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第29話

『トイレについては、カメラとマイクの両方を同時に塞ぐのでなければ、いいことにしましょう。ただしトイレの個室へのスマホ持ち込みは禁止です』 ということで、トイレでは必要に応じて交互に塞ぐことで話がついたが、風呂とセックスに関してはダメだった。 「光島さんに全部公開しながらしろって言うんですか」 『あの店の常連だったくせに、今さらそんな言い分が通用すると思いますか』 そう言われてしまっては、僕は大人しく引き下がるしかなかった。  帰宅して、Tシャツとハーフパンツ姿になると、周防はソファに座り、僕に向かって両手を広げた。 「何か、佐和のおすすめの曲を聴かせて」 僕は周防の指示のおかげで違和感なくスマホを手にして、Coldplay の『Viva La Vida』を流しながら、周防の腰を跨いで抱きついた。  周防は僕を抱き締め、ゆっくり息を吐いて身体の力を抜いた。 「懐かしい曲だ。部活のウォーミングアップのときに先輩が好きでよく流していた」 「流行ったよね。僕も学校行くときによく聴いてた」 「この曲を聴くとプールの端から端までダッシュしなきゃいけない気がする」 「走るの?」 「泳ぐ。ヘッドアップのクロールで。出足(であし)といって、水中で横向きに平泳ぎみたいな動作をして、壁ではなく水を一発蹴って勢いをつけてから進む。最初は全然進まない。『顔上げろ!』ってメガホンで怒鳴られたって、上がらない。溺れ死ぬかと思う」 「ハードそう」 「水中格闘技だ。ボールを持ってる選手にはタックルありだし、水中は見えないからオフェンスとディフェンスの攻防はキツイ。相手より先んじて飛び出して、沈めたり、沈められたり。だから初めて馬術競技を目の前で見たときは、その優雅さに本当に驚いた。同じ体育会とは思えなかった」 「そう言ってたね」 「せっかく水球部がある大学に合格したのに、高校の引退試合で怪我をして、つまらない大学生活が始まったと思ってた。佐和に出会ったのは人生最大の出来事だ」  僕は手に持っているスマホをロック画面にしてから、周防のTシャツの袖をまくり上げ、内視鏡手術を受けた肩の4つの傷跡に、ひとつずつ唇を押しつけた。 「人生最大なんて大げさ。でも僕も周防に会ったときの衝撃は覚えてる。初対面なのに、昔からの友達みたいに話し掛けてきて、断っても断っても次々に代替案を出してきて、頭の回転が早いなって思った」  傷口にキスした僕の後頭部を周防の大きな手が捉え、周防の頬が僕の髪に擦りつけられる。僕はTシャツの袖を直し、また周防の首に縋り付いて、スマホのロック画面を解除した。 「周防が、本当に新人戦を見に来るとは思わなかった」 「練習馬場で、佐和が馬上から俺を見つけたときの表情は今でも覚えている。目玉がこぼれ落ちそうな程に目を丸くした。嬉しかった? 邪魔だった?」 「両方。佐和くん、あのかっこいい人は誰? 紹介して! って女子に食い下がられるのは面倒だった」 「佐和は、馬場馬術をやっていた同い年の彼女と付き合ってた。高校1年のときに同じクラスだった、とんでもない美人」 「僕、そんな話をしたことあったっけ?」 「当たってた?」 「……まあね」 「童貞を捨てたのも、彼女と?」  耳許に軽くからかう声がして、僕は真面目な声で答えた。 「ノーコメント。セックスに関しては、僕ひとりの話じゃない、相手のプライベートまで明かすことになる。とっくの昔に別れていても、一度は縁のあった人だ。そのくらいの礼儀は守りたい」 「その姿勢を、俺も少しは見習ったほうがいい」 苦笑する周防に、僕も周防の首にしがみついたまま、つい笑ってしまう。 「周防はバラしすぎだし、バラされすぎ。しかもいつも相手が違う」 「互いに遊びと割り切ってる。恋人の機嫌より佐和の機嫌だ」  軽い会話を交わしながら、僕たちはスマホに文字を入力していた。 『佐和:この部屋にピアス以外の盗聴器があるらしくて、僕たちがセフレなのを知ってる。その上で、風呂もセックスもピアスを外すのはだめだって』 『周防:暴力に加えて覗き趣味か。見せてやろう』 『佐和:カメラとマイクがあるってわかってて、セックスなんかできなくない?』 『周防:溜め込んだ挙げ句、佐和がひとりでするところを光島に見せる? そんなサービスをするくらいなら、俺と佐和がセックスするところを見せたほうが、嫌がらせにもなって、一石二鳥』 「マジか」 つい声に出してしまって、周防が僕の後頭部をたしなめるように撫で、そのまま腰まで移動して、Tシャツの裾から手を入れてきた。 「佐和をくれなきゃ、いたずらするぞ」 「くすぐったい」 『周防:弁護士には連絡済み。下手な奇襲作戦を実行して写真が拡散したら困るから、まずは証拠を集めて欲しいと。あとで佐和の右耳にイヤーカフをつける。俺が佐和と光島の会話を盗聴して録音する』 『佐和:盗聴に盗聴で対応するってこと? 誰を信じていいかわからなくなりそう』 『周防:自恃(じじ)』  真面目な言葉を送ってきながら、周防の大きな手は僕の肌をゆっくり撫で続けている。脇腹を撫で上げられて、周防にしがみつく僕の力は自然に強くなる。 『周防:急によそよそしくなったら、俺が気づいているのが光島にバレる。全部いつもどおりにしよう』 『佐和:巻き込んでごめんなさい』 『周防:俺は佐和のことが大好きだ。ごめんなさいよりは、ありがとうがいい。カメラに写り込まないように、履歴は全部消して』  僕は最後の吹き出しに書かれた言葉を消すのを惜しく思いながら、周防とのトーク履歴を削除した。周防がバックアップしてるから、僕の履歴は消えても困らないけれど、僕の手許に残しておきたかったなと思う。  周防は僕の両肩を掴んで身体を離し、僕の顔を見て朗らかな笑みを浮かべる。 「そうだ。イヤーカフ。オーダーしていたのができあがった」 「オーダー? いつの間に? そんな時間どこにあったの?」  それは本当に疑問に思ったことだった。どこまで作り話なんだろうか。 「釣り針のペンダントがよかったから、オヤジさんの娘さんに頼んでいたんだ。無事に株主総会が終わったご褒美。最終的な加工は今日の午後に手配して、ついさっき届いた」  最終的な加工ね、と心の中で僕は呟く。  イヤーカフはペンダントと同じシルバーで、波の模様が刻まれていた。  また手書きのメモが添えられていて、僕はつい眉間に皺を寄せる。 ----- 波(スクロール)のモチーフには 「目標や困難(波)にチャレンジして乗り越える」 「永遠に途切れることのない愛」 という意味があります。 ----- 「永遠に途切れることのない愛!」 「ロマンチックでいいだろう?」 「出た。2週間に1回のロマンチスト!」 「思っているだけなら毎日だ」 僕の肩を抱き寄せ、周防は頬に音を立てたキスをする。  それからバスルームに連れて行かれて、鏡の前で僕の右耳にスクロール模様のシルバーのイヤーカフを嵌めてくれた。周防は僕の右隣に立って、利き耳の左側にイヤーカフを嵌めている。  ふたりで並んで立って鏡を見て、僕は軽い目眩を感じた。 「バカップルと呼ばれる人たちでも、ここまでわかりやすいことは、しないんじゃないかなぁ!」  僕はいつでも周防の左側にいないと落ち着かない。周防もわざわざ右側に立つし、僕を助手席に乗せるときに落ち着かないからと、右ハンドルの車を選び続けている。  つまり、僕と周防がイヤーカフをすると、ふたりの内側の耳に真新しい銀色がピカピカと光る。自分たちは見えないからいいとしても、僕たちをふたり相手に話をしなければならない人たちが困りそうだ。 「ちょっと目立ちすぎるよ、周防。何とかならない?」 「つけっぱなしにしていれば、遅かれ早かれ傷がついて艶は消えていくけど。お望みならワイヤーブラシで擦ってみようか」  周防はTシャツをダメージ加工するときのワイヤーブラシを取り出して、僕のイヤーカフをウェスに乗せ、水をつけて一方向に長く滑らせる。次第にアルミホイルの裏側のように艶が消えてきて、僕はほっとした。 「いい感じ。俺のもやろう」 「やらなくていい!」 ぴかぴかのイヤーカフを周防は左耳の少し高い位置に、つや消しのイヤーカフを僕は右耳の少し低い位置に嵌めて、僕はさらに周防の亜麻色の髪で耳を隠して、まぁまぁ許容範囲かなと思うことにした。 「僕たちはペアのものが多すぎるんだ。腕時計とか、ペンダントとか、ボールペンとか、万年筆とか、マグカップとか、財布とか、キーホルダーとか、スマホとか」 「スマホは同じ機種にしておかないと、使いづらいだろう」 「それはそうなんだけど」  機種が違うと、相手のスマホを使いたいと思ったときに操作性が悪い。だから僕たちは常に同じタイミングで同じ機種に買い換えることにしていて、色もたいてい周防が赤、僕が青と決まっている。 「わかった。佐和、来年のストロベリームーンの日に、スマホ以外のペアグッズは結婚指輪に一本化しよう」 僕は頷きかけて、顔を上げた。鏡の中の周防は初めて会った日と同じように人懐っこく、でもちゃんと大人になった顔で笑っている。 「俺は佐和が気に入ったデザインならどんなものでもいい。どんなデザインがいいか考えておいて。来年のストロベリームーンは6月6日だ」  鏡の中で真面目な瞳とぶつかって、僕はたくさん瞬きをしながら頷いた。 

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