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第26話

***  株主総会の日、僕たちはいつも通りの時間に気持ちよく目が覚めた。  前夜に周防が好む対面座位でセックスをした。  身体の中に周防の硬さがあって、動くたびに内壁を突かれてじんじんと痺れて、僕は周防の耳許に口を寄せてたくさんいやらしい声を出し、「周防、気持ちいい」「大好き」と連呼した。  周防もいやらしく腰を動かして僕を翻弄しながら、悩ましげな息を吐き、苦しそうに喘いで、僕の耳に口を押しつけながら「大好きだ」と繰り返した。  汗で糊づけされたように僕たちの肌はぴったりくっついて、そのまま僕の身体は周防の身体へ溶けていくんじゃないかと思った。周防の快感も、僕の快感も、どちらの快感も自分のもののように味わって、溶け合うのが楽しく、いつまでも終わらせたくなかった。  終わりたくなくても身体は高まり、限界を超えて遂げてしまって、離れたくない僕たちは、抱き合ううちに2回目を始めてしまい、ベッドの海で上も下もわからないほどローリングしながら互いの肌へキスをして、逆さまになってしゃぶりあい、溺れそうな快感に喘いでから、うつ伏せになった僕の背に周防が乗っかってきて腰を振った。  顔の横に投げ出していた手の甲に、周防の手が重なって、僕の指のあいだに自分の指を滑り込ませ、僕の手のひらを掴むように握ったまま腰を振るから、周防ってやっぱり2週間に1回くらいロマンチストだと思った。  僕は目を閉じて全身で周防を感じ、全身を周防に満たされて、今朝は凪いだ海のように優しい気持ちだった。 「今日はどんなことでも許せるし、どんなことにも落ち着いて対応できそう」  海色シーグラスのシルバーペンダントの上にワイシャツを着て、周防はワインレッドの、僕はダークネイビーのネクタイを締めて、それぞれの体型に合わせて仕立てたダークカラーのスリーピーススーツを着て、きちんと磨いたプレーントゥの革靴を履く。  僕は髪をオールバックに撫でつけ、個性の強いアンダーリムのメガネをかけた。  毎年、総会当日は緊張で朝食をパスしていたのに、今年は『擦り合わせ』で新聞を読みつつ、きちんと食べることができて、そんな些細なところにも自分の成長を感じて嬉しい。 「今日も1日、よろしくお願いします」 「こちらこそ。よい1日を」  周防としっかり握手を交わし、仕上げにもう一度シナリオを読み込んでから、地下ホールの控室へ行った。 「おはようございます、佐和です。よろしくお願いします」  人の顔と名前は覚えにくいから、しつこく名乗ることにしている。特に監査法人のアドバイザリー部門の担当者は、交代になったばかりだ。 「佐和さん、おはようございます! 一昨日のリハーサルもバッチリだったから、今日もバッチリですよ。佐和さんは取締役席に座っているだけでも、株主の信頼を得られます。馬術やってると姿勢が違いますよね」 「いや、もう10年以上やってないから」 僕の苦笑を打ち消すように、新担当者は首を振る。 「大学1年目の成績がとてもよかったのに、2年目の途中から姿が見えなくなっちゃったから、どうなさったのかと思ったんですよ。まさかSSスラストを創業されていたとは思いませんでした」  新しい担当者は僕たちと年齢が近く、学生時代に別の大学の馬術部にいて、僕が障害馬術をやっていたことを知っていた。論理的なものの考え方をして知識は豊富、実力は充分で、忌憚なく話せるので、いい関係を築いていけそうだ。 「まさか乗馬より夢中になれることがあるなんて。人生、何があるか……」 「佐和。シャーペンの芯、持ってる?」  いつの間にか周防が隣にいて、僕の耳に唇が触れるような近さで話す。 「あるよ。0.9ミリでいい?」  ペンケースから芯を取り出し、周防に渡す。  ジャケットの内側からシャープペンシルを取り出した周防は、芯を1本だけ補充した。 「もっと入れておけば」 「いや。予備が欲しかっただけだから」 そういう通り、芯はすでに何本か入っていて、追加の芯は揺らされてようやく収まった。 「ありがとう、佐和」  そう言う周防は、いつもの朗らかで人懐っこい笑顔を取り戻していた。  僕たちが苦しいと思ったのは、あの日がピークで、事態はすぐに好転した。  光島さんは傷害罪で警察に逮捕されると同時に、監査法人を懲戒解雇された。  配偶者への暴力のみならず、取引先企業の社長秘書へ暴力をはたらき、監査法人の信用を失墜させたとの判断だった。実際、監査法人と話し合ったのは家族ではなく、社長の周防だったから、そういう判断に至ったのも自然かと思う。  警察で72時間の拘留を経て、証拠隠滅や逃走の恐れはないと判断されて釈放されたらしい。  起訴に至るかどうかはまだわかっていないが、光島さんサイドとしては当然不起訴へ持ち込みたい。その大前提として必要な示談の成立を目指して、弁護士を通じて連絡してきていて、今は弁護士同士のやりとりが始まっている。速やかに離婚に応じることは当然として、接近禁止と治療費はこちらの言い分が全て通る見込み、争点は財産分与と慰謝料だと弁護士は見ている。  地方裁判所からの保護命令もすぐに出されて、姉が光島さんに会う可能性はほぼなくなり、今は退院して実家で静養していて、数日のうちには仕事に復帰する予定だ。  僕も筆記用具を整えてジャケットの内ポケットへ入れ、念の為にトイレへも行っておこうと控室を出た。  来場者で混雑する同フロアのトイレは避けて、1階下の駐車場フロアにあるトイレへ行った。  人気のない静かなトイレで用を済ませ、手を洗っていたとき、背後に人が立った。肩の高さにスマホを掲げ、鏡越しに僕を見ている。  白髪混じりのぱさついた髪、顎を覆う無精髭、垢染みたポロシャツ、虹彩の輪郭がはっきりしない淀んだ瞳。  誰だろう? 鏡越しに目を凝らして、ようやくわかった。 「光島さん」 僕が目を見開くのと入れ違いに、光島さんはゆっくり目を細めた。 「私たちの気持ちは通じあっているのに、凜々可が妙な行動をとったせいで、会いにくくなってしまいましたねぇ」 話が全く理解できない。僕は余計なことを言って言質をとられないよう、ただ黙って光島さんの言葉を聞いた。 「毎週のように愛を確かめ合い、私たちの愛は強固なものになっていたのに。独占欲の強い周防くんに誘拐されて、監禁されているのかな? 助けてあげますよ」 「僕は誘拐も監禁も、されていません」  それだけは誤解されたくないと思ってはっきり言ったが、光島さんは僕の言葉に反応を示さず、一方的にしゃべる。 「住んでいたマンションを引き払うよう言われ、周防くんの部屋にいて、外出時は常に周防くんがついている。毎晩のようにセックスの相手もさせられていますよね。『周防、気持ちいい』、『大好き』なんて、心にもないことを言わされて、可哀想に」  訝しんだ表情がそのまま鏡に映った。  光島さんは、陽だまりに丸くなる猫のような笑顔を見せる。これだけ容姿が変わっているのに、笑顔が変わっていないのが却って不気味だった。 「周防くんは、しょっちゅうGPSで佐和くんの居場所を検索して管理する。執着して、先回りして囲い込んで、佐和くんに秋波を送る相手は片っ端から遮って。怖いですねぇ」  穏やかな笑みが僕を包みこもうとする。ついこのあいだまでは、その笑顔が好きだったのに、今は身体から払いのけたくなる気持ち悪さを感じた。 「気持ちが手に入らないなら、せめてそれ以外は全部手に入れようという算段なのでしょうかね。周防くんが佐和くんに抱いているのは、信頼なんかじゃありませんよ。気持ちのわるーい執着と獣のような下劣な性欲です。早く逃げたほうがいい」  そうだ、逃げよう。  僕はトイレから立ち去ろうと一歩を踏み出した。 「送信ボタンを押しますよ」  僕の進行方向に回り込んで、光島さんはスマホの画面を僕の眼前に突き出した。  黒とオレンジで構成された画面。強引に照度を上げたのか、少しざらついているものの、内容は読み取れる。  画面の下半分は人間の肌、丸い尻があり、その狭間に赤黒くぬらぬらとした男の肉茎が挟まっている。根元まで覆うピンク色のコンドームと、さらに手前の濡れて下腹部に張りつく陰毛まで判別できた。  四つん這いで尻を差し出して振り返る男は、顔の上半分をマスカレードマスクで覆っている。 「マスクとエロ下着がドレスコードの日ですよ。思い出してください」  僕は画面を見つめたまま記憶をたどる。あの、お粗末なファントム男。 「佐和くんはいつもマスクを着けていながら、首の付け根のふたつのほくろは隠さなかった。私にだけわかるサインを送ってくれた」 「サイン?」 「佐和くんが私の前を歩いて、そのほくろで自分の正体を知らせてくれるから、私たちは毎週愛し合っていた」 「毎週?」  確かに僕は仮面がドレスコードの日に、毎週あの店へ通っていた。毎回違う仮面を選んで使っていて、誰が常連かなんて覚えていない。しかも、あの店ではセックスさえできればよかったから、周防に捕まった日以外、相手に関してはほとんど記憶に残っていない。毎週セックスしていたと光島さんに主張されても、僕は肯定も否定もできなかった。 「なのに周防くんが佐和くんを壁際に追い詰めて背後から犯して、有無も言わさず店から連れ出してしまった。彼はペストマスクで頭部全体を覆って、他人の印象に残りやすい髪や顔の特徴を隠していましたが、佐和くんを見る目つきですぐにわかりました」  事実とは全く異なるけれど、あの光景を見ていたのは間違いなさそうだった。 「もうすぐ私は佐和くんに近づくことができなくなります。SSスラストとその関係者、佐和家の家族や親戚には一切近づけなくなる。凛々可が弁護士を通じて、そういう条件を出しているそうです。凛々可は私と佐和くんの関係をずっと嫉妬していました。何度も『殴るなら私を殴って。殺すなら私を殺して。ほかの人は関係ない』と。偽善ぶった女だった」  僕は姉の言動に対する凍るようなショックと、姉に暴力を振るった光島さんに対する沸騰するような怒りを同時に胸の内に感じながら、静かに目の前の光島さんの濁った目を見ていた。 「余計な動きをしたら、主要株主のメールアドレスに宛てて、この画像を送信します。『佐和朔夜は不特定多数の男と乱交する趣味がある』と、事実を書いた一文を添える。たったそれだけのことですが、今日の株主総会を混乱させ、SSスラストの株価を暴落させるには充分です。こんなスキャンダルを流出させる脇の甘さも、信用不振につながります。銀行からの資金調達だけで切り抜けるのは、急成長を遂げるSSスラストには苦しい。早速、月末には口座がショートを起こすでしょう。特に毎年6月末は、SSスラストは資金繰りに手を焼く。まだ大株主のメインバンクからは、融資の返事は来ていないはずです。今日の株主総会の成果は、融資の可否に確実に影響する」 今、SSスラストにとって銀行からの資金調達だけでは資金繰りが難しいのも、メインバンクからの融資の返事がペンディングになっているのも、今日の株主総会の可否がその返事に影響するのも、光島さんの言うとおりだった。  光島さんはバッグの中からピアッサーを3つ取り出した。 「佐和くんは右の耳にヘッドセットをつけるから、右耳のこの小さな三角形の軟骨にスピーカーをつけましょう。マイクは耳たぶ、カメラは左の耳たぶに。ボディピアスを愛好する人たちは、この軟骨をトラガス、耳たぶをロブと呼ぶそうです」  市販の消毒液を染み込ませた脱脂綿で僕の耳を拭く。光島さんの指が自分の皮膚に触れて、かさついた感触と体温が気持ち悪い。  光島さんは僕の左手をとり、パイロットウォッチの盤面を見た。 「私たちの愛は強固かつ永遠です。お揃いのダイバーズウォッチを外して意思表示してもなお執着し続ける周防くんから、あなたを逃がしてあげますからね」 僕の耳朶はピアッサーに挟まれた。

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