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第25話

 食事の時間だけはせめて楽しい話をと思ったけれど、結局お姉ちゃんの容態や、それぞれが掴んだ情報を持ち寄って話す時間になってしまった。 「光島は今日限りでSSスラストの担当は外れた。当社関係者との接触禁止と、東京以外のブランチへ異動させることまでは確約をとってある」  コーヒータイムに、周防が資料を見るふりで先方と話し合っていたのは、この件だった。  周防の語気はまだ強くて、目は伏せていた。 「交渉してくれてありがとう、周防。実行されれば、それだけでだいぶ気が楽になる。裁判所から接近や通信を制限する保護命令が出れば、安心材料の上乗せだ」  僕の言葉にも、周防は表情を緩めずに固い声で話し続けた。 「それ以上の処分については先方の規程によるから口出しできないが、逮捕された場合は最低でも戒告、刑事裁判になって禁固刑以上になれば即時解雇だそうだ。公認会計士で禁固刑以上は欠格事由に該当するからな。執行猶予か刑期が満了してから3年経つまで復帰できない」  周防の言い方は、まるでお前なんか禁固刑になってしまえとでも言いたげだった。禁固刑、刑期という言葉を口にすることで憂さ晴らししているような、周防にしては珍しく卑しさを感じる口調が気になった。 「傷害罪で禁固刑まで行くかどうかは、こちらが示談に応じるかどうかも大きく影響するよね」  僕は醤油皿の上にこぼしたイクラの粒を箸でつまんで口に入れながら、肩をすくめた。  周防は低く固い声で両親に訴える。 「弁護士にも話してあるけど、もし示談に応じるなら、会社関係者まで含めた接近禁止を条件に盛り込んで欲しい、というのが俺の要望。お姉ちゃんと一緒に会社を続けていきたいし、光島の顔は二度と見たくない」 「それは僕もお願いしたい。お姉ちゃんの情報を聞き出そうとして、光島さんが社員にしつこく食い下がったりしたら困る。誰もが安心して働ける環境にしておきたい」  僕もその点は同意して頷いて、両親は請け合ってくれたので話は落ち着いたが、周防は終始目を伏せたまま、まるで口の中に魔物を飼っているかのように口を閉ざし、食事が終わるまで言葉少なだった。  好きな人が別の人と結婚したかと思えば、その相手に暴力を振るわれていて、親友はショックを受けて泣いていて、しかもその信頼を裏切ったのは自分の恩人。 「それは、心のコップもあふれるよね」  信頼や前提が崩れる、自分の大切なものや価値観を傷つけられる、悔しい・悲しい・不安などマイナスの感情が心のコップからあふれる、どれかひとつでも怒りを感じるのに、今の周防には全部が重なっている。  僕は時計を見て、周防の怒りの持続時間がずいぶん長いと思った。  人の怒りなんて、通常はほんの数秒しか持続しないはずだ。持続するということは、その怒りを何度も思い出して自分の中で循環させて見つめている、心理的視野狭窄の状態だろうと思う。海底に向かう強い流れに巻かれても落ち着いて抜け出す周防なのに、その彼が抜け出せないほどの怒りに呑まれるなんて、よっぽどだ。 「周防、少し休憩しよう。仰向けになって深呼吸するだけでいい」  僕は自分の部屋へ周防を連れて行った。  本棚にはまだ僕たちふたりの学生時代のテキストやノートがあり、小学生の頃から僕が使い続けた学習机と、周防がどこかのリサイクルショップで手に入れてきたローテーブル、シングルベッドが残っている。そして壁には、A4のコピー用紙にふたりで油性ペンで手書きした『SSスラスト』という、初めての看板。 「こんな狭いベッドに、よく男ふたりで寝てたよね」  寝具は片付けられていて、マットレスの上に直接周防を寝かせ、納戸から持ってきたタオルケットで周防の身体を覆う。  部屋のドアは少し開けたまま、廊下の明かりを淡く取り込み、部屋の電気は消して、僕は床に座って周防に話し掛けた。 「口から細く息を吐いて、鼻からゆっくり吸って」  一緒に深呼吸しながら周防に促す。周防は目を閉じて、素直に深く腹式呼吸を繰り返した。 「苦しそうだね。話、聞くよ」 「……」 「何が一番つらいかな?」  周防は目の上に腕を載せ、しばらく黙っていた。僕が亜麻色の髪を撫でると、ようやくぼやけた声を出した。 「片思いがつらい」  僕は聞き取った言葉がすぐには脳内で言語化できず、周防の口へ耳を近付けた。 「片思い? それはちょっと意外な答えだった。そっか……」 身体の横に投げ出されていた手が探るような動きをしたので、僕は自分の手を差し出した。周防は僕の手を掴んだ。  そして周防は少しずつ話し始めた。 「好きな人がいる。もう10年以上の片思いだ。いつも一緒にいてくれて、仕事でも遊びでも何でも付き合ってくれる。仕事中はクールで痺れるほどかっこいい。プライベートな時間には笑ってくれる。拗ねたり、怒ったり、いろんな表情を隠さずに見せてくれる。俺のくだらない話も相槌を打って聴いてくれて、共感してくれたり、アドバイスをくれたり、バランサーにもなってくれる。でも、恋人同士にだけはなれない。結婚だけはできない」 「そっか。結構近い位置にいると思うし、相性もよさそうなのにね。時期を見て告白しちゃえば?」  周防は小さく嗤った。 「何度もチャレンジしてる。大好きだとはっきり言っても、相手にしてもらえない。『大好き』と言ってくれるけれど、俺が言って欲しい意味合いでの『大好き』とは違う。たぶん、友人や家族に言うような『大好き』だ」  僕の胸は切なかった。僕だって周防に『大好き』って言ってるのに、同じように届いていない。届ける予定もないんだけれど。  周防の声が苦しそうになって、僕の手をぎゅっと握った。 「光島なら仕方がない、自分には敵わない相手だ、そう思って騒がず大人しくしていたのに、このザマは何だ。泣かせやがって。傷つけやがって。強引に奪いに行かなかった自分の不甲斐なさを後悔する。悔しさと怒りで、頭が変になりそうだ。光島に対して、殺意すら覚える」  僕は感情に巻き込まれないように、のんびりした声を出した。 「殺意は困るなー。光島さん程度の人のために、わざわざ周防が犯罪に手を染める必要なんかないと思う。お姉ちゃんも周防に光島さんを殺して欲しいなんて、これっぽっちも思ってないと思うし。……お姉ちゃんのことだから、その気になったら人に頼まず自分で殺す」  僕の言葉に、周防はちょっと笑って頷いて、僕は周防がちょっと笑ってくれたことが嬉しくて、少し明るい声で言葉を続けた。 「一番の被害者であるお姉ちゃんがそれをしなかったんだから、殺意なんて必要ないんだ。そんな余分な怒りや殺意は捨てよう」  周防は頷かなかったけど、声は少し明るくなった。 「佐和は。佐和はもう吹っ切れたのか」  僕は首を傾げて自分の胸の内を探る。 「んー。でも今回、警察に届け出るのも、裁判所に申し立てるのも、示談するのも、離婚するのも、全部お姉ちゃんだからね。落としどころを決めるのはお姉ちゃんだ。ひょっとして『光島さんとやり直します』って言い出す可能性もゼロじゃない。暴力は簡単には治らないから、やめなよって思うし、本人にもそう言うと思うけど、強制はできない。お姉ちゃんが崖から海底に向かうダウンカレントから抜け出してくれることを祈るだけ」 「佐和らしい考え方だ」  周防は親指で、僕の親指を撫でた。僕は頭を撫でられているように自分の気持ちを落ち着けて、自分の思いつきを言ってみることにした。 「あのね、周防。今はみんなが渦に巻かれていて、落ち着いて何かを考える余裕はない時期だけど、きっと1年も経てば舞い上がった砂は落ち着いて、視界はクリアになっていると思う。だから、提案なんだけど。1年後にもう一度告白してみたら? ロマンチックにストロベリームーンの日なんてどう?」 「名案だ」  僕は自分の親指を滑る、周防の親指の感触を大切に味わいながら、『周防とお姉ちゃんが上手くいったら自分の余暇が増えるから、寂しくないように今のうちから乗馬を再開させようかな』と考えていた。

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