23 / 172

第22話

「母は、昨日も元気に動き回っていたので、突然の連絡に驚きました。姉が駆けつけてくれているので、あまり心配はしていませんけど。田舎で電波が届きにくくて、なかなか連絡がつかないのが不便に思います」 「凛々可から私へもLINEがありました。しかも病院内での携帯の使用は一律で禁止されていて、屋上へ出たときしか連絡できないそうですね」 「そうでしたか。どうりで僕のLINEには何の反応もないはずです」  周防は珍しく僕と光島さんのあいだには割って入ってこず、部屋の対角線上の一番遠い場所で、光島さんと同じ監査法人から来ている別の担当者と、書類を手に数字を指で追いながら何かを話していた。  僕の視線に気づいた周防は、話し相手に視線を戻して会話を続けながら、髪を掻き上げる途中で、僕に向けて片手の手のひらを見せる。ほんの一瞬だったけど、それはダイビングのときに『そのまま、動くな』と指示するハンドサインで、僕は何事もなかったようにコーヒーを飲んで、光島さんに顔を向ける。 「さっき、初めて株主総会を見学したときのことを思い出しました。先生に連れて行っていただいて、緊張したけれど憧れや希望も持ちました。僕たちは先生に育てていただいたんだと、つくづく感じました」  光島さんは僕の腰に手を当て、優しそうに顔を覗き込んでくる。 「佐和くんと周防くんの努力と才能ですよ。僕にできるのは、お手伝いすることだけです。佐和くんだけでも、周防くんだけでも成り立たない、面白い事例だと思っています」 「面白い事例ですか?」  僕はつい笑ってしまった。光島さんも穏やかに笑う。 「互いのことが好きでたまらなくて、愛しあっているようにすら見える。なのに向かい合い見つめ合って過ごす男女の関係と違って、ふたりは同じ方向を向いている」  僕は光島さんの話を聞きながら、落ち着いて相槌を打った。 「僕たちは親友で、ビジネスではパートナーで、ダイビングではバディですが、男女のような恋愛はありません。そこが違うんじゃないでしょうか」 「恋愛はないんですか?」  僕はよく言われる台詞に苦笑する。 「はい。僕たちは互いの恋愛にはノータッチです。何も把握していません」  学生時代、僕が周防と親しいことが知れ渡るにつれて、女子学生が僕に声を掛けてくるようになった。周防の連絡先を知りたいと食い下がられたり、伝言を託されたり、飲み会のセッティングを頼まれたりした。  始めは律儀に断っていたが、違うキャンパスの学生からも高校時代のクラスメイトを介して連絡が来るようになって、断ることすら面倒になり、そういうのは全部本人と直接やりとりしてくれと放り出して、以来、僕は周防の恋愛にはノータッチを貫いている。  弟の僕だったら、周防の力になれるかも知れないと思う瞬間があっても、結局、口出しはしなかった。  僕はそんなにモテる訳じゃないけど、それでも僕のあずかり知らないところで何かはあったらしく、周防も「佐和の橋渡し役なんか絶対にやらない! 別れたときだけ、喜んで慰め役を引き受ける」と宣言して、以来そのスタンスを貫いている。  そういう経緯で、僕たちは互いの恋愛にはノータッチと取り決めているのだけれど、たいていの人は意外そうな顔をする。  光島さんも意外そうな顔をして、しかしすぐに納得したように頷いた。 「だから正義感がないんですね」 「正義感、ですか?」 どこから正義感という言葉が導き出されたのか。見当がつかないまま、光島さんの言葉に耳を傾けた。 「佐和くんと周防くんは、相手を正そうとする正義感が薄いと感じていました。周防くんがルーズな身なりでいても佐和くんは何も言わないし、佐和くんが周防くんに反抗的な態度を取っても何も言わない。愛している相手を正してあげようとしないのが不思議でした」 「正してあげる……?」  僕は頭の中で何度も光島さんの言葉を反芻し、違和感の理由を探りながら言葉を紡いだ。 「自分の正義感によって相手を正そうとするのは、お節介、相手を尊重していない、あるいはコントロールに思えます。僕も周防も会話のノリで命令口調で話すことはありますが、それを受け入れるかどうかの選択権は相手にあって、そこには自由が保障されていると思います」 「相手の人生まで責任を負う関係でしょう?」 「うーん。預けますし、預かりますけど。周防の人生は周防のもので、僕も同様です。先生のおっしゃる『愛』は当てはまらない気がするので、僕たちのあいだにあるのは、愛ではなくて信頼だと思います。命や人生を預けあえる強い信頼です」  光島さんは深く頷いた。 「そうでしたか。佐和くんはまだ、すべてを相手に委ねて安心できる愛は知らないんですね。そう。そうでしたか……」  僕はやぶへびになったら不味いとわかりつつ、訊かずにはいられなかった。  「先生と姉の愛は、どんな愛なんですか」  先生は穏やかな表情のまま、何一つ変わらない姿で言った。 「正義のある愛です。妻は少しずつ従順と、夫に全てを投げ出す開放感と安心感を覚えます。妻が夫の好みの味を覚えたり、身の回りのことをできるようになるために、教育は必要です。相手の成長のために正さなくてはいけない。本来ならどんな理由であれ家を空けるときには私の食事は作り置きしておくべきです。今日の食事は用意したのかと聞いたら、作っていないという返事だったので、そこは帰ってきたら正さなくてはいけません」 正す手段があの赤や紫や黄色の痣なのか。  僕は黙ってコーヒーを飲み干し、左腕のパイロットウォッチを見て立ち上がった。 「すみません、僕は実家の様子を見に行かなければならないので、今日はこれで。リハーサルも遅刻で、アフターミーティングも早退で、本当に申し訳ないのですが」  背筋を伸ばし、心の中で「光島さん、今までありがとうございました」と一礼して、僕はホールを出た。感情の整理はまったくできなくなっていた。 「早く周防に会いたい」  僕はその足で実家ではなく自宅マンションへ帰り、荷造りをした。もともと家具はベッドだけ。枕とガーゼケットを引き剥がし、備えつけのクローゼットから衣類を引っ張り出して、洗面道具を詰め込み、床に直接並べていた本を紐で縛ったら終わり。  冷蔵庫の中はロックアイスとミネラルウォーターだけ。作りつけの棚にはシェリーカスクのウィスキーが数本。周防の食器に文句を言ったが、僕は調理器具はおろか食器すら持っていない。  シャワーを浴びて着替えて、水回りを簡単に掃除して、空っぽの部屋を見た。あとは退去のときに顔を出す程度だろう。  1年前まで、僕も周防と同じレジデンスに部屋を借りていた。それが嫌で唐突に引越してきたのだけれど、家具を用意しようという気にもならず、気づけばこんな展開だ。 「本当にこれで全部か?」 初めて僕の部屋へ足を踏み入れた周防が、何度も確認するくらい荷物は少なかった。 「ここへ引越すときに、だいぶ捨てたから。案外、なくても暮らせる」  周防を性的対象にしてしまったときの僕の動揺の大きさが、捨てた荷物の量と比例している。そのくせ周防が似合うと言って買ってくれたサマーセーターは捨てられず、今も着ているんだからおかしい。

ともだちにシェアしよう!