34 / 172

第33話

「『仕事と私、どっちを選ぶの?』って言われたら、何て答えますか、佐和さん?」 油断して水を飲んでいた僕は軽くむせて、紙ナプキンで口を拭い、雫が垂れた空色のネクタイも拭きながら答えた。 「そんな質問をしなくてはいけないほど寂しい思いをさせる前に、ほんの少し仕事の手を止めて、空の写真を1枚撮って送るくらいの余裕は持ちたいと思います」 話しながら、僕は何を言っているんだろうと思った。歴代の彼女に空の写真を送った事なんて一度もないのに。  この空色のネクタイは、周防が買った。  周防が出張先で、僕が買ったばかりのネクタイにコーヒーをこぼし、突然「何色がいい?」とだけメッセージを送ってきた。デスクで数字を追っていた僕は周防の相手が面倒で、何について訊かれているのかも確かめないまま「今日の空の色」といい加減な返事をして、周防は素直に空色のネクタイを買った。そんなエピソードを覚えているから、変な思考になったのだろうか。  でも僕の回答は、まだ恋愛に目を輝かせるみずみずしい学生たちに受け入れられたらしい。肯定的な頷きに、また照れくささを感じつつ水を飲んだ。  周防だったら、もっとロマンチックでウィットに富んだ回答をするんだろうなと思っていたら、僕のスマホが一回だけ鳴動した。  それは信号待ちの間に運転席から写したらしい、目の前の赤信号と、フロントガラスに向かってスマホを向ける周防の姿が映り込んだ、優しく甘い灰色の空の写真だった。  僕はイヤーカフで盗聴されていることを思い出し、「マメな奴」と、つい表情が緩んでしまったのをコップの水を飲んで誤魔化し、そのまま席を立って窓際に立つ。  掴めそうな場所に東京タワーがある空は、雨雲が去り、太陽が輝いていた。学生たちも僕の周りに立って、それぞれに空に向かってカメラを向けた。  互いの画面を見せ合ったら、同じ空を写しているのに、構図も色合いもまったく違っていて、小さな遊びの中にも視点の違いのよさに気づくきっかけがあった。 「佐和さん、恋人に送るんですか?」  僕は質問してきたインターンに、ただ目を細め、唇の前に人差し指を立てて見せるだけにとどめ、送信ボタンを押した。  この窓からは東京タワーだけじゃなく、僕と周防が通っていた大学のキャンパスも見える。隣に立っていたインターンは僕たちと同じ大学から来ていて、小さく見える図書館のてっぺんの時計塔を見ていた。 「佐和さんは、大学に通うのを時間の無駄だとは思わなかったんですか」  僕もインターンの視線を辿って図書館の時計を見た。光陰矢の如し、少年老い易く学成り難し、そんな意味を込めて設置された時計らしいけれど、僕は違う意味を感じている。 「時間は確実に流れるけれど、僕は時間を無駄遣いしたっていいと思います。そのときは無駄だと思っても、その無駄は確実に実を結ぶと実感しています」  僕の言葉は響かなかったようで、インターンは首を傾げた。 「大学に通う意味や、卒業する意味がわからないんです。就職する前の準備期間という意味なら、仕事さえ決まれば辞めていいと思うんです」  その気持ちも僕はわかるなぁと思った。仕事との両立は結構大変で、周防と交代でノートを取って仮眠し、可能な限り代返で切り抜け、成績も上位は目指してなくて、とても褒められた受講態度ではなかった。 「大学に限らず、学校へ通う、卒業するというのは、自分のキャリアというRPGを攻略する手段のひとつにしか過ぎなくて、そのこと自体は目的じゃない。必ずしも卒業資格は必要ではないし、卒業資格を取得する手段はいくつもあります」  僕は高等学校卒業程度認定試験もよく知らず、通信制や定時制で学ぶ手段もほとんど理解しないまま、大学生になった。世の中にはいろんな学歴の人がいて、その背景は千差万別だと知ったのは、仕事を始めていろんな人と出会うようになってからだ。 「卒業を目的にするのは保護者や教員のやることで、本人がそこを目的にしてしまったら、将来の展望は見えなくなって当然だと思います」  自分の子どもの学費を支払い卒業資格を得させよう、受け持ちの学生に単位を取らせて卒業させようと考えるのは、与える立場の人間がモチベーション維持の為に設定する目的だと気づいたのも、僕の正直な父親と母親、そして恩師の話からだった。 「たとえば周防は大学3回生の後期には退学したいと言っていたし、僕も周防なら退学したってやっていけると思いました。ただ、僕が大学を卒業してみたかったんです。その先に何があるのかを見てみたかった。今でも周防はこの仕事に大卒資格は必ずしも必要ないと考えているし、僕も大学を卒業して、将来必要だと考えるスキルについて、大学側と企業側にはある種のミスマッチがあると理解しています」  今日に限ったことではないけれど、いつも自分の話し方は堅苦しくて、周防や光島さんのように寄り添えないもどかしさを感じる。気持ちを込めることも上手くない。せっかく心の澱を打ち明けて見せてくれたインターンに申し訳ない気持ちと、自分が至らない悔しさを感じながら、せめて何かひとつでも、僕に話しかけてよかったと感じられる言葉があればと願う。 「だから必要なのは大学を卒業することの意義を見出すことよりも、その先で何をしたいのかを考えることじゃないでしょうか」  インターンから、わかったような、わからないような、というぱっとしない反応しか得られないうちに時間は終わってしまった。僕は廊下を歩きながら一瞬目を閉じて激しく落ち込んだ。 「ああ、悔しいな……」  周防だったら、光島さんだったら、どんなふうに場の空気を作っただろうか。どんな言葉を投げ掛けて、インターンの心を開かせ、言葉を引き出しただろうか。  結論を出す時間はないまま、ワンフロア下のグループ会社へ足を踏み入れ、挨拶してくれる人に歩みを止める時間もないまま会釈を返して会議室へ入る。  上手く気持ちが切り替わらないまま、僕は会議用テーブルから離れて用意されたデスクに腰かけ、タブレットPCを立ち上げる。  グループ会社とはいえ、よその取締役会にオブザーバーとして出席する意味なんかあるのか、コミュニケーションだけとれていればいいし、何でもいいから結果だけ寄越せ、という僕の本音は、周防になだめすかされ、光島さんにたしなめられて、僕は毎月この席に座る。  よくも悪くも歴史のある会社で、経営陣の刷新を図るという条件で、SSスラストは友好的TOBを実施したのだけれど、何をするにしてもSSスラストの3倍の人を経由しなくてはならず、5倍の時間がかかる。そのコストを人件費で削るやり方も僕は納得していない。  会社の意思決定について情報共有はできていますという証拠作りのためにこの席に座らされ、居並ぶメンツは経営陣刷新、若返りを図りましたと言われても僕の父親くらいの人ばかり。世間を知らない若造だという視線を飛ばされながら何も言わずに過ごす時間は、僕はちっとも面白くない。  この会社とのTOBを決定した周防のバランス感覚を疑うつもりはないし、僕だってSSスラストの5年先まで見越して納得したから交渉を担ったのだけれど、とにかく忍耐力を鍛えられる。  面白くないという先入観があるから、まずばらばら、だらだらと人が集まってきて、のんびり椅子に座る様子から気に食わない。時候の挨拶から始まるアイスブレイクは否定しないが長過ぎる。 「それでは、始めたいと思います。皆様よろしいでしょうか」 10人以上集まるなら、発言者はマイクを使え。 「議題1、中期経営目標の件」  『件』って何だ? もっと具体的に書け。この議題でやりたいことは何だ? 目的は何だ? 担当者は誰だ? 所要時間は何分間だ? 何も明記されていないから、要領を得ない発言とその場の思いつきによる提案の連続で、承認を得るだけでいい内容に15分も使う。意見が出るのはいいことだし、さまざまな視点から比較検討することは大切だ。でも、ただしゃべらせたかったら、レジュメを作る前にしゃべらせろ。会議は社員のガス抜きの場じゃない。会議は承認、承認、承認の連続で進めなければ、時間なんていくらあってもたりない。  僕は我慢できずプレゼンテーション用のソフトを立ち上げてページを作りながら、意図的に自分の腕時計をチラリと見た。議題は重要度の高いものが8個、時間が足りなければ捨てていい議題が12個もあり、予定されている時間は120分。最初の議題に15分使って、その先はどうする?  レジュメの議題が優先順位に従って並んでいるだけ、マシだろうとは思う。でも、僕の120分を使うのに、この会議の内容は酷い。  クセの強い奴が集まるのは歓迎だが、自分の経験を自慢したいだけならほかでやれ。 『怒ってますねぇ、佐和くん』  光島さんの穏やかな声が右耳に響く。 『画面を拝見する限り、会議のやり方を変えろと提案したいんでしょうか? 1年間我慢しましたし、議題も一巡しました。そろそろ5分程度の時間は頂戴してもいいかも知れませんね。たまには暴れてみましょう』  僕はプレゼン画面を作りながら、勝手に耳に流れ込んでくる光島さんの楽しそうな声を聞き流す。 『でも、自分の正義を振りかざしてはいけません。会議というのは文化のひとつです。文化はどのような内容であれ、まずは尊重すべきであり、敬意を払うべきです』  言われてみればそうかな、と少し自分の尖った意識を丸め、冒頭の文章を書き直す。 『佐和くんは、この会議において、あくまでもよそ者。しかも息子のような年齢の若造が、何も知らずにこの会議へ土足で踏み込むのですから、礼儀は尽くすべきです』  年長者だって使えない奴は使えないと思うけれど、光島さんはそういう僕の思考まで見抜いていた。 『ここにいる人たちだって皆、30年前は佐和くんと同じように意気軒昂たる若者でした。だからこそ、この席に座っているんです。そのプライドを打ち砕いて気分がいいのは、佐和くんだけですよ。まずはこの会議のいいところを見つけて褒めましょう。短所も裏返せば長所ですよ。……私の指示を聞けないなら、ここにいる人たちにもあの写真が届きます』  無茶を言うなと思ったけれど、僕は光島さんに指示されるまま、新しいページを立ち上げて、褒めるべき点を10個列挙した。  さらに全部のページをより簡潔で丁寧な内容に、色使いも親和性のあるものに変更させられて、控えている秘書にマイクを用意してもらって会議の終了時刻を待った。 「皆様、お疲れ様でございます。SSスラスト、佐和です。今日は喉の調子がよくないので、マイクを使いますことをお許しください」  光島さんに仕込まれたとおりのセリフでマイクの使用許可をもらい、僕は話した。 「今日もオブザーバーとして、大切な会議にお招きいただき、ありがとうございました。若輩者ではございますが、1年間この会議を拝聴して感じたことを2分間だけお時間を頂戴して、お話しさせていただきたいと思います」  3分でも長い、2分でまとめろという指示には僕も納得して、プレゼンテーションの画面をプロジェクターに映しながら言葉を続けた。 「まず、皆様の経営に掛ける熱意を心よりご尊敬申し上げます。毎月この会議に2時間費やされる、その集中力も労力も大変なものと拝察致します。僕が感じたのは、熱意が会議で生かし切れていないな、もったいないな、ということです。もしよろしければ、レジュメの書き方や、時間配分について、今一度お考えいただけないでしょうか。皆様の頭脳と熱意に感動した僕からの、御社のより一層の発展を願ってのご提案でありますことを、ご理解いただけましたら幸いです」  僕の言葉はやっぱり硬いけど、この会議がよりよくなってほしいという気持ちには偽りがなくて、なんとこのテーブルに座る大人たちは、口許に穏やかな笑みすら浮かべて僕の話を聞いてくれた。 『100点満点中、120点を差し上げます。あとはSSスラストの秘書が先方の秘書と情報交換して、レジュメの作り方を鍛えてくれるのを待ちましょう』  廊下を歩きながら光島さんの言葉を聞いて、レジュメを作るのが一番上手い秘書はお姉ちゃんなんだよなぁ。お姉ちゃんが復帰したとして、左耳のカメラにその姿を映したり、声を右耳のマイクに拾わせるのは嫌だな、どうしようかと思案した。

ともだちにシェアしよう!