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第23話

 白いスポーツカーの後部座席とラゲッジスペースに荷物を収め、周防は濡れて光る路面に車を走らせながら、声だけを僕に向ける。 「佐和は、この1年間、一体どんな生活をしていたんだ」 「んー。女性と付き合うのをやめて、見ず知らずの男と乱交してた」  周防は僕の返事に苦笑する。僕も一緒に小さく笑って言葉を続けた。 「周防と出会ってからずっとふたりだったから、ひとりで過ごす時間を持てたのはよかった。周防のいない時間が、いかに無味乾燥で楽しくないかがわかった」  僕の感想に、周防はくすぐったそうに笑い、丁寧なハンドル捌きで右折すると、赤信号で僕の顔を見た。 「だったら、俺と結婚する?」 「はあ? どうしてそうやっていつも飛躍した提案を持ち出すんだよ。結婚はいらない。恋とか愛とか、全然わからないよ、僕は」 洗いざらしの髪に両手を突っ込んで、僕は口から細く息を吐いた。 「いつものところで少し話すか?」 「うん。助かる」  東京タワーを見上げる公園の駐車場で、僕はコーヒータイムに光島さんから言われたことを話した。 「殴る正義とか、殴られて感じる愛情なんて、僕にはわからない」  フロントガラスの向こうは本格的な雨降りで、ワイパーを止めると同時に水滴が転がり、はじききれない雨は流れ落ちて、景色は歪んだ。東京タワーはぼんやりしていて、てっぺんまでは見通せなかった。 「俺も難しいことはわからない。セックスが多様なのと同じように、愛も多様なんだろうとぼんやり思うのが精一杯だ。個人的な理想を言うなら、互いを尊敬し合えて、認め合えて、愛情が深まるごとに優しくしたい気持ちが増えていって、どんなときもそれなりでいられる愛がいい」 「それなり?」  訝しみながら訊く僕に、周防はしっかり頷いた。 「病めるときも、健やかなるときも、富めるときも、貧しきときも……あと何だっけ? 忘れたけど、そういう人生の浮き沈みがあっても、手をつないでいられたらいい」 「周防は相変わらず2週間に1回くらい、ロマンチックなことを言うね」 「思っているだけなら毎日だ」 「ロマンチスト!」 「おっしゃるとおり。佐和はクールなようで、案外純情だよな」 「はっ! 純情!」  僕は鼻で嗤った。周防はそれ以上言い募ることなく、ただ手を伸ばし、僕と交互に指を組み合わせて手をつなぐ。つないだ手をコンソールボックスの上に落ち着け、親指で僕の親指をゆっくり撫でながら口を開いた。 「裏書きされた額面300万円の約束手形を大学に持ってくる学生も、そうそういなかっただろうな」 周防の唐突な思い出話に、僕は噴き出す。 「知らないって恐ろしいよね。光島さんに確認しようって知恵があっただけよかったよ。簿記のテキストで存在を知っていただけで、実物の重みは全然わかってなかった」 「佐和が授業プリントと一緒にクリアファイルに入れているのを見て、佐和がそうするなら、そんなものかと疑わなかった」 「そうだったね。僕、約束手形の実物を見たのは、あのときが最初で最後だ。光島さんが青ざめて『しかも期日(サイト)210日(にひゃくとおか)の台風手形じゃないですか!』って。支払い期日が210日後なことの何が嫌なのかもわからなかったんだから、知らないって本当に恐ろしいよね」  そのときの光島さんの表情を思い出すと、おかしくなってしまう。今なら僕のやらかしたことが、いかにリスキーでとんでもなかったかわかるけれど。 「光島さんには、いろいろ世話になった」  周防の静かな声に、僕は頷いた。 「うん。何にも知らない僕たちに、光島さんはひとつひとつ、僕たちが理解できるようにかみ砕いて、根気よく教えてくれたよね……どうしてこんな終わり方なんだろう。残念としか言いようがない……」  瞬きをするたびに涙が押し出されて、雨粒みたいに頬を転がっていった。目の前にそびえる東京タワーの見えないてっぺんを見上げ、さらなる流出をこらえた。今、僕の手に周防の手のぬくもりがあることが救いだった。 「佐和は純情だ」 「違う、違う。僕はちゃんと狡猾で嫌な大人になってる。純情なんか大学に全部置いてきた」  でも、一度思い出の端っこを引っ張り出したら、マジシャンのカラフルなハンカチのように、次から次へ光島さんと共に歩んできた日々が思い出された。  複式簿記、財務諸表、税金、監査、資金繰り、融資の申込み、ベンチャー支援施策、安価で使いやすい会計ソフト、決算、有益なセミナー、僕たちでも借りられるオフィス、給与の支払い、社会保険労務士の紹介、社内規程の作り方、労使交渉、知的財産、コンプライアンス、叱咤激励と罵詈雑言の聞き分け方、IR、リスク管理、経営企画、身だしなみ、人脈の作り方、CSR、当座預金口座を開設する必要性。 「僕たちを仲直りさせてくれたのも、光島さんだったよね」 「ああ」  2年目の期末に来期の経営方針をめぐって僕たちは大喧嘩した。まだ実家で寝起きしていて行き場がなくて、僕は光島さんのマンションに転がり込んで、一晩中話を聞いてもらった。光島さんは周防に僕を迎えに来るように言って、僕たちの喧嘩の仲裁をしてくれた。  その頃、僕は周防のスピードについていけなくなりそうで焦っていた。ついていけない自分の実力不足や成長の遅さを認めるにはプライドが邪魔をして、しかも周防の人懐っこさと朗らかさが羨ましくて仕方なかった。自分を知らず、ないものねだりばかりしていた。  光島さんがゆっくり周防の話も聞き出してくれて、周防も焦っていることがわかった。早く結果を出したいともがいていて、僕のように着実に足許を固める根気強さがないとコンプレックスを感じていた。  僕も周防も全部ぶちまけたあとは、小さく洟をすすっていて、光島さんはそんな僕たちにコーヒーを淹れてくれながら、にこにこしていた。  コーヒーカップを僕たちの前にひとつずつ置いて、光島さんは自分のコーヒーを飲みながら言った。 「佐和くんも、周防くんも、素直に『うらやましい』、『嫉妬する』と言えばよろしいじゃないですか。ふたりの互いへの嫉妬は、私の耳には『あなたのその部分を心から尊敬しています』、『私はあなたのその部分が大好きです』という意味に聞こえますよ」  それで僕たちはお礼を言って、家に帰った。  帰り道に人の少ない道で、周防がちょっと手をつないできて、『周防のこういうロマンチストなところ、本当に嫌だ』と思った。  でも嫉妬と同じように、嫌だという気持ちも、裏を返せば尊敬や憧れで、僕には恥ずかしくてできないことを、周防は勇気を出して頑張ってくれてるんだと思うと振りほどけず、家の門の前まで、周防の小指に自分の人差し指を少し引っ掛けて帰った。 「ダメだ……いろんなことを思い出しすぎ……っ」  僕の口からは嗚咽まで洩れて、耐えきれずに周防の肩に自分の額を押しつけた。周防は僕の肩をしっかり抱いて僕の髪に頬を擦りつけてくれて、僕は遠慮なく号泣した。 「悔しい、悔しいよ。悔しいよ、周防! 悔しいっ!」  周防は僕の髪に頬をくっつけたまま、何度も頷いた。 「俺も、悔しい……っ。本当に悔しい」 周防の声も、涙で小さく震えていた。

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