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第21話

 弁護士と主治医だけでなく、父親も母親も話の理解が早かった。 『周防くんの気がかりが的中したな』 電話の向こうで父は言う。つまり、両親は姉の件について、多少の覚悟はできていたということだ。 「僕、全然気づかなかった」  ほぼ毎日姉と接していながら、まったく気づかなかった自分の観察力に軽い自信喪失を感じていた。 『私も昨日、庭で周防くんに言われるまでは、全く気づかなかったよ』 「周防は、僕には何も言わなかった」 ビジネススーツを着ているにもかかわらず、すっかり拗ねた声になってしまい、小さく息を吐いて頬杖をついた。デスクには姉の進捗を書き留めたメモ用紙が数枚並んでいて、父親と周防に連絡した内容は線を引いて消してある。 『朔は光島先生を慕っているから、ただ疑わしいだけなのに安易に言うことはできないと。周防くんなりの気遣いじゃないのかい』 「そんな気遣いはいらないのに」  冷め切ったコーヒーを一口飲み、もう一度息を吐いて気持ちを切り換えて、メモを読む。 「弁護士さんは、診察が終わり次第、お姉ちゃんの自宅へ行って、お姉ちゃんの荷造りに立ち会うって。家の中にもDVを示す証拠があれば写真を撮るって言ってた。それから警察へ行って手続きをして、明日以降なるべく早く地裁へ接近禁止命令の申し立てをしたいって。離婚調停も早期に開始できるように準備すると言ってくれてる。病院は、接近禁止命令が出るまで、偽名で個室に入院させてくれるって」 『お隣さんには、ジョンも含めて、家族全員お世話になりっぱなしだな』  ジョンが勝手に庭に穴を掘って遊びに行ってしまう隣家のお兄さんが、かかりつけ病院の理事長をしている。今回は隣人のよしみで便宜を図ってもらった。 「あと、今回は本人に関する保護命令のみで、親族等への接近禁止命令は実績がないのでとれないと思います、念のため身辺にはご注意下さいって。……連絡事項は以上」  僕はメモの全ての項目に線が引かれたことを確認して、シュレッダーに流し込んだ。 『光島先生に対して思うことはあるが、お互い毅然とした対応を心がけよう』 「そうだね。とりあえずこれから何食わぬ顔して株主総会のリハーサルに行ってくる。じゃあね」  父親との電話を切り、僕は踵で軽く床を蹴って椅子を引き、足許に置いていたビジネスバッグを膝の上に置いて、必要な資料とタブレットPCをかき集めて入れた。スマホを確認したら、周防に報告した内容はすべて既読がついていた。 「さて……」  いざ光島さんに会うと思うと、ほんの少しだけ椅子から立ち上がりにくい倦怠感があった。  自分の胸の内に理由を探る。  姉が殴られている事実を知りながら平静を保っていられるか。真の情報を洩らさず嘘を突き通せるか。そういう不安も微かにあるが、何よりも僕たちをここまで育ててくれた光島さんと、こんな形で袂を分かつかも知れないことに動揺していた。  しかし、思い出が絡む感傷的な内容は、どんなものであれ味わう時間が必要で、短時間ではけりがつかないと僕は思っている。 「自分の感傷は後回し! とにかく目的地へ行け!」  僕はスマホのGPS検索ボタンを押した。縮尺の小さな2Dの地図上では、僕の居場所とほぼ重なって表示される星印を目的地に定め、バッグを手に立ち上がった。  株主総会で使用する貸ホールは地下3階にある。今日と2日前にリハーサルをして、当日に臨む。  会場セッティングも当日と同じ状態で行われるため、入口には受付のテーブルが設置され、総務部所属のスタッフは総動員で、当日立ち会う顧問弁護士と警察官、警備員も参加する。数回通しで練習したあと、顧問弁護士が会場を荒らす演出をおこない、議長や壇上の役員、事務局の対応を練習し、さらに退場者を両手を広げて圧力をかけながら複数名で取り囲んで出口まで誘導したり、警察官への引き渡し訓練もおこなう。  今日だって本当なら絶対に休めないし遅刻できないが、このリハーサルが2日前のものなら、親が死んでも休めない緊張感だ。 「経営方針について伺います。今後、アジア地域への海外展開は考えているんでしょうか」 光島さんの声が、いきなりマイクを通して聞こえて来た。株主役としてマイクを持ち、壇上の取締役に向かって質問している。 「代表取締役の周防です。議長の指名により、経営方針に対する質問につき、私からご説明申し上げます。この数年、弊社としては安定した経営を続け、着実に経済力を蓄えていると自負しています。しかし、海外進出には大きなリスクも伴います。アジア市場の選好(せんこう)も詳しく把握しなくてはならないため、アジア地域への進出はもうしばらく様子を見たいと考えています。以上ご説明申し上げました」  いつもは朗らかな声を出して相手の心を溶かす周防だが、株主総会のときは会場全体を満たす落ち着いた声を出す。  周防の姿に、光島さんは柔らかく目を細めていた。  本当にこの人が姉を殴ったんだろうか。姉の怪我を否定するつもりはないけれど、この人が拳を振り上げ、姉の身体に向かって振り下ろす姿が、どうしても想像できなかった。  僕たちは株主総会なんか、見たことも聞いたこともないまま会社を作った。そんな僕たちのために伝手を辿り、いくつかの企業の株主総会の準備からリハーサル、当日までをすべて見学できるよう取り計らってくれたのが、光島さんだった。  僕にとっては『いい人』だったのに。『いい人』って何だろう。僕が見ていた光島さんの顔はただの仮面だったのだろうか。  うっかり感傷に浸りそうになったとき、部屋の隅からヤジが飛んだ。 「経営能力あるのか! 役員全員辞任しろ!」 ヤジを飛ばしたのは顧問弁護士だ。壇上の人たちはまずは全員無視して進行する。ここでかっとなって議長の発言を待たずにマイクを持って反論するようなことは、絶対にしてはいけない。  僕は他人を放っておけるし、表情を消すのも得意だけど、周防は人懐っこい性格が裏目に出て、良くも悪くも他人からのアプローチには反応しやすい。  でも壇上にいる周防の姿を会場後方から見て、僕は正直驚いた。周防は完全に落ち着き払っていた。周防が視線を動かさないから、ヤジを飛ばす人は命が救われているだけで、もしあの榛色の目が動いたら、見られた人は即座に心臓が止まると思う。そのくらい王者の風格があった。周防は僕の隣で、いつの間にあんな姿をするようになっていたのか。  僕の存在に気づいた議長に招かれて、僕も途中から壇上の自席に座ってリハーサルに参加した。 「取締役の佐和です。議長の指名により、女性登用に対する質問につき、私からご説明申し上げます。女性登用の必要性は弊社としても充分理解しております。各部署における評価基準は実力・実績をベースとし、性別に関係なく、公正な目を持って登用を実施するように心がけています。以上ご説明申し上げました」  マイクを通して会場に響く僕の声は、落ち着きすぎて冷たく、周防のような風格は感じられなくて残念だった。  壇上へ一礼して入場するところから、すべての議事を進行し、最後に一礼して退席するまでの流れを数回繰り返し、さらに緊急動議や総会荒らしの対応を練習して、予定通りにリハーサルを終えたら、少し遅いランチタイムになった。  控室に用意された仕出し弁当には、小さなハンバーグが入っていた。  僕はつい光島さんを見てしまう。周囲の人と和やかに話しながら、光島さんがそのハンバーグを食べる姿を見るだけで、僕の胸には小さな感傷が生まれそうになる。結局ハンバーグには箸をつけないまま、弁当箱に蓋をきせた。 「ロクヨン」  隣に座る周防の小さな呟きと同時に僕のスマホは鳴動したが、焦って確認することはせず、正面に座る弁護士との雑談を続けながら頷いた。  食後は席を自由に移動しながらのコーヒータイムになり、僕が手洗いを済ませて戻ってくると、光島さんが隣に座った。背中に手を当て、安心させるように撫でながら、声を掛けてくれる。 「佐和くん、お母さんのことを伺いました。ご心配ですね」  光島さんはいつもと変わらない、日だまりに丸くなる猫みたいな笑顔で僕の顔を覗き込んだ。

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