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第30話

「佐和、目玉がこぼれ落ちそう」 周防は笑って、僕の目の下に手のひらを差し出し、受け止める仕草をした。  言われて改めて鏡を見たら、黒目の輪郭が全部見えそうなほど、大きく目を見張って、少し口が開いていた。 「佐和には『来年のストロベリームーンの日に』と言われたし、俺もそのつもりでいるけれど、あまりのんびりして、誰かに隙を突いて出し抜かれたら嫌だなと思った」 周防はしかめっ面を作って笑い、僕の頬にキスをする。その顔の近さのまま、僕の両目を真っ直ぐに見て言った。 「正式なプロポーズは、来年のストロベリームーンの日にするけれど、今から宣戦布告だけはしておく」 「そ、そう……」 「来年のストロベリームーンは6月6日。それまでに俺はプロポーズの言葉を考えるから、佐和は指輪のデザインを考えておいて」 「うん。……あの、周防は誰にプロポーズするつもりなの?」  僕の間の抜けた質問にも、周防は朗らかな笑顔で答えてくれた。 「佐和に。佐和朔夜にプロポーズする」 「僕……」 「まだ1年近くある。ゆっくり俺のことを品定めして、落ち着いて答えを考えて。もちろん俺はYESの返事を信じている」  周防はシャワーの栓をひねってお湯でバスタブを温めながら、着ているものを潔く脱いでいく。左右の胸の色づきも、腰骨から始まる鼠径部の男らしい急なラインも、下腹部の叢も、大人しく項垂れている茎も、その下の果実も、全部僕の目に、つまり左耳たぶのカメラに映っているのに、気づかないふりを貫いている。  そのくせ、僕のことは鏡の前からさり気なく移動させ、自分で見下ろさない限りは身体が映らない場所で、ピアスを開けたばかりの耳に触れないように、そっとTシャツを脱がせてくれた。  湯気が立ち込めるシャワーカーテンの内側で、僕たちは互いの髪をたっぷり濡らし、丁寧にシャンプーをした。 「髪の毛を洗ってもらうのって、気持ちいい」  周防の大きな手で地肌をマッサージするように洗ってもらい、トリートメントもつけてもらって、僕はうっとり目を閉じる。  仕上げに左右の頬にキスしてもらって、今度は僕が周防の髪を洗う。  シャンプーの泡が行き渡るようにして、ついでに親指で首の後ろをマッサージしてあげた。 「気持ちいい。佐和に懐きたくなる」 「初めて会った日から、ずっと懐いてるだろう。どこにでもついてくるから、びっくりするよ。時間割まで全部同じ」  大学1回生の時間割は提出日に白紙のまま持って来て、僕が作った時間割をその場で丸写しして提出した。本当にスペイン語でよかったのかなぁと今でも気になっている。周防は語学系に強いから、第二外国語なんて何を選んでも同じように単位を取れただろうけど。 「一目惚れってあるんだなと思った」 目を閉じて上を向いたまま、周防は笑みを浮かべた。 「一目惚れって、10年以上前ってこと?」 「そう。佐和は男は恋愛対象にならなそうだったから、これは片思いだと最初から諦めつつ、諦めないで済むところを片っ端から探して攻めることにした」  乗馬をやる訳でもないのに、部活についてくるし、当時付き合っていた彼女と約束があって断った日は、僕が家に帰ると周防がいて、夕食の準備を手伝って朗らかに笑っていた。 「はあ」  それが、諦めないで済むところを攻めるということだったのだろうか。 「少し調子に乗って、夏至の夜の夢に乗り込んで、1年間も佐和を怒らせ続けたのは反省しています」 「夢に乗り込む……?」  僕は昨年の夏至の夜の淫夢をありありと思い出した。あれは夢じゃなくて、本当に愛撫を受けたということか。夢精じゃなく、ただ射精しただけ? 「今年の夏至もそんな夢を見たけど?」 「お邪魔しました。来年以降も、夏至の夢には力づくでも登場する所存です」  僕は周防の髪の毛なんか鳥の巣になってしまえとぐちゃぐちゃにかき混ぜて、仕上げに水のシャワーをぶっかけた。 「うわっ! 冷たっ!」 「悩み続けた僕の1年間を……」 言いかけて口を噤んだ。  彼が言うとおり、本当に一目惚れで、出会った日から好きでいてくれたのなら。僕が彼の好意を友情と片づけてきた時間や、僕が不機嫌だった1年間に、全部根気よく付き合い続けてくれた、その10年を超える長い長い周防の時間に思いを馳せた。  僕は適温のお湯で周防の髪を流し、毛先を中心に丁寧にトリートメント剤をつけて流し、さらに泡立てたスポンジで全身を丁寧に洗ってあげた。  急に口数が少なくなったので、周防が僕の顔をのぞきこんだ。 「佐和?」 「なんでもない。ううん、なんでもなくないんだ。周防、ありがとう」 「どういたしまして。やっぱり、佐和に言われるなら、ごめんなさいより、ありがとうがいい」 周防は人懐っこい笑顔で両手を広げ、僕を抱き締めてくれた。  今までずっと対等だと思っていたけど、僕は周防という男に全く敵わないのかも知れない。  ピアスホールは、周防が低刺激の泡石鹸をピアスの軸に乗せて、そっと洗い流してくれた。 「トラガスは軟骨だから、安定するまで3か月から半年はかかる。その間、ダイビングは控えたほうがいい」  バスタブの底に栓をして、白く濁る入浴剤を入れ、少しずつ水位が上がってくる中で、周防は僕の頭を撫でてくれた。 「……ごめん。総会が終わったら、潜りに行く予定だったのに」 「ごめんは、なし。『周防、大好き』って言って」 「周防、大好き。……でも、夏休みの予定も変わっちゃう」 「2人きりがいいって言ってただろう。高原の避暑地はどう? 規模の小さな、いいホテルがあるらしい。車で移動して、気になる観光スポットを思いつきで見て回りながら、気ままに行こう」 「運転、大変じゃない?」 「佐和と違って運転は好きだから平気。それにきっと佐和は運転お疲れ様、ありがとうってキスしてくれる」 「うん」  シュノーケリングのときみたいに、周防の胸に背中を預けてバスタブの中に漂った。 「お姉ちゃんにはすぐに見抜かれた。『朔のことが好きなんでしょ』って。そこからいろいろ話を聞いてもらってる。今も」 「今も?」 「焼きそばを作ったときに『毎晩は話を盛りすぎじゃない?』って言うから、『佐和が4日連続で俺と寝てくれた』って」 「バラしすぎ!」 「まだ片思いを貫く覚悟ができていなかった頃は、佐和が寝てから一晩中愚痴ることがあった。俺がクッションを抱えて床を転がって『でもなぁ、好きなんだ』という結論に至るのを繰り返すだけの、お姉ちゃんにとってはただ面倒くさい時間なんだけど。何度もそういうのには付き合ってもらった」  周防が姉の部屋で話し込んでいるのは知っていた。たいていは姉の好きなロックが聴こえていて、部屋のドアは必ず開けられていて、ふたりが密室に閉じこもることはなかった。だから両親もうるさく言わずにいたのだと思う。 「お姉ちゃんが『どうしてもっていうときは、私と結婚したら、朔と兄弟になれるよ』って言うから、それはいいなって。もちろん冗談だけれど、でももしどうしても女性と結婚しなきゃいけない状況になったら、お姉ちゃんと結婚したいというのは、本気だった」 「僕も、周防はお姉ちゃんと結婚すると思っていた」 「結納の前に、お母さんにも言われた。『いいの、大丈夫なの?』って。『俺が一緒にいたいのは、佐和だよ』って答えたんだけど、ただの強がりに受け取られたみたいだ。一度できあがってしまった先入観を打ち消すのは難しいな」  周防は苦笑して、僕の右肩、マイクがあるほうの肩に顎を乗せて、低い声ではっきり言った。 「俺はお姉ちゃんを、お姉ちゃんとしてとても好きだし、尊敬もしている。大切にも思っている。だから、光島がやったことは、絶対に許せない」  スピーカーからの反応は何もなかった。  周防もそれ以上は言わず、また僕を抱いてバスタブの海に漂う。 「佐和のどこが好きなのか、しょっちゅう考える。究極の答えは『全部好き』に、行き着くけれど。そのひとつひとつを考える時間が楽しいんだ」 「はあ」 「一重瞼ですっきりとした顔立ちなのに、目が大きくて童顔。髪の毛はさらさらで、同じシャンプーを使っていてもいい匂いがする。立ち姿が美しくて、どんな服もよく似合う。スーツ姿なんて最高にクールでセクシーだ。特に腰のラインがヤバくて好き」  周防は誰の話をしているんだろう。惚気話を聞かされているようで、くすぐったい。 「頭脳明晰で、冷静に切り分けて解決する考え方は、いつも参考になる。俺と較べて喜怒哀楽の表現は控えめに見える。でも笑顔は最高。サイダーが弾けたような笑顔で、見ているこっちがときめく」  周防は自分の胸の代わりに、入浴剤で隠されている僕の胸を押さえた。 「俺はいつも佐和に会いたいし、会えたら嬉しい。同じベッドに寝ていても、目が覚めて隣に佐和がいると嬉しい」 周防はそう言って、僕のイヤーカフに音を立てたキスをする。 「佐和が読書している姿を見るのも好きだ。本の中に気に入った表現を見つけたときは、涙袋がふっくら盛り上がる」 人差し指が、僕の目の端を優しくとんとんと叩いた。 「気づかなかった」 「好きな癖だから、指摘してやめられたら嫌だと思って言わずにいた。これからもやめないで」  目の端にキスされて、僕は小さく頷いて目を伏せた。 「照れたり困ったりすると、目を伏せる。照れたら真下、困ったら左下を見る。佐和が目を伏せて左下を見たら、俺はちょっと反省する」 「そんなに観察されているとわかったら、緊張しそう」 「佐和だって、俺の癖はいろいろ見ている。俺は気づかないけれど、沈めてやろうと思った瞬間に、なぜかバレてスマホを取り上げられる」 「それはわかりやすいよ。椅子に浅く座って足を組んだら、周防にスマホは持たせちゃダメ。サプライヤーやメインバンク相手に喧嘩するのは最後の手段にしてほしい」 「最後の砦は佐和だから、佐和を怒らせたら処置なし」 「僕は感情抜きで事実だけを話す。代替案も出すし、指摘して警告も発する。話し合いの場も持つ。相手の上役とも話す。それでもダメなら、もうその会社との付き合いは減らしたほうが、お互いのためだ」  僕は当然と頷き、周防は苦笑した。 「その考え方も手法も好きだ。止めるんじゃなく、減らすという考え方もいい」 「僕のほうがそうだと思われがちだけど、実は周防のほうがゼロ100な考え方をするから、即断即決も行き過ぎないように」  周防の手の甲に自分の手を重ねたら、その手が僕の胸の上を這い回った。見つけた胸の粒を濁った湯の中でそっと捏ねる。 「セックスもいい。追いかけてあの店に入って、どんな店か理解したとき、俺にもチャンスがあるかもと思って、嬉しかった」 「嬉しかった?」 「佐和がほかの男を相手にしている姿には嫉妬を感じたけれど、あのファントムの仮面をつけた男に、後ろから本気で突かれてるのに、全然気持ちよくなさそうにしていたのは傑作。溜飲が下がった」  そうだ、ファントム男の正体までは周防に話していなかった。僕は後ろ手に周防の顔を探り、指先で唇を撫でて黙らせた。 「男同士のセックスって、本来はそんなに気持ちのいいものじゃないよ。女性のような器官はないんだもの。……周防と僕の感覚が特別なんだと思う」  僕の指を口に含む周防の舌を、指先でくすぐりながら、僕はこれからしばらくの間、周防と光島さんの板挟みになる日々が続くことを考えて、小さくゆっくりため息をついた。

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