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第35話

 帰宅して風呂に入って互いの身体を洗いあい、ピアスホールの消毒をしてもらって、僕は周防が外回りのついでに買ってきたワッフル生地の薄い夏用バスローブを着た。当然という顔で周防もお揃いのバスローブを着ている。  周防はソファに座って、僕に向けて両手を広げた。 「俺の婚約者の今夜の1曲は?」  僕はスマホの中のプレイリストをスクロールする。 「周防の婚約者の今夜の1曲は、Jack Johnson(ジャック・ジョンソン) の『Banana Pancakes(バナナ・パンケーキ)』。明日の天気予報は雨だし、のんびり過ごしたい。何なら起きたらバナナパンケーキを焼こうか」 「雨の中をわざわざ傘をさして、食べに出掛けてもいい。佐和とデートしたい」 「周防がデートできるように、手加減してくれたら」  周防はあっさり提案を翻した。 「ルームサービスにしよう。……バナナといえば、新入生オリエンテーリング2日目の朝。佐和が本を読みながらバナナを食べていて、俺が『佐和の食べ方エロい』って言ったら、『バナナなんて誰が食べたってエロいよ』って。突きつけられた断面に佐和の歯型がついていて、いいなぁと思いながら食べた」 「そんなことしたっけ?」 「俺の歯型がついたバナナを、佐和は本を読みながら全然気にしないで食べていた。エロい目で見ているのも、心臓が肋骨を折りそうなほどバクバクしてるのも、俺だけなんだなぁと思って切なくなった。その切なさもいいと思うから、俺は佐和に惚れているんだと思った」 「出会って2日目にして、周防の胸の内でそんなドラマが展開されていたとは」   アコースティックギターと男性ボーカルで奏でられる、ハワイの海のように明るくゆったりした音楽をスマホから流しながら、僕は周防に抱きついて、カメラのついた左耳を隠した。 「周防、大好き」 「俺も佐和のことが大好きだ」  周防が抱き締めてくれて、僕は素直に甘えた。ゆっくり深呼吸して、彼の髪と皮膚の匂いで肺を満たした。 「周防を尊敬する。人と話すのって、やっぱり難しい」  インターンとの会話、グループ会社の取締役会での会話、アドバイザーとの会話。反省点ばかりが思い浮かぶ。 「俺以外の人と話すのは苦手なままでいい。と、言いたいけれど。佐和は納得しないだろうから、一緒に考えよう」 「うん、ありがとう」 話しながら、僕たちはスマホに文字を打ち込む。 『周防:光島は、何事もなかったかのように話し掛けてくるんだな。驚いた。自分がしたことがわかっていないのか』 『佐和:氏の意図は図りかねる。脅迫らしい脅迫もされないし、有益なアドバイスがほとんどで、逆らったり反抗したりしにくい』 『周防:いたずら目的で、もっと無理難題をふっかけてくると思っていたのに。盗撮と盗聴だけでも、すでに犯罪だけど』 『佐和:来月からお姉ちゃんが復帰したらどうしよう? お姉ちゃんの姿や声を光島氏に伝えたくない』 『周防:真の目的はそこか? 佐和ではなく、お姉ちゃんの様子を見たいのか?』 『佐和:嫌だな。僕、どこか別の場所で仕事をしようかな。コワーキングスペースを借りるとか』  僕の考えに、周防は提案を声にした。 「なぁ、佐和。グループ会社の社員を兼務するのはどう? オブザーバーではなく、飛び込んで内部から変革に着手する」 『周防:下のフロアにもワークスペースを設けて、日中はそこで仕事をすれば、お姉ちゃんとの接触は避けられるし、懸案のコスト削減にも着手できて一石二鳥かと』 「外側で苛立つより、ずっといいかも。僕、やってみたい」 仕事が増える分を、どこで調整しようか。具体的なプランを考えていたら、僕の太腿に周防の大きな手が滑る。 「具体的なプランは関係者とも話し合って月曜日に。それまでは婚約者のことだけを考えさせてあげる」  どうやって、と質問しなくても、その手法は明らかで、僕は与えられる刺激に腰をくねらせた。  もとより僕たちは下着なんか身につけていなくて、互いのシンボルは簡単に触れ合う。 『周防:明日の朝、体調を崩して。佐和が寝込んでいるあいだに、佐和家に事情を話しに行って、お姉ちゃんの様子を見てくる』 『佐和:了解。きっと周防が僕の体調を崩させてくれる』 『周防:履歴を消して。そのかわり、佐和の身体に一晩かけて俺の履歴を残してあげる』 『佐和:ロマンチスト!』  僕は画面からトーク履歴を削除してスマホを手放し、周防のテクニックと身体に溺れた。  激しくされると思っていたのに、優しくされた。  脚の間にかしずかれて、敬虔な表情で肌に唇を押し当てられて、指を絡めて愛撫され、全身を撫でられて、爪先にキスをされて、靴をなくしたお姫さまのように扱われた。  言葉を介さなくても、彼の僕に対する思いが全身の皮膚から浸透してくる。  その思いの強さは肺に水を満たす苦しさがあって、ゆらゆらと揺れながらベッドの底へ沈む身体と、入れ違いに海面に上がる気泡のように浮上する意識がばらばらになって、気づいたときには僕は白い光が満ちる朝の寝室で、腋窩に体温計を挟まれていた。 「ごめん。気絶させるとは思わなかった」  演出でも何でもなく、本当に体温計は僕の平熱を振り切っていて、全身は倦怠感に包まれ、ピアスホールは脈打っていた。  額に冷却ジェルを貼り付けられ、枕元には大量のレトルト粥とスポーツドリンクとミネラルウォーターとバナナが置かれて、周防はチャコールグレーのビジネススーツに着替える。胸元には昨日僕が使っていた空色のネクタイがあった。 「ごめん。終わったらすぐに帰ってくる」  僕は周防の手からバナナを食べた。周防は封を切ったミネラルウォーターを捧げ持ち、僕が薬を飲むのを見守ってから、左右の頬にキスをして出掛けて行った。  僕のスマホには共有が掛けられた画像フォルダがいくつかあって、ジャック・ジョンソンのアルバムを聴きながら、カメラロールでゆっくりと周防と僕の思い出を追った。  赤い乗馬ジャケットを着た僕と、まだ髪が短かった周防が一緒に写っている写真は、記憶していたより顔の距離が近く、笑う頬の筋肉は大きく盛りあがって輝いていた。こんなの、付き合い始めて日は浅いけれどキスとセックスは済ませていて、もっとも気持ちが盛りあがって、身体が満たされている時期の恋人同士と同じ距離だ。 「これでプラトニックだなんて、誰も信じない」  動画のファイルもあって、まだダイビングなんか関心がなかった頃、たぶん父親の車を借りてドライブに出かけた季節外れの湘南あたり。海の色は灰色なのに、ジーンズの裾をまくり上げ、波打ち際で泡立つ水を追ってはしゃいで、風に煽られる髪を押さえて腹の底から笑っている僕が、周防の視点で撮られている。こんなの恥ずかしさを通り越して笑いがこみ上げてくる。  今ならどんなに周防が僕を好きでいてくれたか、胸が痛むほどによくわかる。気づかなかった僕の鈍感さが素晴らしいけれど、唯一無二の親友というポジションは盲点だった。  僕はふと思い出して、自分のフォルダの中から画像ファイルを再生させた。  家庭用ビデオカメラで撮影した映像をテレビで再生して、その画面をスマホで僕が撮影している。そのテレビは周防の実家のテレビで、映っているのは水球の試合だ。 『どれが俺か、わからないだろう』 『わかるよ、周防はわかる』  スマホを構えながら、テレビ画面をさす僕の人差し指が映る。  青いキャップをかぶった彼は早いパス回しで集まってくるボールを片手で掴み、水面から大きくジャンプして、ゴールに向かって速球を投げ放つ。僕は競泳パンツが見えるほど水面から跳び出し、上からゴールを狙う姿を大きく映していて、それが高校時代の周防の雄姿だった。 『強化指定と言ったって、公式のユニフォームが送られてくる程度』  そんなことを言って笑っていたけれど、怪我をした当時は悔しかっただろうと思う。無神経な僕は、その悔しさをどうやって乗り越えたのか訊いたことがある。 『一通りの絶望はして、ふてくされた。結構気持ちはささくれて、急に増えた自由と時間を持て余して、初めて煙草を吸ったのも、健気に励ましてくれた女子を相手にセックスを経験したのもその頃。このまま学費を払って大学進学するか、入学辞退するかの選択は、いろんな人と話し合って決めた。あとはまぁ、佐和の知ってる感じで』  出会った頃の周防は喫煙者で、僕は煙草の煙が嫌いで、僕の実家には灰皿がなくて、周防は僕の実家に居着くようになってから、何となく吸わなくなったように見える。  僕のレンズはずっと周防を追っていて、ゴールが決まると 『周防、すごい!』 なんてはしゃいだ声も入っていて、攻守が切り替わってもボールは追わず、彼が左右に頭を振って、顎の下まで水に浸かって体力を温存している姿のほうを撮っている。 「僕も周防のことが大好きだ」  早く帰ってこないかな。会いたい。  周防の枕を抱いて、頭痛が治まってくる頃に僕は眠気を感じた。隣の部屋に誰かが入居したという話は本当らしくて、壁にビスを打ち込むような音が聞こえる。僕はピクチャーレールもある賃貸なのに、入居早々派手なことをするなぁと思いながら眠りに落ちた。

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