38 / 172
第37話
「佐和もターキッシュ・ディライトが食べたい?」
周防の声で我に返る。『ライオンと魔女』までほんの数ミリの距離で手が止まる。
「俺もこの本は好きだった。ターキッシュ・ディライトがどんなお菓子か知らなかったけれど、アスランを裏切ってまで食べたいと思うなんて、どんな味だろうと想像した。エドが白い女王からこのお菓子を与えられるシーンは、俺には少し官能的に思えてドキドキした」
周防は『ライオンと魔女』を躊躇せず取り上げて、製本されたばかりの新しい本を、ごわっと音を立てながら開いた。
「佐和と出会う前に、違う場所で同じ本を読んでいたなんてロマンチックだ」
おどけで笑い、懐かしげに目を細めてページを最後までめくり、本の装丁を眺めてテーブルに置き、次の本も、その次の本も、興味深そうにタイトルや紹介文を読んでは、ページを最初から最後までバラバラとめくる。
『周防くんは、佐和くんの目に触れるもの、手に触れるものは、すべて自分でも確認したい。執着が強いですねぇ』
その声は周防のイヤーカフに届いているはずだけれど、周防は顔色ひとつ変えず、届けられたすべての本を調べた。不審な点はなく、最後の1冊を積み上げると、ぽんぽんと本の山を叩いて、朗らかな笑みを浮かべる。
「なぁ佐和。今夜は久しぶりに読書会をしようか」
昨年、不機嫌だった僕が周防の誕生日にプレゼントしたのは、全自動のコーヒーメーカーだった。周防の近くにいられなくて逃げ出したのに、周防の近くにいられる道具を探して家電量販店を歩き回った。好きな人を思いながらのプレゼント選びは楽しくて、その気持ちが伝わるのは嫌で手渡しはせず、直接この住所へ発送した。
切なさよりも苛立ちが強かった。周防が誰のためにこのマシンを使うのか、誰と一緒にコーヒーを飲むのか。マグカップ2杯分のコーヒーがポットに満ちるまで、周防はどんな会話で時間をつなぐのか。そんな想像をして悲しかった。
今、僕は周防と自分のために、マグカップ2杯分のコーヒーを落とし、その間、周防は背後から僕を抱き締めて、僕の頬や首筋にキスを繰り返す。あのときは想像もしていなかった、とても心地よい時間だった。
周防は輸入食品を扱う店でターキッシュ・ディライトを買ってきて、僕たちは食事も風呂も明日の支度も全部済ませてから、お揃いのマグカップにコーヒーを淹れ、ゆったりとソファにくつろいだ。
クッションを胸の下に抱えてうつ伏せになる僕の脇腹に、床に座った周防の後頭部が触れる。
周防が選んだBGMはカプースチンのピアノ曲集だ。
今、SSスラストのコマーシャルに出演しているピアニストの新譜で、コマーシャル撮影を覗きに行った周防が、サイン入りで頂いてきた。
スウィングするジャズのリズムに乗って、音符や情景よりも数式によって描かれる図形を思い浮かべる不思議な曲を聴きながら、僕たちは本の世界へ潜っていく。
僕は『ライオンと魔女』を読んで、エドよりも先にターキッシュ・ディライトを食べた。白い粉をまぶした柚餅子 のような食感のそれは、頭を殴られるような強烈な甘さと芳香剤をかじっているようなバラの香りがして、完全に思考を停止させられる。
感想も述べずに黙っていたら、周防も手を伸ばしてターキッシュ・ディライトを口に入れた。
「俺、好きかも」
「マジか」
コーヒーを飲んでも洗い流せない甘さと香りに閉口しながら、ふたつめを口に入れる周防を眺めた。
「周防って刺激の強いものに弱い? カフェインとか、こういう味や匂い」
「この世でもっとも中毒性があるのは佐和だ。佐和を知ったら、ほかのものは全て霞んで見える。常に佐和が欲しくてたまらない」
周防はおどけて胸に手をあて、頭を左右に振って見せた。
「ロマンチスト!」
僕は笑ってコーヒーを飲み、読書へ戻った。
選ばれた本はどれも内容が素晴らしく、僕は読書を終えて息をつく。
気づけば午前〇時を越えていて、周防は僕のガーゼケットを身体に巻きつけて眠っていた。頭が僕の身体に触れている。
亜麻色の髪に手を滑らせたら、光島さんの声が聞こえてきた。
『お送りした本は楽しんでいただけたようですね』
僕の手の下で微かに周防は身じろぎをして、僕のガーゼケットを抱えたまま寝返りを打つ。僕は周防の髪を撫で続けた。
『先ほどの話ですが、笑い事ではありませんよ。周防くんの、佐和くんへの依存心の強さは、佐和くんが考えているよりもずっと深刻です。佐和くんが本当に愛しているのは私だと認めることができないで、自分の部屋に閉じ込めています』
僕は光島さんには反応を示さず、ただ周防の髪を撫で続けた。
『周防くんが率先して買い物に出かけるから、外出する用事も思いつかなかったでしょう。先回りして囲い込む、周防くんの手口です』
周防が買い物に出かけてくれたのは、僕が病み上がりだったからだ。僕だってフットワークは軽い方で、思い立てばどこへでも出掛ける。
『この週末は、佐和くんが好きな美術館も公園も図書館も行かず、明日から1週間はまた周防くんの送り迎えで1日中会社の中です』
それは僕が内勤メインの仕事をしているからで、自宅と会社を往復し、1日の大半を会社で過ごす人は僕だけじゃない。
『明日の朝は、自分の足で歩いて、地下鉄に乗って出勤してみましょう。最近、周防くんの車と役員車ばかりで、地下鉄なんて乗っていないでしょう? 普通の感覚を忘れていませんか。ただ出勤するだけでも、得るものはあるはずです』
その言葉は、少し僕の心に刺さった。殊勝な気持ちになったが、ゆっくり息を吸って毅然とした態度で言った。
「自分のことは自分で決めます」
『今の佐和くんは周防くんのあやつり人形です。自分の意思なんてないでしょう。アドバイスを聞いていただけないなら、あの写真を楯にした命令に切り換えます』
僕はため息をつき、アラームが鳴る時間を30分早めた。
「地下鉄に乗るなんて、久しぶりだ」
僕の目の前で、周防は朗らかに笑っている。
『ほら、周防くんは必ずついてくる。どれほど依存しているか、わかるでしょう』
光島さんは言ったが、周防はどこ吹く風といった表情で、灰色のトンネルや中吊り広告、路線図などを見回している。
僕は駅の売店でボンタンアメを見つけて買った。昨晩のターキッシュ・ディライトの甘さと香りは強烈すぎたが、こういう食感自体は好きだ。
箱をスライドさせて、周防に向けると一粒つまんで口へ入れる。30分も早く起きて家を出たのに表情は明るい。
「中学高校は寮生活だったから、外に出ると駅の売店すら新鮮だった」
周防は全寮制の進学校に通っていた。そこで人との距離感やペース配分を身につけたらしいが、朗らかさと人懐っこさは天性のものだろうと思う。
「佐和、見て。花火大会がある。たまには人混みに飛び込むのもいいかも知れない。行こうか」
『周防くんは、常に佐和くんを誘う口実を探している』
「いいね。氷の上に並んでる飴が食べたい。みかんが入ってるやつ」
ガタンと扉が動き、すれ違う列車の音で少しうるさくなったとき、周防が僕の右耳に唇を近づけた。
「かき氷で真っ赤になった舌でキスするのも楽しそうだ」
『今、佐和くんの耳に口を近づけたくて、タイミングを計りましたよ。狡猾だ』
僕は想像するだけでも楽しそうな光景に頷く。
「浴衣、まだ実家に置いてあるかも。探してみようかな」
布を一枚をまといつけるだけの危うさや、乱れる裾、絡む足、忍び込む手まで想像して、僕は目を細めた。
『佐和くんは、すぐ周防くんの提案に乗る。自分から取り込まれにいっては、危険が増すばかりです』
光島さんの言葉が増えるほど、僕にとっては聞き慣れて、ただのノイズになっていった。
ともだちにシェアしよう!