42 / 172
第41話*
周防は音を立てずにドアを開閉し、スクリーンの外側で待機して、薄暗い部屋の中には入ってこなかった。
『佐和、動いて。俺をいかせて』
甘く囁く声を聞いて、僕は自分の茎へ指を絡めて上下に動かした。
目を閉じて、シャツの内側で自分の胸の粒を指先ではじき、右手の指の腹で濡れ始めた亀頭を撫でながら、悔しいなぁと思う。
今さら自分が自慰をするのは構わない。他人を巻き込んでしまったことが悔しい。それも光島さんを尊敬して、光島さんの薫陶を受けて育ってきたであろう人を。
光島さんは、どれだけの人を傷つけたら気が済むんだろう。
教え子を、フォロワーを、妻を、妻の家族を。
裏切られて傷ついた人たちの顔を思い浮かべて、僕の茎が萎えそうになり、慌てて自慰に集中した。
『佐和……佐和……』
声を頼りに記憶を辿る。周防の唇が僕の身体を這う。胸の粒を左右同時につまんでねじられ、さらに唇が立ち上がりかけている僕のものを飲み込んで、僕はたまらずに身体をひくつかせた。唇の輪に扱かれ、熱い舌が絡みついて、ときどき硬く尖らせた舌先で笠のふちを辿り、先端の鈴口を抉る。
「……っ」
周防、と心の中で名前を呼ぶと、いつの間にか自分の手は先走りに濡れて、くちゅくちゅと卑猥な音を立てていた。
テーブルの上のボックスからティッシュペーパーを引き抜き、自分を追い込む覚悟で僕は素早く手を動かした。逃げそうになる腰を据え、自然に眉間に力がこもる顔を伏せて、僕は奥歯を食いしばって声を噛む。
男とセックスするようになってからは、声を出して煽りこそすれ、声をこらえる習慣はなくなっていたので、我慢は苦しかったけれど、その我慢が内圧になって僕の身体から精子を押し出した。
「……っ、は……っ」
快感は弱かったが、精液はそれなりの量が出て、僕はさらにティッシュペーパーを追加して丸め、放出を終えた自分の茎も拭った。
すぐに乾いたバスタオルが腰の上を覆った。
「ありがとう」
向かい側の彼も同じように腰にバスタオルを掛け、その内側で蒸しタオルを使っていた。
僕も蒸しタオルを受け取って、まずはメガネを外してゆっくり自分の顔を覆い、気持ちを立て直してから、汗ばんだ首筋やシャツの内側、下腹部まで丹念に拭いた。足元にたぐまっている下着とトラウザーズを引き上げ、ワイシャツの裾を押し込んで、身なりを整える。ベルトを締めるときに、甘さを厳しく排除したアロマンティックな香りが、ほんの少し自分の鼻に届いて、僕はメガネをかけ直し、手櫛でオールバックに撫でつけている髪を整え直した。
「さっぱりした」
自分の喉から発せられた声は、いつもの落ち着きを取り戻していて、大丈夫だと自信を持った。
ミネラルウォーターのボトルの蓋をねじ切って、乾いた喉へ流し込む。射精したあと特有の倦怠感は残っていたが、眠気に襲われるほどでもない。
「明かりをつけていいか」
周防は表情を変えずに僕と彼の世話を焼き終えて、部屋の明かりをつけ、ロールカーテンを開けて、空気清浄機をフルパワーに設定し終えると、マイクが仕込まれている僕の右側に座った。周防の左耳には、波を彫刻したシルバーのイヤーカフが光って見える。
周防はソファに浅く座り直し、膝の上にくるぶしを乗せる足の組み方をした。お決まりの憤怒のポーズに僕が手を出すと、仕方なさそうに赤いスマホを差し出す。今日の喧嘩相手はスマホの向こうではなく、耳たぶの向こうだけれど。
「佐和。今日から俺たちは2年間の休暇 だ。無人島でもいいし、本場のターキッシュ・ディライトを食べに行ってもいい。大学院でさらに学んでもいいし、生まれて初めての就職活動にチャレンジしてもいい。オヤジさんの手伝いをしながらダイビング三昧というやり方もある。休暇後に戻る先は決めていない」
落ち着き払った声で話す周防の目は静かに伏せられていて、その奥の瞳はブラックホールのように見えた。
「それはバカンスじゃなくて、ジャーニーだね。僕たちは今までたくさん働いたから、そろそろ次の面白いことを始めてもいい」
僕の言葉に周防は頷き、鼻からゆっくり息を吸って、口から細く吐いてから、改めて息を吸って口を開いた。
「光島。あなたがジョーカーとして大事に持ってるその写真には、もう何の価値もない。ステークホルダーを惑わせることも、株価を下げることもできない。俺たちが所持している株はすべて父親の佐和と周防が買い取る。代表権は佐和の父親に移り、今の俺たちには何の権力もなくなる。ただ執務室に座っているだけだ。役員交代については、今、会議室で開催されている取締役会で、正式な承認手続きがとられている」
アドバイザーの彼が小さく肩をふるわせた。周防は僅かに右の口角だけを持ち上げた。
「アドバイザーの彼を脅そうとしても無駄です。彼もこんな目に遭って職場ではやっていけない。俺たちと一緒に旅に出て、何か一緒に面白いことを始めます。……ああ、ピアスなんか、もう外して踏み潰して構わない。光島が送信ボタンを押したら、俺が雇っている探偵がすぐに行動を起こす手筈になっている。具体的には警察への通報。見回したって無理ですよ。探偵は尾行も張り込みも警察より場数を踏んでいるプロですから」
僕はアドバイザーの彼の左右の耳からピアスを外し、床にばらまいて、ひとつずつゆっくりと革靴の踵で踏みつけた。
「ずいぶん佐和姉弟 をいじめてくれた。俺の怒りはこんなものじゃ収まりません。あなたが調子に乗ってくれたおかげで、証拠は山ほど揃えることができました。監査法人のノベルティを装ったバッテリーチャージャーの盗聴器、クローゼット脇のカメラ。隣の部屋に住んで穴を貫通させてカメラを仕掛けるなんて、ずいぶんシンプルな方法を選んだ。これだけ証拠が揃っていれば、いかようにでもできます。もういちど傷害罪で訴えたら、今度こそ起訴。起訴されたら量刑は免れない。凛々可と違って、佐和は示談には応じません。徹底抗戦の構えです。やりあいましょうか?」
トラガスのスピーカーは静かだった。
「いつもと同じように、佐和の耳に向けて話していただいて結構。俺が聞いてることくらい、佐和がインターンと一緒に空の写真を撮るより先に、俺が佐和に空の写真を撮って送った時点で気づいているでしょう」
低く落ち着き払った声が、僕の耳に流れ込み続ける。
「俺が聞いているとアピールしたにもかかわらず、なぜ無視されたのか。佐和のプライベートな画像が拡散されなかったのか。直前に、あなたのスマホから画像データが消されていたそうですね。今はいろんな遠隔操作アプリがある。リベンジポルノを恐れた凛々可が自分の画像を消したくて、入院先の病院からあなたのスマホを初期化していた。クラウド上のバックアップも含めて、全部やったそうです。さすが我が姉の行動力だ」
周防は小さく笑みを浮かべた。
「その後も、佐和のプライベートはすべてあなたに流出していたから、あの画像が1枚消えたところで、状況はさして変わらない。盗聴器はピアスとバッテリーチャージャーの二段構えだし、カメラも追加で取りつけられて、探して破壊しようとした時点で拡散が待っている」
僕のミネラルウォーターに口をつけてから、周防は言葉を続ける。
「俺と佐和がいかに愛しあっているかを知れば、少しずつ現実を受け入れて、諦めるんじゃないかと思っていました。佐和の機嫌次第だが、俺は長期戦で構わない。悪者がひとりいると便利だ。ふたりの目標が明確になって結束力は高まり、仲は親密になる。俺にとっては美味しい話です。実際、俺は佐和と住まいを同じくすることができたのみならず、恋人同士になり、さらには結婚の約束まで取り付けた。10年以上の時間を使ってもできなかったことが、ほんの数週間で全部叶いました」
朗らかに嬉しそうに話すくせに、目は伏せられていた。
「あなたの行動は許せないが、俺にもメリットはあった。警察に突き出すのは簡単だが、逃がしてもいい。直接お話をして、取り引きをしましょう。取り引きに応じずに逃げても、探偵があなたを追って、警察に通報します。よろしいですか、1時間後に大学図書館の時計台でお会いしましょう。なお、佐和の耳からピアスはすべて外させてもらいます。1時間後に大学図書館の時計台でお会いできない限り、あなたは警察に突き出される」
周防は、僕の左右の耳の写真を撮って証拠を残してからピアスを外し、消毒してくれた。ピアスは3つまとめて周防が踏み潰してから、ビニール袋へ入れていた。必要があれば証拠として使うつもりなんだろう。
ピアスが外れた僕は、急に身体の力が抜けた。
ソファに座ったまま、両膝の間に自分の頭を突っ込んで、オールバックに整えていた髪へ両手を突っ込んで、気づけば身体は細かく震え、メガネには水滴が落ちていて、どれだけ力を入れようと思っても、口角が下がる。
「佐和。よく頑張った」
周防が大きな手で背中を撫でてくれたけど、すぐには涙は止まらなくて、たまにはこらえきれない嗚咽も漏らしながら、僕は床に向かい、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
ようやく落ち着いて、僕はバスタオルを手に給湯室のシンクへ頭を突っ込んだ。ぬめる整髪料も自分の顔も全部洗い流し、まだ少し赤い鼻をバスタオルで押さえながら部屋に戻る。
アドバイザーの彼は職場から呼び戻す電話が掛かってきていた。
「ええと。クライアントが来るみたいなんで、とりあえず戻ります」
彼は映画館から出て来たばかりの人のようにまばたきをしながら、現実に対処していた。
「身体は大丈夫? 歩ける?」
「はい」
「光島の件で何かあれば、随時連絡する。面白いことをしたくなったら、いつでも一緒にやろう」
周防は右手を差し出して彼と握手を交わし、彼は意外にしっかりした足どりで部屋を出て行った。
それから約1時間のあいだ、僕と周防は今日のスケジュールを空白にするための作業に追われた。連絡がつかない相手の対応は秘書室に任せて、NR のマークをつけて、僕と周防はSSスラストを飛びだした。
ともだちにシェアしよう!