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第32話
朝の新聞読みを終えて、互いの様子をチェックする。
周防は爽やかなスカイグレーのツーピーススーツを着こなし、長い脚をゆったり組んで隙がない。
僕はネイビーにベージュ色のピンストライプが入ったブリティッシュスタイルのスリーピースを着て、いつも通りに髪をオールバックにして、アンダーリムのメガネを掛けているけれど、気持ちが甘く柔らかくなって困っていた。
しかも今日はエナジードリンクを飲んでいて、周防と目が合っても苦笑いするしかない。
「打ち戻しとチェックは俺が行く。佐和は今日は社内で流して」
「そういうの悔しいから嫌だ」
「俺のランチョンミーティングと等価交換だ。インターンとランチを食べながら、夢や希望やキャリアについて、佐和さんの経験談をどうぞ」
「むしろ僕の苦手分野だ」
「今日のインターンはまだ2回生だから、心配することはない。人数も少ないし、気軽な交流会だと思って」
「沈黙の時間が流れることだけは予想できるよ」
とにもかくにも、互いのスケジュールは交換されて、周防は立ち上がると僕に向かって右手を差し出した。
「今日も1日、よろしくお願いします」
「こちらこそ。よい1日を」
握手を交わして周防が部屋を出て行ってから、僕は大きく息を吸って吐いた。ため息とは認めたくないけど、実質ため息だ。
『佐和くん、おはようございます』
右耳に光島さんの声が響いて、僕は背筋が伸びた。
『目が覚めましたか? 私でもお役に立てることがあってよかったです』
穏やかな笑い声が聞こえて、僕は一瞬学生時代の感覚にタイムスリップして笑みを浮かべてしまい、すぐに現在の状況を思い出して表情を消した。
『今日は金曜日です。周防くんが言うとおり仕事を流して、少々のことは気合いで乗り切ってしまいましょう』
無視か相槌かも決められないまま、ラジオのように光島さんの声を聴いた。
『ご褒美は何がいいですか? 今日の夜は取締役会の会食がありますから、そのあとに何か楽しみを設定してください。口に出さなくて結構ですから、正直に思い浮かべて』
口に出さなくていいなんて、ほとんど見透かされているようなものだけれど、僕は正直に周防との時間を思い浮かべた。どんなことをしようか。会話をしてもいいし、しないで沈黙を共有しても居心地がいい。周防がその気になるなら、もちろんセックスもいいけれど、何もしないでただ寝顔を眺めるだけでもいい。周防の寝顔を見るのは、学生時代に隣で机に突っ伏していた頃から好きだ。
『佐和くんと周防くんは、ふたりで1冊のノートを作っていましたね。板書も所感もサマリーも阿吽の呼吸で手分けをして書き込んで、取りこぼしもなく、むしろ1冊のノートを介してディスカッションすることで、講義の理解度を高めていた。そんなやり方をする学生は初めてでした』
言われて、そういえばそうだったなぁと学生時代を振り返る。僕は朝から馬の世話と練習をしていて、周防は夜遅くまで飲んでいて、昼間はふたりとも眠かったから、互いのノートに手を出して補記しあっているうちに、自然にそういうやり方になった。
『さあ、時間ですよ。まずはミーティング5本勝負と参りましょう』
ミーティング5本は担当者と顔を合わせることが目的で、内容は軽い立ち話程度のことしかなく、すべて30分区切りで設定している。
人と関わるのが苦手な僕は、ミーティングルームに入るときに先制攻撃で、自分から発声する。
「おはようございます、佐和です。いかがですか?」
これだけで、大抵は相手がしゃべってくれる。
「昨日はマジできつかったです」
開口一番に出てくる言葉を主軸に、相手の本音と気遣いを聞き分け、聞いた内容のサマリーをオウム返しにするだけで、たいていの面談はどうにかなる。
「そういうチーフって多い? 個人的に話せばいいのか、チーフ全体のスキルアップでコーチングを扱って改めて共通認識を持ってもらうほうがいいのか、どっちがいいのかなと思って」
相談を持ちかけるのも手法だし、問いかけることでさらに相手の話も引き出せる。ただしヒートアップして感情的になり、テーマを見失う前に切り上げるのが、僕にとっては30分という時間だ。内容を掘り下げるために、さらに時間が必要だと判断したときは、別日にもう一度30分の枠を設定する。
ミーティングで聞いた内容をどのルートでどこにフィードバックするのか、誰とどうやって共有するのか、その結果として何を得たいのか、そもそもその作業の目的は何か、それは経営理念のどこと結びつく内容なのか、起案するなら目標をどこに設定するのかを考えていく。僕自身がヒアリングしたものの、その意図を見極められないときは、さらにほかの人に僕の話を聞いてもらうこともある。
「この場合の『効率化』が、質的なものなのか、時間的なものなのか、よくわからないなと思って」
そんなことをしているうちに、ミーティング5本なんてあっという間で、僕は社内カフェの窓際にセッティングされたテーブルへ行く。
大学2回生のインターンが4名テーブルについていて、僕は話しやすい人数でよかったと安堵しながら、全員の顔を順番に見る。
「こんにちは、佐和です。今日は周防が急な案件で外へ出てしまって、申し訳ありません。ピンチヒッターですが、いろいろお話を聞かせていただけたらと思います。よろしくお願い致します」
年下でも学生でも、相手に緊張を強いない程度の礼儀は尽くすべきだ。人として互いに尊重し合うべきだ。そうやって育ててくれた光島さんの話し方を、僕も周防も受け継いでいる。
「今日は全員同じメニューなのかな。オムライスは好きですか? 食べましょう。僕もお腹が空いているから、遠慮なく食べます」
インターンの前にある皿を手で示して促してから、僕もスプーンを手にして、率先してオムライスを口へ運ぶ。
「オムライスにケチャップで文字や絵を描いて遊びますか?」
ちょっとした話題の提供で、インターンたちは次々に自分の経験や観察した気付きを話し始める。
笑顔で盛りあがる頬は昼の光を受けて輝き、大きく開けた口から出てくる声は明瞭で、目の動きは機敏で、僕は彼らを眩しく感じると同時に、とても愛おしいと思った。
経験は少ないけれど、怖い物知らずで、勇気があって、世の中を斜めに見るけれど、精一杯で。
今の僕と大学生の彼らに、優劣があるということではない。コップに満たされた水の分量は同じで、その中身や配分が時間の経過とともに入れ替わり、変化していくだけのことだ。
かつてコップの水に例えた話を聞かせてくれた人の声が耳に響く。
『懐かしいですねぇ。佐和くんにもこんな時代がありました』
僕はつい口許に笑みを浮かべ、真下にそっと目を伏せた。
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