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第24話*

 次第に泣き疲れて、涙が止んだ。僕たちはコンソールボックス越しに熱くなった頭をくっつけあって、しばらく一緒にフロントガラスを流れる雨を見た。東京タワーはゆらゆら揺れて、赤と白しかわからなかった。 「佐和。前へ進もう」 周防の声は、まだ涙でかすれていたけれど、小さく洟をすすりながら顔を上げて、僕の頭をぽんぽんと撫でた。 「うん」  顔を上げて周防の顔を見たら、目も鼻も真っ赤で、頬に涙のあとがあって、僕は噴き出した。 「ひどい顔」 「佐和だって」  一緒にバックミラーを覗いたら、ふたりとも同じくらいひどかった。 「顔、洗おうか」  僕がフロントガラスの向こうを指さすと、周防もニヤリと笑って、僕たちは車を飛び出した。  空に向かって顔を上げ、雨を浴びた。肌に当たる雨粒は大きくて少し痛かったけれど、涙は全部洗い流された。僕は両手でゆっくり自分の顔を押さえて気持ちを落ちつけてから、水気を払った。  周防も自分の顔から水気を払い、僕に向かって力強い笑顔と大きな手を差し出した。 「佐和。飛べるか?」 「もちろん!」  僕たちは互いの指を交互に組み合わせて手を繋いだ。 「せーのっ!」  濡れたアスファルトを蹴って、たった一歩の距離だけど、僕たちは力強く前進した。会社名に Thrust という言葉を選んでよかったと思う。  周防は強く僕を抱き締めた。  雨の中の抱擁なんて、やっぱり周防はロマンチストだと思いながら、僕も周防の背中に手を回し、同じ強さで抱き締めた。  周防の部屋に帰宅して、軽くセックスした。  シャワーブースで鏡に向かって立たされて、温かい湯を浴びて身体を温めながら、周防の剛直を受け入れた。僕は目を瞑って顔を逸らしてあまり鏡を見なかったけど、周防はとても興奮したらしく、上擦った声で何度も「佐和、鏡を見て」と言った。 「やだ……恥ずかしい」 「佐和の気持ちよさそうな顔が見える。乳首も真っ赤に腫れてる。俺とセックスしてる姿が全部見える」 「ん……」  写真を撮ったり、鏡を見たり、周防って視覚で興奮を得るタイプなんだなと思いつつ、顔を逸らすついでに背後に立つ周防の耳へ唇を近づけて、鼻に掛かったいやらしい声を周防の耳に流し込んだ。 「周防、気持ちいい……。だいすき」 「俺も大好きだ。佐和のことが大好きだ」 大好き、と言い合うと不思議なことに快感が増した。大好き、大好き、何度も口にしたら、周防に激しく突き上げられた。そのまま絶頂を目指す疾走が始まって、僕は快感に目を眇めながら鏡を見た。  シーグラスのシルバーネックレスだけ身につけて、全裸でセックスをする僕たちは、すごく変な姿。僕の身体は曲線を描き、乳首を尖らせた胸を前に突き出し、男性器を揺らし、周防を求めて腰を後ろに突き出している。周防は僕の肩と腰へ手を置いて欲望のままに腰を振っている。僕はだらしなく顎を下げて口を開け、眉根をきつく寄せて変な声を出していて、周防は歯を食いしばっていた。  ジェットコースターの坂を上るように規則正しく突き上げられて、遊園地全体を見渡す高さまで辿り着くと、そこから一気に快楽のるつぼへ落ちた。僕は落下と浮遊でもみくちゃになって、周防は身体を跳ね上げるように全身で僕を突き上げながら 「佐和!」 と僕の名前を呼んだ。僕はその声を聞きながら白い闇に包まれた。 「うっわー。いかにも『セックスしました』って顔してる……」 「何で事後って肌の色艶がよくなるんだろうな」  シャワーブースから出て、僕たちは洗面台の鏡を並んで覗き込んだ。ふたりとも頬が薔薇色に上気し、照明を受けてピカピカに光っている。泣いたりセックスしたり、今日は顔を赤くしてばっかりだ。 「佐和の荷物を整理してるうちに落ち着くだろう」  甘い倦怠感を引きずりつつ少ない荷物を片づけ、僕たちは昨日に引き続き2日連続で実家へ行った。  両親はまだ帰っていなくて、僕たちは勝手に寿司の出前をとり、周防が冷蔵庫からもずく酢ときゅうりを見つけて酢の物を作り、僕は玉子豆腐とそうめんの吸い物を作った。  水気を切ったそうめんをお椀に盛りつけていたら、周防が背後から僕の腰に両手を回し、肩に顎を乗せて作業を覗き込んで来た。 「俺の好きなやつだ」 「周防は卵と麺を一緒に食べられるものなら、何でも好きだよね。釜玉うどんとか、カルボナーラとか、オムそばとか」 話す僕の頬に、周防の唇が触れた。 「佐和は卵でも麺類でもないけれど、大好きだ」 「そういうの、時間外に持ち出さない約束じゃなかったっけ?」 「ふたりきりのときの俺たちは、常にセックスの前戯か本番か後戯、いずれかをしているのではないかということに思い至った」  頬が触れる距離で、わざと重大発表のように話す姿に、僕は噴き出す。 「僕たち、ずっとセックスしてるってこと? 理性なさすぎ!」 「でも、こうしていると気持ちがいい。ずっとこうしていたい」 首筋に周防の頬が押しつけられて、僕は少し首を傾けたまま、そうめんの盛りつけを再開させた。  肩の上に顎を乗せたままの周防にすまし汁の味見をさせて、結果を頬へのキスで知らされて、僕は鍋に蓋をきせた。 「佐和もキスして」 催促するように頬を見せられて、うわぁ僕たちイチャついてるなぁと思いながら唇で周防の頬に触れたとき、ガラス窓がカタンと揺れた。 「ジョンに見られた」  コリー犬のジョンが後ろ足だけで立ち上がり、黒くて大きな肉球をサッシ窓に押しつけて、笑顔でしっぽを振っていた。 「晩ご飯と口止め料を渡してこよう」  周防は庭へ出て行き、ジョンはスキップするように周防について歩いて行く。  入れ違いに母親が帰ってきた。昨日会った人とは別人に見えるくらい疲れた表情をしている。 「おかえり。お疲れ様」 「朔、お水をくれる?」  左右の耳からイヤリングを外し、手首から細い腕時計を外しながら、盛大なため息をついてダイニングの椅子に座る。 「大変だった?」  ウォーターサーバーの水を注いだグラスをテーブルに置いて、僕も隣の椅子に座った。母は堰を切ったようにしゃべる。 「何が大変って待ち時間よね! 病院は最優先で診てくれて、検査もスムーズで、午後には警察へ行けるようにって、書類もすぐに揃えてくださったけど、それだって大きな病院だもの、あちこち歩き回って大変だったの。さらに警察の手続きに時間が掛かって。弁護士さんは慣れてらっしゃるんでしょうけど。私なんか車イスを押すくらいしかできることがなくて。取調室からは凛々可の泣き声も聞こえてくるのに、何もできずにただ待ってるだけなんだもの」  僕は相槌を打ちながら庭を見た。  周防がジョンの頭を撫でてやり、空気の抜けたボールを片付けて、サッシ窓から部屋の中へ戻ってきた。 「お母さん、お帰り。疲れただろう?」  シンクで手を洗いながら、周防は人懐っこい笑みを向ける。 「ほんと、疲れたわ。今日は謙遜も遠慮もしない!」 「いつもしてないだろ。お母さんのそういう立派な母親ぶろうとしないところ、好きだよ」  キッチンペーパーで手を拭いて、さらに周防はニッコリ笑った。 「うわぁ、周防の点数稼ぎ!」  ニッコリ笑った顔を、もっと見たいと一瞬でも思った自分の気持ちを誤魔化して、僕は周防を囃し立てた。子どもっぽい。 「いい子ねぇ、周防くんは」  母親はようやく笑ってグラスの水に口をつけ、息をついた。 「それにしてもお医者さんも、警察の人も、あんなに怪我をしているのに、全然驚かないのね。『ああ、これは大変だ』と口では言うけど、顔色ひとつ変えないのよ。珍しくないのかしら。肋骨にヒビまで入ってたのに!」 母親は感情を高ぶらせたが、僕と周防は母親の言葉に理解を示すものの、一緒に激高しようとは思わなかった。 「珍しくはないかもね。ウチの会社全体で見たら、お姉ちゃんが初めての事例じゃない。夫が妻の給料を差し押さえて欲しいって経理に直談判しにきたり、元妻が接近禁止命令を無視して乗り込んできたり、ストーカーに待ち伏せされていて帰れないっていう社員を周防とお姉ちゃんが車で送ったり、いろいろ」 「そんなことがあったなんて、初めて聞いたわよ」 母親はグラスの水を飲み干して、目を丸くした。僕をもう一杯水を注いでやり、自分の分もマグカップにも水を注ぎながら、タンクへ入る気泡の音に負けない声で話した。 「言いふらすことでもないかと思って。お姉ちゃんは身内だから介入できるけど、『階段から落ちた』と言い張られたら、それ以上は追及しにくい。なるべく相談には乗るけど」  周防も自分のマグカップに水を注ぎ、シンクに寄り掛かって飲みながら頷く。 「どうしてなのか、俺たちが気づく人は口を揃えて『階段から落ちた』と言うんだよな。お姉ちゃんも最初は俺に『階段から落ちた』と言った」 「僕も『階段から落ちた』って言われてたら、気づいたかなぁ。今回は無理だった気がするけど」  ため息と入れ替えに水を飲む。周防は腕を組みシンクに寄り掛かったまま、優しく低い声で僕の頭を撫でてくれる。 「佐和は弟だから目をくらまされる。こういうのは、他人のほうが客観視できる」 「そういうもん? 結構凹んでるよ、僕」 「本人が必死に隠しているものを暴くのは難しい。俺だって気づいたのは偶然だ」  ただ水を飲んで話していたところへ、父親も帰ってきた。 「朔、私にも水を一杯くれないか」 言いつけて寝室へ着替えに行き、手と顔を洗って戻ってきて母の隣に座り、僕たち3人の顔を見渡す。 「大丈夫かい?」 「全然大丈夫じゃないわ。凛々可の姿を見れば胸が潰れる思いだし、話を聞けば腸が煮えくりかえる思いだし、この先どうなるのかを考えたら怖いことだらけ!」  母親のストレートな感想に、父親は頷き、その背中をゆっくり撫でながら、僕の顔を見た。 「僕は大丈夫。今までの経緯も、これから先の手続きや見通しも大体把握できていると思うし、不安要素はない。それよりも、お姉ちゃんが痛かったし、つらかったと思うから、心身に負った傷が早く回復することを願ってる。あと、弁護士と周防は心配しすぎだと思うけど、一応単独行動は控える。さっき周防の部屋に荷物を運んだ。当面は周防の部屋にいることにする」  父親は僕の言葉にも頷き、周防を見た。いつもならすぐに自分の気持ちを打ち明ける周防が、珍しくためらった。 「話しにくければ、ふたりで話そうか」 父親の言葉に周防はまた少し考えて、それから小さく首を横に振った。 「佐和の前ではかっこつけていたいから、ちょっと言いにくいけれど」 苦笑しながらそう前置きし、マグカップの中の水を一口飲んでから口を開いた。 「裏切る側の人間になるよりは、裏切られる側の人間でいるほうが、ずっといいと思うけれど……。光島がお姉ちゃんを暴力による支配で傷つけたことも、慕っていた佐和の気持ちを裏切って傷つけたことも、俺がお姉ちゃんと佐和を守れなかったことも、全部許せない。光島に対しても、自分に対しても、怒りが収まらない。正直、こんなに激しい怒りは、今までの人生で一度も感じたことがない。そのくらい頭にきてる。暴走しないようにしたい」  そう話す周防の瞳孔は、ブラックホールみたいに底なしに大きく開いていて、周防はその目を隠すようにマグカップの中へ視線を落として水を飲んだ。

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