 「『擦り合わせ』を始めよう」  僕の部屋のミーティングテーブルの上には全国紙5紙と業界専門紙が早出当番の秘書の手によって並べられている。  僕たちはペンを片手に新聞を広げ、サンドイッチやコーヒーを口にしながら、それらに目を通す。気になる記事を僕は青で、周防は赤でマークし、自分の手元に留めておきたい内容はノートする。切り抜いてもどうせ読み返さないし、頭に引っ掛かったことだって次の情報ですぐに更新されるのだから、さっさとノートして忘れる。もし調べたいときは見返して思い出せばいい。  ふたりの関心は、個人的な興味や業務上の役割によって違う方向を向くので、同じ新聞を読んでも拾い上げる情報が違うのが面白く、相手が何を考えているのかもわかる。  全紙に目を通して、さらにネットニュースに目を通して、僕たちは息をつく。 「佐和、FIT関連の情報を追うのは止めたのか?」 「うん、プライオリティ下げた。継ぎはぎだらけで不透明感が拭えないし、ウチのメイン事業とは関係が薄い。今後はなんとなく動向を追うだけにする」  ビジネス用語で使われる『擦り合わせ』と範疇は少し違って、互いの意見や考えを話し合って整理する以外に、こうやって新聞も読むし、雑談したり、互いの体調を見たりもする。 「周防、体調は? 寝不足じゃない?」 「余裕。むしろ身体が軽く感じるくらい」 「それ寝不足だよ。頭が冴えすぎてる」 周防は強い瞬きを繰り返し、ゆっくり首を回し、肩の上げ下げをして自分の身体から緊張を追い出した。 「佐和はどこか身体の痛みをかばってるだろう?」 「多少腰と股関節が痛いかな。身に覚えがあるから仕方ない」 「申し訳ないな、共犯だ」 「きっとまた今夜も、風呂かベッドでマッサージしてもらえると思うから平気」 「させていただきます」  話に一段落つけて、ダークチョコレートをひとかけら口に入れてから、僕は自分の今日のスケジュールを確認する。 「珍しい。今日はずっと周防と一緒だ」 「総会前だからな」 自分のリストを確認し、僕は用件を思い出す。 「そういえば、光島さんの担当者交代の件。いつ切り出す? もし期末で交代してもらうなら、今日伝えても遅いくらいだけど」  周防は腕を組み、ゆっくり強い瞬きをした。 「ペンディング。正直、もう俺の肚は決まってる。ただ、いきなり切り出すのに10年以上の付き合いは長すぎる。少しネゴりたい」 「僕、ネゴろうか? 先方の上と話せばいいんだよね」 「まずはお姉ちゃんと話す時間が欲しい」 「トップダウンでいいのに。わざわざ気遣ってくれて、ありがとう」  僕が小さく頭を下げると、周防は首を横に振った。  左腕に嵌めているパイロットウォッチは始業開始30分前を指していた。  さて、と左手にタブレット端末とノートを抱え、周防は僕に向かって右手を差し出す。 「今日も1日、よろしくお願いします」  僕も周防の手を握り返す。 「こちらこそ、お願いします。よい1日を」  毎朝のルーティンを終え、周防は朗らかな笑顔を残して部屋を出て行った。僕は残っているコーヒーを手に窓辺に寄って立ち、右手をトラウザーズのポケットに突っ込む。  僕の手を握った周防の手の感触が消えるまでの僅かな時間、新聞に書かれていた天気予報と目の前の実際の天気を見比べて過ごしてから、自分の業務に取りかかった。  始業20分前に隣の社長室から姉の怒声が聞こえ、言い返すような周防の怒声が聞こえた。  姉と周防の喧嘩は珍しくないが、こんなに大声を出すのは久しぶりに聞いた。僕はふたりの喧嘩には巻き込まれないと決めているが、それにしても朝っぱらから何があったと思って、光島さん、という名前が脳裏をよぎる。 「周防は何をどう話したんだ?」  メールを打つ手を止めて隣室との壁を見ていたら、ノックと同時にドアが開いて姉が駆け込んできて、ミーティングスペースの椅子に背を向けて座った。すぐにノックもなくドアが開いて周防も入ってきて、痴話喧嘩なら自分の部屋でやってくれと心の中で呟く。 「本当に違うのっ! 転んだのよ」  姉は背を向けたまま頑なな様子を見せる。 「だとしたら、転びすぎだ。平衡感覚や運動機能が心配だから病院へ行け」 「平気だってば!」 「こんな姿をして、どこが平気なんだ!」  周防は姉の前へ回り込み、床に片膝をついて、テーピングが施されている手をとった。 「全身に湿布を貼って、テーピングをして、眼帯をして、顔を赤く腫らしていたら、いくらなんでも看過できない。洋服で隠れる範囲の外まで殴るなんて、もう末期だ。別れたほうがいい」 「本当に大したことないの。昨日は私が避ける方向を間違えて、自分から主人の手に顔をぶつけちゃっただけ。普段はこんな場所は殴らない。私も言い返してるし、喧嘩両成敗なの。すぐにごめんって言われて、もう仲直りもしてるのよ」  僕も作業の手を止め、ひざまずく周防の隣に立った。ふたりの感情に巻き込まれないように少し冷たい声を出した。 「話は何でもいいよ。怪我だけ見せて」  艶が失われている姉の髪を掻き上げるまでもなく、顔の左半分が大きく腫れ上がっていた。左目は遮光器土偶のように腫れてほとんど明かず、隙間を覗き込めば、白目が血の色に染まっている。  頬の湿布を剥がすと、赤色と紫色がまだらになった痣があり、口の端は切れて、よく見ると唇も腫れていた。僕は姉に話し掛けながら、スマホのシャッターボタンを押した。 「こんな喧嘩、男の僕だってしたことないよ。派手にやったね」  両手のテーピングを外せば、そこも紫色と黄色の痣だらけで、さらには直径1センチほどのクレーターのような皮膚のひきつれがいくつもあった。 「ああ。光島さんは、煙草を吸うんだよね」  僕は姉の後ろ髪を束ねて持ち上げ、ブラウスの襟を引き下げた。首の付け根には、水膨れ何個もあり、そのうちのひとつは潰れて処置されないままブラウスの襟を濡らしていた。  僕は黙ってシャッターボタンを押した。  姉の髪を手櫛で梳いて、後頭部に円形の肌色も見つけた。でも姉は周防に向かって首を横に振った。 「カッとなったときに手が出ちゃうだけなの。怒ったときだけ感情が抑えられないの。でも普段はとても優しくて、弱い人なの。私がいないとダメな人なの。大切にしてもらってるの。別れたりしたらあの人は生きていけない、野垂れ死にしちゃう。……別れるなんてできない」  周防は絶句し、僕は姉の言葉に頷いて見せた。 「お姉ちゃんの気持ちはわかった。でも、この姿じゃとても仕事にならない。まずはこの怪我を治そう。怖いことは何もないから大丈夫」 僕は自分のパイロットウォッチで残り時間を確認し、周防が姉に付き添ってくれているあいだに、母親に連絡して迎えに来るよう頼み、弁護士に連絡して事情を話し、実家近くのかかりつけ医に連絡した。 「周防。突発的かつ絶対に仕事を休まなきゃいけない、休むのが当然な理由って何?」 「本人の病気、怪我、事故。身内の不幸、家族の急病。子どもが熱を出したら問答無用」 「本人が病院を受診するって言うと警戒されるかも。子どもはいないし、家族の急病かな……」 僕は鼻から新鮮な空気を吸い、瞬時に頭の中で組み立てたシナリオを、脳内で検証しながら口にする。 「ねぇ、周防。『佐和の母親が叔母の家で倒れて病院へ運ばれた。姉が現地の病院へ向かっているが、距離が遠く、いずれにせよ母親は入院の見込みなので、付き添いのために数日から1週間程度は帰れないと思う。なお、弟は姉を帰すために仕事を引き継いでいるので、あとから来ます』って言って。母さんとバッティングしないように、光島さんは絶対にホールから出さないで。状況は随時LINEするからロクヨンで」 「了解」  周防は腕時計を見て立ち上がり、お姉ちゃんをそっとハグした。 「大丈夫だから。社長秘書の席は空けて待ってる」 姉はうつむいたまま、小さく頷いた。 「向こうは俺が仕切る。とにかくお姉ちゃんを最優先で」 「うん、ありがとう」  周防は僕の背中も叩いて落ち着かせてから、部屋を出て行った。

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