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第36話
僕は昼過ぎまでぐっすり寝て、ガーゼケットと枕を抱えてソファに移動し、バナナを少しずつかじりながら本を読んでいた。
隣の部屋は備え付けの家具を運び出して返却し、新しい家具を運び込んでいるようで、廊下からはスタッフの声が賑やかに聞こえる。
「せーのっ、奥まで行って、右に振って。そこの角、気をつけて! ……待って、待って! ちょっと置こう。毛布敷いて!」
どんな大きな家具を運び込んでいるのか、作業は難航しているらしい。
このレジデンスは高層階にあるから、クレーンでつり上げてベランダから搬入するという手段が選べない。玄関とリビングルームの間口より大きな家具を入れることはできないので、このソファをオーダーするときもサイズをしつこく確認した。
成人男性二人が身体を伸ばしてリラックスできるソファがいいと言われたら、どうしてもそれなりのサイズが必要で、結局パーツを分けて搬入することにした。僕は実際の搬入には立ち会わなかったけど、たぶん室内に運んでから組み立てたはずだ。
「ただいま」
玄関のドアが開いて、掛け声がさらに大きく聞こえ、閉じて小さくなって、周防が帰ってきた。
「おかえり」
周防はジャケットを手に、ネクタイは折りたたんで胸ポケットに入れていて、ワイシャツの第一ボタンが開いていた。ごく微かに僕の好きな香水が香る。
「佐和、熱はどう?」
額に唇をあてて熱を測り、僕のバナナをひとくちかじる。胸元からふわりと汗が香り、バナナを咀嚼する粘った音が聞こえ、飲み込む喉と唇を舐める舌が間近に見える。
「もう平熱。寝過ぎたくらい、よく寝た」
「それはよかった」
互いの頬にキスをしながら話すあいだも、外からは掛け声が聞こえていた。
「待って。そっち先に入れてからにしよう。これ、出して。そこ、どいて!」
「お隣さん、大騒ぎだね」
「ソファを運び込んでいるらしい。このソファも一日がかりだったからな。きっと隣も大変だ。梱包を外したあとのダンボールが廊下に山積み。同じ店でオーダーしたらしい」
「この店のオーダーは融通が利くし、造りもしっかりしていてデザインもいいから、人気があるのかもね」
周防は僕の言葉に対して口を開き、閉じた。
「どうしたの?」
「先にシャワーを浴びてくる。そうしたら今日の1曲を聴きたい。リクエストしていい?」
「いいよ」
「昨日と同じJack Johnson で『Better Together 』」
僕はスマホを操作しながら頷いた。
「僕たちはいつでも一緒にいたほうがいい」
汗と香水の香りが消えて、僕と同じシャンプーとボディソープの香りがする周防の腰を跨いで抱き着いて、僕は左耳を周防の首筋で隠した。
「佐和、大好きだ」
周防の声は元気がなかった。
「周防こそ、体調悪いんじゃない?」
「ん? 佐和で充電するから平気。ロクヨン」
僕のスマホにメッセージが届いた。その長文は用意されていたものらしく、一気に画面を埋めた。
『周防:お姉ちゃんは元気だった。佐和にまで迷惑をかけて、ごめんなさいと。
盗撮、盗聴の件はお父さん、お母さん、お姉ちゃんには伝えてある。
示談は昨日成立した。慰謝料、治療費、財産分与は一括で、同日全額支払われたそうだ。
全てお姉ちゃんサイドの言い分が通ったから、お姉ちゃん本人及び家族、親戚、SSスラスト関係者への接近禁止も盛り込まれている。
ただし、法的拘束力はないので、あくまでも努力目標。
示談書は裁判になれば証拠能力が高いが、現時点で佐和を救う力はない。
弁護士によると、盗撮、盗聴だけで法的に争うのは現時点では難しいとのこと。
証拠を積み上げていくしかないが、いやがらせに該当するかどうか難しい
なお、示談の成立、初犯、社会的制裁(懲戒解雇)を受けている点から、今後は起訴猶予の公算が大きい』
『佐和:ありがとう。光島氏に関しては様子を見るしかなさそうだね。
ごめんなさいなんて、いらないのに。今、お姉ちゃんにメッセしていい?』
『周防:もちろん』
僕は周防と姉と3人で作っているグループのトーク画面に切り替えた。
『佐和:周防から話を聞いた。僕は大丈夫。しばらく会えないけど、心配しないで』
『凜々可:ごめんね』
『佐和:全然平気。ごめんねはいらない。体調はどう?』
『凜々可:だいぶよくなったよ。痣は消えてきてる。まだ笑うと肋骨は痛いけど』
お姉ちゃんは写真を撮って送ってくれた。僕を安心させようと無理に笑っているのが丸わかりだったけれど、弟を安心させようとする気持ちが嬉しかった。
僕は抱き着いていた身体を解いた。
「ねぇ周防。写真を撮ろう。恋人同士っぽい写真って、まだあまり撮ってない」
僕は周防の脚の間に座り、僕の肩の上に顎を乗せる周防と、互いの頬をぴったりくっつけて写真を撮った。休日のふたりの笑顔はふんわりと柔らかかった。
「いつもより、ほんの少し距離が近いだけなのに、照れくさいね」
僕は再び周防に抱きついてカメラを隠し、甘ったるいため息を大げさに聞かせながら、グループトーク画面に戻る。
『佐和:ずっと周防の話を聞いてくれていたんだってね。ありがとう。僕たちのことも大丈夫だから』
写真を送信したら、すぐ既読がついた。
『凜々可:周防くんから少しだけ話を聞いたよ。仲よさそうないい写真だね。お幸せに』
『周防:超しあわせ。今度は惚気を聞かせるから覚悟して』
『凜々可:楽しみにしてるね。周防くんと朔は仲よしなのが一番自然な姿だと思う。ずっと仲よくして。見ているほうも幸せになれるから』
軽くスタンプを送りあって、トークは終わった。
周防個人とのトーク画面に投稿があって、僕は画面を切り換える。
『周防:さっき言いかけてやめた話。お姉ちゃんがこのソファを見て、同じデザインをオーダーしていたんだけれど、今回の件でキャンセルしたらしい。残念がっていたから、快気祝いに改めてソファをプレゼントするって約束した』
『佐和:ソファを残念がる余裕が出てきたのはいいね。お姉ちゃんらしくなってきたかな』
『周防:まだ心身の疲れは残っているから、人事と産業医と相談して最初は60%の短縮勤務から始めようと話した』
『佐和:ありがとう。お姉ちゃんは頑張り屋だから、自分ではセーブしないと思うし、その案はとてもいいと思う』
『周防:いつもお姉ちゃんの頑張りに甘えているから。こういうときくらい、自分ができることは何でもしたい』
『佐和:本当にありがとう。今、負担を掛けている分は、必ず返す』
『周防:俺が困ったときは、いつだって佐和とお姉ちゃんに頼ってる。お互い様。キスして』
僕はトーク履歴を削除して、周防の首筋に唇を押しつけた。
「周防。どこまでキスしていい……?」
湿った吐息混じりの甘ったるい声で訊いたのに、周防は冷たい。
「ほっぺだけ。病み上がりは早く寝たほうがいい」
「平気なのに」
「だーめ。今夜は一緒に我慢」
額をごっつんこされ、近すぎてピントの甘い視界の中で、榛色の瞳と見つめ合う。
「照れるね」
「このタイミングで我に返るのは反則」
両頬を大きな手で挟まれて、額にそっとキスを受けた。
土曜日の夜、僕たちは本当に何もせず、周防の肩に頭を乗せて、大きな手で瞼を覆ってもらって眠りについた。
僕が目覚めたとき、まだ窓の外の光は青白く、周防は健やかな寝息を立てていた。
汗ばむ頬に貼りつく亜麻色の髪を小指の先でそっと剥がしても、まだ気持ちよさそうに眠っていたので、僕はミネラルウォーターと文庫本をバスルームに持ち込んだ。
ピアスを打ち込まれた日に周防が買った入浴剤を入れて、バスタブの中を白濁させ、透き通った水を自分の身体に流し込みながら、何度も風呂の中で読んでふやけている文庫本のページを繰る。
『O・ヘンリーの短編集ですか。佐和くんはいろんな本を読みますね』
光島さんの声が飛び込んできたが、僕は反応したら負けな気がして黙って読書を続けた。
『私のおすすめの本を、いくつか見繕ってお送りしましょう』
「迷惑です。お断りします」
会話の相手はしたくないが、意思は明確に示して、証拠に残しておきたい。
『大丈夫ですよ。書店から直接届けてもらいます。私の手を経ることはありませんから、ご心配なく』
「受け取らずにそのまま破棄か返品させていただきます」
『そうですか。では脅迫するしかありませんね。本を受け取って、読んでください』
「脅迫罪を重ねるつもりですか」
『脅迫と呼べる内容でしょうか。私はただ本を受け取って読んでいただきたいだけです。佐和くんは、学生時代から、いい本をたくさん読んでいました。『星の王子さま』や、フロムの『愛するということ』、フランクルの『夜と霧』、ダンテの『神曲』、パスカルの『パンセ』、ルソーの『エミール』。いつも文庫本を片手に歩いている青年でした。人生についてよく考えていて、大変学生らしい好ましい姿でしたよ』
僕はまた無視を決め込んで、O・ヘンリーのユーモアとペーソスにあふれた文字を追う。
『決して佐和くんの不利になることはしません。私たちは愛しあっているのですから』
光島さんの言葉はそこで途切れた。
夕方、本当に書店の人が本を配達にやって来た。
周防に包みを開けてもらったら、僕が一度は読みたいと思いながら、読むチャンスを逃し続けていた本や、子どもの頃にわくわくしながら読んでいた本、思春期に宝物のように読み返していた本など、つい手を伸ばしたくなる魅力のある本ばかりが出てきた。
「ターキッシュ・ディライトだ」
『ナルニア国ものがたり/ライオンと魔女』の表紙に僕の心は掴まれていた。あの外套を掻き分けて、たんすの向こうの国へ行きたい。
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