29 / 172
第28話
交流会も終わりに近づく頃、僕の耳はかなり熱くなっていた。トイレで鏡を見ると、しもやけのように赤く腫れている。
ピアスはいずれも黒のチタンボールに見える。左右の耳たぶは軸の前後ともにボールで、トラガスは外側がボール、耳の内側は釘の頭のように丸く平らになっていた。
「自分で開けないで、最初からウチに持ってくれば、もっとちゃんと開けてあげるのに」
ビル内の皮膚科で文句を言われつつ診察を受け、あちこち引っ張られて痛い思いをして、消毒ジェルのチューブを1本と、鎮痛剤と化膿止めの抗生物質を1週間分もらって、オフィスに戻った。
「17時まで、周防以外入室禁止。電話も取り次がないで」
秘書室に連絡して、ジャケットを上着代わりに応接ソファに倒れ込んだ。
『お疲れ様でしたね。16時55分になったら声を掛けて差し上げますから、ゆっくり休んで下さい』
僕は自分のスマホでアラームを16:54にセットしてから目を閉じた。
鎮痛剤が効き始め、痛みが遠退くのと入れ違いに眠気が訪れる。廊下の向こうを往き来する人たちの立てる物音を耳で捉えつつ、うとうとしていたら、小さなノックと同時にドアが開いた。
衣擦れの音が近づいてきて、目を閉じている僕の傍らに、おそらく周防は片膝をついているだろう。指の背でさらさらと頬を撫でられる感触で、僕は薄く目を開け周防の姿を確認し、少しだけ頭を持ち上げる。
周防が応接ソファに座り、僕はその膝に頭を乗せて再び目を閉じ、自分の目の上に自分の手の甲をのせた。
「大丈夫か?」
「まだ痛い……」
「急にピアスを開けるなんて、どんな心境の変化があった?」
「ちょっと気合いを入れたくなった……かな?」
投げ出していたほうの手に、周防の手が重なり、僕はその手を握って甘えた。
「自分でやらなくても、言えば俺が開けてやったのに」
「ピアス、開けたことあるの?」
「お姉ちゃんのピアスホールは俺が開けた」
「そう」
僕は目が覚めて周防と絡めていた指をほどき、起き上がった。
それから、周防とふたりきりになったら絶対にしようと決めていたことを思い出して、仕方なく座っている周防の腰を跨ぎ、対面座位のように抱きついて、周防の右頬に自分の左のこめかみをぴったり押しつけた。カメラがついた左耳たぶを周防の頬に押しつけるのは、まだ赤く腫れていてできなかったので、周防の首と自分の頬でカメラの視界を遮るようにした。
「お願い。少しこのままでいさせて……」
周防は肩の力を抜き、僕の後頭部を撫でてくれる。
「ねぇ、周防。ニルヴァーナの曲が聴きたい。『Sappy』がいい」
周防は僕を抱き締めたまま自分のスマホを手に持って操作して、『Sappy 』を流してくれた。僕は sad と happy のあいだを揺れ動く音楽を聴きながら、音を立てないように気をつけつつ、周防の首の後ろで文字を入力した。
-----
64
今朝、総会直前、地下4階の駐車場トイレにて光島氏が僕に接触。
あの店での僕の全裸交接写真を所持。
主要株主のメールアドレスへ一斉送信すると脅迫、ピアス装着を強要。
左耳朶カメラ、右耳朶マイク、右トラガス内側スピーカー。
映像は送信のみ、音声通信は双方向。
充電器と充電池あり、毎朝指示により交換。
この話を他者に漏洩した瞬間、意図的に通信が途切れた瞬間、光島氏に身の危険や逮捕等自由が奪われる状況が発生した瞬間に、写真は拡散。
トイレ入口防犯カメラの映像を証拠として押さえて。
僕が途中から録音したボイスレコーダーも預ける。
ボイレコ、トラウザーズ右前ポケット。
すべては僕の軽率な行動が招いた結果です。
迷惑を掛けてごめんなさい。
-----
ニルヴァーナを流すスマホが小さく鳴動し、周防が微かに動く。
しかしそのあとは一切身じろぎせず、声も出さず、しばらくして僕のポケットへ周防の手が忍び込んで、ボイスレコーダーを抜き取っていった。
-----
了解。一緒に対応していこう。俺たちは何も変わらない。大丈夫。
-----
ほっとして身体の力が抜けた僕を、周防が抱き締めてくれる。
「今日はいつにも増して緊張が強そうだった。慰労会はパスして休んだらいい」
頬に柔らかく唇が押しつけられた。
「ううん。大丈夫」
僕も周防の頬に唇を押しつける。
「このままでいたいけれど、電話を1本掛ける約束がある」
「うん」
僕たちは何度も互いの頬にキスをして、名残惜しんで身体を離した。周防は最後にもう一度僕の頬にキスをしてから、部屋を出て行く。
『周防くんは佐和くんを水槽に閉じ込めて、幸せにしてやっているなんて、思い上がりも甚だしい。愚かですね』
『Sappy』の歌詞を都合よく抜粋した光島さんの言葉に、僕は怒りを覚える。「それは周防ではなく、あなたが姉に対してやったことなんじゃないですか」と言いたいのを飲み込んだ。
僕は自分のスマホから『Sappy』を流した。カート・コバーンは、自宅の洗濯室に置いた水槽で亀を飼っていたらしい。飼う自分と、飼われる亀。そこから着想を得て作られた曲だと言われている。
「水槽に入れられても、空気口を開けてもらえたら幸せ、クソまみれの水でもほかの世界なんか知らないから、それで幸せ。それは神の愛に身を委ねる宗教ですね。人間同士の対等な愛じゃない」
結局怒りは収まらず、歌詞になぞらえて光島さんのやり方を批判する僕に、光島さんは穏やかな声を出す。
『すべてを投げ出して身を委ねることができる、そういう大きな愛で、私が佐和くんを包んであげますよ。対等な愛などという智恵も力も持たない愚かな人間の愛しか知らない佐和くんに、私がこれからゆっくり教えてあげます』
「要りません。僕は、宗教は葬式のときだけでいい」
僕は完全には治まらない痛みに苛立ち、もう1錠鎮痛剤を追加して、ミネラルウォーターで飲み下す。
『16時54分ですよ』
僕は光島さんの言葉を無視し、同時に鳴動し始めたスマホのアラームを止めた。
夕方からの慰労会は、周防と僕がホストで、株主総会を完走してくれた経営企画室と総務部の社員とその家族を慰労する。ビルの屋上にあるグランピングレストランでバーベキューを食べつつドリンクを飲みつつ、東京の夜景を見て過ごす。
僕は皮膚科で数日間の禁酒を言い渡されたので、大人しくミネラルウォーターを飲みながら、エプロンをしてワイシャツの袖をまくり、トングを片手に肉や野菜を焼いて、社員とその家族をねぎらった。
「無事に終われたのは、皆さんのおかげです。本当にお疲れ様でした。どんどん食べて。食べ放題だから」
次々に皿に載せて、自分でも肉を口に入れる。鎮痛剤を追加してもなお、硬いものを噛むと左のトラガスが痛くて、ミネラルウォーターで流し込んだ。
周防は飲み物を注いで、参加者全員に声を掛けて歩く。誰とでも笑顔で話せる姿は素晴らしいと思う。
子どもたちとも気さくで、ゲームをやっている男の子の隣に座って画面をのぞきこんで会話しつつ、少し遠巻きに周防を見ている女の子たちにも笑顔で話し掛ける。
「今、アイドルって誰が流行ってるの? 好きなアイドルって誰?」
「えー、キンプリ!」
「キンプリ? それってグループ? 何人組なの? 誰を推してる?」
芝生の上で膝を抱え、笑顔で質問を投げ掛けるうちに、女の子たちは肩をぶつけ合いながら周防に向かって話し始めた。
「この人たち? カッコイイね」
スマホに検索結果を表示させると、女の子たちはわあっとスマホに近寄る。
それぞれが食べたり飲んだりしながら、会話に笑顔と花を咲かせていて、僕は目立たない場所にあるベンチに腰かけて東京タワーを見た。
『相手の好きなものに関心を示す、質問して会話を引き出す、相手の好きなものを誉める。営業マンの基本とはいえ、彼は特に上手い。さらには彫りの深い整った顔立ちに人懐っこい笑顔。あれほど容易く人心掌握できても、一番好きな人の気持ちは私のところにあって、周防くんの手には入らないんですから、世の中というのはバランスが取れていますね』
「なぜ姉と結婚したんですか」
つい話し掛けてしまった。返ってきた光島さんの声は、どこか遠くを見ているようにぼんやりしていた。
『私たちは上手くいっていたのに……、どうして離婚なんて言い出すのか。まだやり直す余地は充分あるのに』
「あそこまでの暴力を振るっておいて、やり直す余地なんてないでしょう」
『躾の途中でした。凛々可が成長すれば、躾は必要なくなります』
僕はため息をついた。
「二度と姉には近づかないで下さい。僕だってもう光島さんには関わりたくありません」
『今はそう思うだけです。本当の愛を知らないから。私は周防くんと違って、きちんと仕留めます。彼は追い詰めるくせにとどめは刺さない。生け捕りにして眺めるだけで泳がせる。なぜそんな中途半端なことをするのか、私には理解できません』
光島さんの言うことは、僕も同意できる部分があった。周防はなぜ姉にプロポーズというとどめを刺さなかったのか。自分の秘書にまでして、1日の大半を一緒に過ごすところまで囲い込んでおきながら、なぜ最後の一手を指さなかったんだろう。
『私は愛する人はしっかりと仕留めますよ、佐和くん。私はいつでもあなたのことを愛しています』
僕は言葉を振り払うように強く頭を左右に振って、一息にミネラルウォーターを呷った。口の端からこぼれて濡れた胸も冷えた。
ともだちにシェアしよう!