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第38話

 地下鉄の駅からオフィスがあるビルまでは直結しているが、周防の提案で別の出口から頭を出した。  ラッシュタイムを避けて早く家を出たので、オフィスの付近はまだ閑散としている。  高層ビルに囲まれて、見上げる空は幾何学模様、吹きつけるのは方向の定まらないビル風だけど、僕たちは気持ちよく空を見上げ、朝の風を全身に浴びて歩いた。  行き当たりばったり、目についた早朝営業の店はベトナム料理で、僕たちはまだ客のまばらな店内で、具材とスープを選んだフォーを向かい合ってすする。 「ベトナム料理は久しぶり」 「俺も一昨年の旅行以来かも知れない」  その言葉だけで記憶が甦って、レモンを絞りながら僕は吹き出す。 「ダブルルームに案内されるとは思わなかった。スパのメニューもカップル向けだったし、完全に誤解されてた」  部屋のダブルベッドの上には、タオルで作った2羽の白鳥が向かい合ってキスをして、長い首でハートマークを描いていた。スパでは施術の前後に白い花が浮かぶバスタブに2人で一緒に入るように言われ、スタッフはタイマーだけセットしていなくなった。  周防が箸で麺を持ち上げながら苦笑する。 「佐和があの状況を笑って乗り切るとは思わなかった」 「『ドウゾ、ゴユックリ。ラブラブヨー』なんてウィンクして手を振られたら、笑うしかないよね。面白かった」  周防との旅は、いつだって面白い。失敗もハプニングもたくさんあるけど、一緒に攻略していく楽しさがある。見ず知らずの土地で、いきなり野宿する羽目になっても、ふたりで並んで寝袋にくるまれば、自然に腹の底から笑いが込み上げてきて、そのとき見た月が思い出になる。 「僕は、今の状況すら楽しめるかも知れない」 「ん?」 「今の状況は永続しない。何日後か、何ヶ月後か、何年後かはわからないけど、必ず転換期がくる。僕は大丈夫だ」  周防は僕の言葉に左右の口角を上げ、半透明の麺を口の幅いっぱいにすすった。  彼がものを食べる姿も、僕は好きだ。どちらかというと豪快で、食べ物の好き嫌いはあまりなく、気持ちよく平らげる。食べるのも、寝るのも、周防となら死ぬまで何度だって繰り返せると思う。  周防は口の中のものを咀嚼しながら、当たり前のように言った。 「状況は刻々と変化する。浮き沈みに関してはお互い様で、いつでもそれなりに。手をつないでいれば、何とかなる」  僕は周防のわざとぶっきらぼうで温かみのある声音に、胸を打たれながら頷いた。 「周防。愛してる」  唐突な告白に周防は盛大にむせて、トムヤムクンスープでネクタイをダメにした。僕は笑いながらテーブルを拭き、周防は謝りながら咳き込みながら、紙ナプキンで口許を拭って言う。 「佐和、何色がいい?」 「黄色」 紺色のスーツを着ている周防に、僕はボンタンアメのパッケージを見せた。  近隣で黄色のネクタイを扱う店は軒並み11:00開店で、午前中デスクワークの僕は周防にネクタイを貸してあげた。 『ネクタイの数本くらい、ロッカーに常備しているでしょうに。わざわざ佐和くんが身につけていたものを欲しがるなんて、執着心が強い』  光島さんの声を気にすることなく、僕は脱いだジャケットをロッカーに入れる。  その扉側のハンガーにも、数本のネクタイがぶら下がっているけれど、ノーネクタイのまま扉を閉めた。 『ネクタイの色まで佐和くんに決めて欲しがるなんて、依存度が高すぎます』  僕はコーヒーを飲み干し、ベトナムのヒップホップアーティストSuboi(スボイ)のテクニカルな音楽を聴きながら、一気にメールの返信をした。 「佐和さんに来て頂けるなら、百人力です」 グループ会社の役員室で、そんな愛想笑いをしたのは社長だけで、僕は見事に歓迎されてない。  またもイバラの道か、いつになったら平穏は訪れるんだと天井を見上げていたのは、この仕事を始めて3~5年目頃までの話だ。 『変革者はいつでもひとりで歩き始めますが、その人が踏み分けたイバラの道は、いずれ踏みならされて王道になります』  そう、嘆く僕を励ましてくれたのは、この人だった。 「王道になる頃には、また新たなイバラの道を踏まなくてはならない」 『まずは3日、そして3ヶ月です』 そう、その頃には毎日長文メールを送りつけて文句を言っていた人も、僕の存在に慣れてくると知っている。  求める数字や結果、たどり着くまでの方式にはいくつかのプランを考えているが、僕個人としては、佐和がいなかった頃なんて思い出せない、今のほうがずっといいと思ってもらえる成果を上げて、後任へ引き継ぐことを目標にした。 『まずは話を聞きましょう。RPGと同じですね』  僕もそのつもりでした、と口ごたえしたいのを飲み込んで、まずは役員全員と面談の時間を設けた。  それぞれに忙しい中で、僕のような、いけ好かない若造のためにスケジュールを割いてもらうだけでも、なだめたり、すかしたり手間がかかる。  でも、気に入らないからこそ一言言ってやろうという気概につけこんで、スケジュールを切らせた。  コーヒーを飲みながら、腰を据えてしっかりと話を聞く。  予想していたより古典的で、派閥争いは複雑だったが、誰の胸にも現状への不満と、自分なりの正義があったことは救いだ。  しっかり心を動かされる訴えもあって、希望が見える。 「僕、コーヒーはパス」  数日間、朝から晩までコーヒーを飲んで話を聞き、さらに誘われた食事に付き合って、周防に癒される時間は、生姜と黒糖を入れてシナモンを振りかけたホットミルクを飲む。    周防は「味見させて」とマグカップを持ち上げ、僕が口をつけたところに自分の唇を重ねてひとくち含む。 『マグカップの形状まで計算して、狡猾ですね』  風に翻る旗をそのままマグカップにしたようなモダンな形状は、ユニバーサルデザインとは真逆で、ハンドルは右手に持つことだけが想定されている。もし左手の人差し指に添わせたら、ハンドルの傾斜に沿ってマグカップが傾いて、中身が半分くらいこぼれてしまうだろう。  つまり、右手でハンドルを持てば、自然に唇が触れる位置は決まってくる。 「ふうん」 僕は背後にぴったりくっついている周防を横目で見たけれど、視線は合わなかった。 「ねぇ周防。これ、誰の結婚式の引き出物だっけ?」 「誰だったかな……」 「どこで買ったの?」 「デパートの洋食器売り場」  僕は人差し指を動かし、周防の顔を呼び寄せて、その耳に唇を押しつけた。 「周防、愛してる」 唇に触れている周防の耳は一気に熱くなり、僕の身体は抱き締められた。キン、と甲高い金属音が耳に響く。 「佐和。愛してる」  耳から流れ込む声は媚薬となって、僕の身体に広がった。  そのとき、微かなノイズが聞こえた気がした。通り雨のような、ほんの一瞬のノイズ。  僕の耳だけかと思ったけれど、周防も動作を止めていた。 「周防。愛してる」 今度は耳鳴りのような高い金属音が一瞬。 「ねぇ周防。僕にもう一度愛してるって言って」  甘えた声を出してねだり、周防は僕の耳に囁く。 「愛してる」  やはり通り雨のようなノイズが聞こえた。 「周防、ノイズミュージックは好き?」 「好き。ついでに言うと、インダストリアルも好きだ」   「おすすめの1曲は?」 「Nine Inch Nails(ナイン・インチ・ネイルズ)The Hand That Feeds(ザ・ハンド・ザット・フィーズ)』」  お前は飼い主の手に血が滲むまで噛みつけるか? それとも跪き続けるのか? 「なかなか勇ましくていい」 僕たちは、光島さんの手にどこまで鋭く歯を立てていられるか。  甘くてぬるいホットミルクを飲みながら、僕は怒りに満ち溢れた音楽を聴いた。

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